第78話 1528年「撰銭」
鈴木重勝は岡崎城に伊庭貞説・九里浄椿を迎えて、尾張調略について話し合っていた。
織田信秀を誘引して包囲殲滅する作戦が失敗し、清洲の守護代・織田達勝とあと1年の不戦を確認しあった鈴木家は、武力によらない尾張の攻略を進めることになったのである。
伊庭と九里の一党は、元は中条常隆の居城だった拳母城に入って、大森と知立の対尾張の備えを監督しつつ、尾張の国衆や織田諸家の家臣に接触して尾張内で親鈴木派の構築を目指していた。
「出羽(伊庭貞説)と入道(九里浄椿)においては、先の仕掛けが失敗に終わったは無念なれど、大森周りの者ら、知多の者らをよく手懐けてくれた。先のしくじりを見ても離反する者もなく、すべてその方らの丁寧な調略の功なり。感謝する。」
「そのための支えあればこそ。」
「いやはや、途中からは織田にばれぬよう表立って文や使者が使えなくなり申したゆえ、大変でござりましたなあ。されど、奉公の者から3年かけてじわりじわりと友誼を広めてまいって、いわば相手家中全体と心を通わせるに至ったればこそ、今なお互いに信を置けておるのでしょう。事の初めは、左様、一向衆の狼藉が目に余るものとなりし――」
鈴木家による尾張調略の発端は、対松平戦の一環として松平・織田・水野・吉良の同盟の背後を脅かすために知多土豪に呼びかけたことにあった。
そのための伝手として、津島・大橋氏の一族の長田広正、大高・花井氏の又二郎元信、水野家・中山氏の一族の快翁龍喜和尚といった者らを手懐け、3年間こっそりと東尾張の諸勢力と連絡を取り合ってきたのだ。
九里入道が3年分の思い出話を始めようとしていたため、伊庭は重勝に目配せをし、重勝は「どれ、茶とみかんでも用意させよう」と下人に伝えて話をうやむやにすると、自ら本題を切り出した。
「それで岩倉の者らはどうであろう?気脈を通ずるとはいかぬにせよ、便りを寄越す者はおるか?」
「岡田殿から呼びかけてもろうておりまするが、どうにも動きが鈍くてござりまする。大森の川向いの小坂、楽田村の梶川なる者とは渡りがついておりまするが、多くは犬山の信定の働きかけをすでに受けておるようにて。」
伊庭が無言で首を振る横で、九里が答えた。
鈴木重勝は織田達勝と織田信秀に対抗するにあたって、岩倉城の織田家の切り崩しを試みていた。
岩倉織田家は血筋的には織田の本家で、かつては清洲と並んで守護代相当の地位にあった。永正末期に当主・兵庫助寛広が死去したが、一族全体でなかなか男児に恵まれず、なんとか織田広高を当主に据えたところだった。
しかし、その勢威は衰え、今や清洲の織田達勝が唯一の守護代として振る舞っており、方々から調略の手が伸びていた。
岩倉の調略の際に九里が頼ったのは岡田時常という人物だった。
彼は岩倉織田氏の織田与十郎寛近の娘婿で、大森城からほど近い川村北城を居城としている。しかし、舅・寛近は犬山に隠居した織田信定と懇意にしており、調略は難航していた。
調略に成功したのは自立している土豪が少々。大森北の吉田城・小坂吉俊と、織田の一族で寛貞なる人物の居城・楽田城のそばに住む梶川平九郎だけだった。
小坂は木曽川沿いの前野氏と縁が深いため、九里はかの地に住まう前野氏・坪内氏・蜂須賀氏らとの接触を試みたが、彼らはすでに木曽三川河口を押さえた信秀の影響下にあった。
「拙僧の若かりし頃は、応仁の大乱が諸国に及んでおり申した。尾張においても東軍の清洲と西軍の岩倉は相争うものにて、畢竟、岩倉としては清洲に刃向かう三郎信秀に思いを寄せようというもの。やはり、岩倉よりも清洲を取り込むべきと拙僧は愚考いたし申す。」
「さりとてもう50年も経つぞ?」
