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戦国の鈴木さん  作者: capellini
第6章 停滞編「剣が峰に立つ」
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第77話 1528年「梅戸高実」

 尾張国守護代・織田達勝は今川竹王丸の居城・那古野城にやってきていた。

 織田信秀が威力偵察のために尾三境域の沓掛城に攻め寄せて撤退した一件は、清洲の織田大和守家と鈴木家とが和睦交渉をすることになっていた。


 信秀がこのように振る舞ったのは、両家が時間と手間を取られている間に自家の足場を固めたかったからだ。

 加えて、交渉中に鈴木家の野心に触れさせて清洲方に危機感を抱かせるためでもあり、また単純に、織田達勝に遠慮している鈴木と清洲との仲をこじらせてやろうという嫌がらせでもあった。

 形式的にも、鈴木家と不戦条約を結んでいるのは清洲であるし、彼らは信秀の主家でもあるため、両者が交渉するのはおかしくはないが、なんとも納得のいかない話だった。

 信秀の母の兄である大和守家奉行の織田藤左衛門は、信定・信秀父子の尻拭いにほとほとうんざりして、「三郎(信秀)が詫びに来るまではお暇いたす」と言って清洲を退去した。

 一方の鈴木家でも、慎重に準備しておいた信秀包囲網が無駄撃ちになってしまったことで、当主の鈴木重勝はしばらく錯乱してしまっていた。


 そうした問題を抱えながらも、織田方は清洲家老の坂井摂津守、鈴木方は鷹見修理亮が中心となって和睦案が整えられ、この日は織田達勝と鈴木重勝が対面して和睦を正式に決める段取りだった。


「三郎(信秀)も鈴木もなんと迷惑な者どもか!尾張の土豪を取り込むは当家のためにもなるゆえ許しておったが、三郎めは鈴木を呼び込み、あまつさえ後始末を我らに丸投げするとは!鈴木も知多に入り込みおって不戦の約定を何と心得るのか!」


 達勝は何度目かの不満を弟の織田監物広孝に零した。

 信秀が尾張の国人を織田方に降すにあたっては、建前としては織田達勝に従わせるという形をとっていたため、達勝は信秀の行動を許していた。

 これまでは、そのせいで鈴木家と軍事衝突に至ることもなかったし、自勢力の拡大のためと思って見逃していたのだ。

 弟・広孝は兄の怒りに理解を示して言う。


「信秀の申し分をそのまま聞けば尾張の土豪に臣従を求めただけという。鈴木は助けを求められて見捨てるは自家の信に関わるゆえ致し方なしという。

 いかにもそうでしょう。しかし、さにあらば、信秀は自ら後始末すべきであるし、鈴木も沓掛はともかく知多に兵を出すは行き過ぎなり。」

「いかにもその通りである!」

「とはいえ、幸い鈴木の家老(鷹見修理亮)は道理を弁えており、知多から兵を引かせ申した。岩崎の城は丹羽の、平島の城は花井のものとなり申したが、有脇の城は水野が取り戻し、知多の国人一揆に銭を与えて和平と相成り申した。これでまた落ち着くことでしょう。」

「ううむ、あと1年と少々の不戦も確かめ合うことができたし、その限りでは確かに鈴木は素直に見えるが……。」

「鈴木に野心がないとは言えませぬ。『鈴木の動きは守りを固めるにしては過剰』との信秀の言は、これに限っては確かなこと。気を許してはなりませぬぞ。」

「しかし鈴木は主家の今川と異なりて斯波や織田と争う理由がない。今川も代替わりしたばかりで、すぐには攻めて来まい。

 ここは、先に三郎を叩いて己が立場を思い知らせ、その上で織田の総力を以て三河を切り取るのがよかろう。それまでは敢えて三河と争う必要もあるまい。いかが思うか?」

「尾張の南と東の連中の旗色も明らかとなり申したが、いかにもそれは三郎のなしたること。清洲の武威を見せつけるは良きご思案かと。

 岩倉殿(上四郡守護代・織田兵庫助寛広)も世を去った今や、尾張を統べるは兄上ひとりにござる。思うようになさいませ。」


 ◇


 那古野城の本丸御殿で当主同士の対面は行われた。

 城主の今川竹王丸も、重勝の希望で同席している。


「大和守様、二度目のご挨拶になりまするな。鈴木対馬(重勝)にござる。こちらは今川の竹王丸殿。竹王丸殿、こちらは尾張の守護代様でございまするぞ。ご挨拶なされませ。」

「大和守様、それがしは今川竹王丸にございまする。よしなにお頼み申し上げまする。」

「うむ……。」

「ご立派にございまするぞ。竹王丸殿は今年でいくつにおなりかな?」

「7つにござる!」

「元気なさま、実によきかな!そうだ、このあと三河に遊びにお越しくだされ。それがしの次男坊が竹王丸殿と同い年にござれば、会うてやっていただきたい。」


 織田達勝は、鈴木重勝がニコニコと幼子の相手をしているのを呆気に取られて見ていた。

 なぜ和