「さりとてまだ50年にございまする。今の当主の父や祖父の話にござれば、今川と斯波が争うのも、小笠原右馬助殿と松尾小笠原家が争うのも、北畠と長野が争うのも、みな地続きなのでございまする。」
「左様か……。それがしは父の昔語りを聞くほど会う機会もなく家を分けてしもうたゆえ、そのあたりの機微がわからぬのやもしれぬ。入道の言うことこそもっともなのだろう。」
九里はおのれの言が容れられたことに満足して、茶を一服して続けた。
「大和守殿(織田達勝)は『人情を解し不公平もない穏やかなるご主君』との評判。されど、その平穏を嫌う者がおるのもまた真のこと。
こと若武衛様(斯波義統)は同じ年頃の信秀の猛き様を見て、押し込められておる己が有様に不満を持つようになっておると聞き申した。あるいは若武衛様にそのようなことを囁く者が、すなわち斯波家中にもすでに信秀に通ずる者がおるやもしれませぬ。」
「岩倉を後回しにしても清洲織田家や斯波家の取り込みをせねばならぬか。」
「拙僧の見立てによれば、左様にござりまする。大和守殿も重い腰を上げたようにて、清洲の奉行家から養子をとり申した。信秀を除いて清洲はまとまらんとするように思われまする。」
清洲の奉行である織田藤左衛門尉は信秀の叔父だったが、すでに反信秀色を強めつつある。
織田達勝はそれに加えて先ごろもう一人の奉行である因幡守達広から養子をとり、織田信秀以外の勢力を味方として固めようとしていた。
「美濃より流れて参った福富平太郎なる者を取り立て申したゆえ、この者を清洲に送り守護家・守護代家の内で動かそうかと思うておりまする。」
「よしなに頼む。それがしは知多の方を見ておく。清洲をなびかせるに水野が手掛かりになるやもしれぬしな。快翁和尚に頼みて水野家中の中山何某から切り崩してみん。
沓掛の近藤も家中に加わり、その南の曹源寺には和尚の師がおるという。花井は鳴海のみならず大高の向こうの星崎にも支城を築いておるし、近くの真宗高田・信楽寺もこちらに通じておる。いよいよ大高より東は織田から切り離せたと言えよう。」
重勝の見立てに、伊庭は満足気に頷いた。
◇
三河ではしばらく大きな戦もなく、東三河に至ってはもう10年も他国に攻め入られていない。
東紀伊から船と干鰯の供給を受け、国内の開発と外部との交易はますます進展し、余剰分は国外の大名家から領内の農民にまで広く貸し付けに回され、鈴木家の経済規模は急拡大していた。
これまではその規模に人口の増加が追い付いていなかったが、元の住民も移住者も生活が安定したことで盛んに子をなし、施療院では扱いきれないほどの数の妊婦と乳幼児があふれ、新たに整備された母子院で多くの命が救われた。
10年もすれば三河の人口は2割近く増えて25万人を超え、鈴木家の総収益も遠くないうちに30万石に届くはずである。それは今川家と単独で渡り合えるほどだった。
人も物も増えたが、足りなくなったのは銭である。
すでに三河内の決済は銭ではなく米などの基本的な穀物で行われるようになっており、大口取引の場合は替米手形を発行して官衙講付の蔵本の間での数字上の処理で済ますようになっていた。
銭の不足は全国的なもので、特に堺商人はせっせと質の悪い「堺銭」を作っているが、鈴木家と三河屋は堺に進出しているため、三河にもこの偽銭が大量に流入していた。
明から銭を輸入する以外には現状どうにもならないため、「撰銭令」により堺銭10文が明銭1文と交換できると定められ、堺銭のほかの低質な偽洪武・打平も10文で1文、欠け銭・割れ銭・恵明銭は5文で1文、傷んだ宣徳銭は2文で1文など交換比率が固定された。
一方で、見栄えの悪い堺銭に代わって上質な銭を作ることも試みられた。
宇利で銅山が、田峯で金山が見つかったからだ。鈴木家は堺を通して諸国と交易することを計画しており、特に海外との交易を見据えて、領内で銅や銀の鉱脈の調査を行ったのだ。
しかも庭野学校では『政和本草』などに記された鉛を使って銅から銀を抽出する技術がすでに知識として知られていたことから、その実用化を目指す機運が高まった。
残念ながら宇利の鉱石は銀をほとんど含まなかったが、新技術を実現させようという熱は冷めず、銅銭を自作して流通している私鋳銭と交換し、私鋳銭の方を鋳潰して実験に充てることになった。
この取り組みの実現はあとは時間次第だったが、問題は作った偽銭の方にあった。
鈴木重勝は木版印刷職人や石工を呼んで丁寧に鋳型を彫らせるなどしたため、出来上がった銭の見た目はかなり上等で、明銭に引けを取らなかった。
彼はそれゆえ自信満々でこれを鷹見に見せたところ、返ってきたのは次のような言葉だった。
「なるほど、確かによくできた新品の偽銭でござる。されど、これほど銅の色が鮮やかでは、明のものでないことは一目瞭然ではござらんや?」
かくして、この偽銭は銘を「三河新銭」に変えられ、「銭洗令」と称して堂々と「悪銭10文は新銭と交換のうえ、三河では1文として扱われる」と定められた。
とはいえ、「三河」と銘打たれたこの私鋳銭は、出来こそよかったが、三河の外では価値を持たなかった。
重勝もそれは承知であり、彼はこの銭を三河住民の商取引で使わせ、その代わりに彼らが蓄えていたまともな明銭を回収して自家の外交に用立てようと考えていたのだった。
しかし、誰ともわからない民草が作る私鋳銭ならともかく、明らかに三河鈴木家の作とわかる銭を勝手に作ることは、それが三河内でしか価値を持たないにしても、世間には疑念を以て見られることになるだろう。
◇
三河における商取引は造営中の鷹見新城町でもすでに始まっていた。
かの地では町屋が整えられる横で、屋形打ちと呼ばれる仮設の小屋が立ち並び、市が開かれていた。庭野学校を訪ねてくる識者のために宿も早々に用意され、たいそう活気に満ちている。
視察にやってきた鈴木重勝は鷹見修理亮と談笑した。
「初めから楽座、撰銭、銭洗、三河升、無徳政の御触れを出しておったは、まさしく殿の御英断でござり申した。」
「であろう。途中より新たな触れを出せば、『これまでは別様の仕方がまかり通っておった!』とごねる者が出てくるは必定ゆえな。」
「座の商人どもが徒党を組んで横暴しようとしても、町奉行付の者らを筆頭に『この町ではまかり通らぬ』と、むしろ他の商人どもが立ち塞がるのをしばしば見ておりまする。」
「であろう。」
重勝は得意げに言った。
鷹見新城町で市を開設するにあたって、「三河升令」で度量衡が統一され、柵で囲った市の用地の入場門のところで三河公定升が廉価で販売された。
また、「無徳政令」で徳政をしないことが定められ、身元を証明できれば他国者も当時の低利貸である祠堂銭に準じた2文子(100文につき月利2文、年利24%)で鈴木家から借財でき、戸籍に登録されている三河者は1文子(年利12%)で借財ができるよう定め、それでも破産した場合は夫役で返済するものとされた。
それに加えて「楽座令」で、三河屋を除く商人が何らかの特権を主張することが禁じられる一方、そうした他国商人のうちいくらかは町奉行付の「商人司」に取り立てられた。
それにより鈴木家は、商人同士の連携を妨げつつ、商人司が自らの特権を守るために他の者の特権の主張や不正の取り締まりを自分でするよう仕向けたのだ。
そのため、小身や新興の商人は商人司に味方し、彼らと座商人の関係は緊張することになったが、鈴木家は調停役として一歩引いて振る舞うことで不満の矛先をそらすことができた。
「さても、他にはなんぞ気になることはあるか?」
「ひとつありまする。近頃、妙な形で当家の蔵本の手形が使われておりまする。」
重勝は無言で先を促し、鷹見は思案気な顔で続けた。
「他国商人の中には代価を先に支払っておいて米を受け取らず、替米手形を勝手に売買する者がおるようにございまする。そのせいで、手形の名宛人が違うだとか、手形を小分けにしてくれだとかで、たびたび揉め事ありと聞きまする。」
「なに?それで近頃は米が余っておったのか。」
大きな戦乱もなく、米価の振れ幅も小さく、大名が集める年貢と紐づけられた三河蔵本の手形は信用度が高い。
それに目を付けた一部の商人は、三河を巨大な共通倉庫のように使い、手形を紙幣のように使っていた。三河近郊ならば取引時は手形を交換して、必要な時に物資を搬出するので十分だったのだ。
重勝は不思議そうな顔をした後に、しかしそうした事態の持つ深い意味を悟る前に、何かもっとひどいことに気づいたようで顔面蒼白になって言った。
「いやしかし、それはまずい!持ち出すはずの米がそのままとは知らなんだゆえ、余っておると思うて信濃にも伊勢にも知多にも貸し付けてしまっておる!紀伊にも配ってしまった!」
「しかし、当家全体の収量に比ぶれば些事にて、いざとなれば1年待たせるか、蓄えたる兵糧を回せばよいのでは?」
「いや、銭だけ受け取って品がないのは駄目だろう……。」
重勝の頭には「詐欺」だとか「不渡り」だとかいう言葉が浮かんでいた。
しかし、鷹見の顔に奇妙なものを見るような表情が浮かんでいたことから、落ち着いた重勝は考え直して言う。
「もしや、さほどのことではないのか?」
「それがしから見ますれば、大したことではないかと。」
「……いやはや、取り乱した。さりとて万一があっては困る。源右衛門(鳥居伊賀守忠吉)が紀伊に移った今は、倉は大畑(定近)が勘定しておるな。」
「そうですな。では、大畑殿にやりくりするよう伝えておきましょうか。」
「頼もう。」
一旦言葉を切った重勝は、しかしまだ何やら考える様子で腕を組んでうんうん唸って口を開いた。
「いずれにせよ、銭が足りぬのは同じ。銭は上方や西国に出回っておるゆえ、ここから引き出さねばならぬ。そのためにも、西との伝手を増やし、銭になる商売をますます興すべきなり。」
「そうでございまするな。」
「特に明の品は管領殿のお家が唐土との交易から締め出された今となりては、重宝されよう。どうであろう、三河の薬種や生糸を明物と偽りて高値で売るというのは?」
重勝は大永3 (1523)年の大内氏と細川氏の遣明船同士の争いである寧波の乱の影響をしきりに気にしており、頓珍漢なことを言い出した。
しかし、鷹見は冷静に返した。
「何もせずとも値上がるのならば、わざわざ偽り申さずとも素直にしておればよいのでは?」
「左様か?ふむ、おぬしが言うからには……。まあよい。いずれにせよ、薬種も生糸もよく売れるであろう。西方に売り込むとすれば堺の商人、とりわけ薬種商を取り込んでおくがいいな。」
◇
鈴木家の下で三河が繁栄しつつある一方で、同じ三河でも幡豆郡の吉良領は陰りを見せていた。
東条吉良家の家老・大河内信貞が深刻そうに主君・吉良持清に訴えかけた。
大河内は元は西条吉良家の家臣だったが、主君の長らくの在京中に縁が薄れており、また、一族を引馬戦で今川に滅ぼされており、所領を放棄してまで駿府に移ることはしなかったのだ。
「殿、もはや意地を張ってはおられますまい。」
「うむぅ。そうなのだが……。」
鈴木家は1年に1度挨拶を寄こすだけで、吉良家には一切かかわろうとせず、矢作川を使った商売からも手を引いて、領内に自前で街道を整備し、湊を興していた。喧嘩の種を排除したのだ。
矢作川の物流からの運上が落ち込み、海を見れば小笠原水軍と三河屋商船ばかり。領境の関所の向こう側には人も物もあるが、こちらにはない。
このままでは吉良家が鳴かず飛ばずなのは明らかで、かといって相手の国力は一国を超えるほどであり、戦を起こしてどうにかなる段階はとうに過ぎていた。
従属をせざるを得ない。そんなことは吉良持清にもわかっていた。わかっているが、踏ん切りがつかないでいたのだ。嫡男の持広も渋い顔をしており、思うところは同じなのだろう。
家臣の松井惣左衛門為維は情けない声で言う。
「領境の村の乙名どもは娘を鈴木領の者に嫁がせる許しを度々求めてまいりまする。
かの者らは決して口にしませぬが、それがしは知っておりまする。鈴木の台帳に名があれば、祠堂銭の半分で借財が許され、産女や赤子、貧者や病人も世話されるのだとか。」
鈴木家は戸籍作成にあたって登録を嫌がる者が出てくるのを見越して、戸籍に登録すれば低利貸しや様々な保護が得られると宣伝していたが、それが近隣から貧民を呼び寄せる結果を招いていた。
また、地主も有徳銭の支払いを嫌がるだろうから、納税者には「有徳長者」、継続納税者には「善心大尽」という称号を与え、戸口に飾る称号を記した木札を配ったり、普請の際に顔役に抜擢したり、人心の掌握に努めていた。
こうした格差から富農でも不満を覚える者が増え、貧者には逃散する者も出始めており、鈴木家は吉良家の面目に配慮して逃げた農民をこっそり送り返していたが、領境は落ち着かなかった。
「父上、いえ殿。このままでは我らは鈴木家に呑みこまれてしまいましょう。何もせずともそうなのであれば、身動きとれぬようになってからでは遅く、いっそこちらから話を持ちかける方がまだ立つ瀬がありまする。それがしに腹案ありますれば、お任せいただきたく!」
持清の次男・荒川甲斐守義広が鼻息荒く畳みかける。
持清は大きくため息をついて、荒川に「やってみよ」と一言告げた。
◇
かくして、荒川義広は鈴木家にとある話を持ちかけた。矢作川の治水である。
矢作川は幾筋もの小川に分かれているが、流砂が多く川底が浅いため、頻繁に周りが水浸しになって、しかも流路も度々変わることから、地味は豊かでも安定した農地開発は妨げられてきた。
荒川は鈴木家と治水という長い年月を要する大事業を合同で行うことで、いきなり従属や臣従をせねばならない事態を避けようとしたのだ。
しかも、合同事業とはいえ、所領の規模からいって鈴木家の持ち出し分が多くなるのは間違いなく、荒川は他人の金で自領の農業振興をしようと目論んだのだ。
重勝はそうした意図は知りつつも、三河のさらなる発展に治水が有効なのは確かであるため、許可を出した。
ただし、上流を支配する鈴木家には下流の治水はさほど関係ないため、事業は吉良家が単独で行い、そのための資金を鈴木家が貸したというていで、吉良家はその架空の貸付金の範囲内で鈴木家から人手を雇い物資を購入するという形式を整えた。
この借金の返済期限は50年。治水後に農地が拡大すれば、その収益から返済することとされた。
荒川は50年という数字に現実感を抱くことなく安請け合いをして、矢作川を堤防で囲んで流路を定めるという工事に着手した。
堤防は5年のうちに一通り完成したが、流路が固定されたことで水の量と勢いが増して水害が増えるような場合もあり、吉良家はその後も四苦八苦し迷走することになる。




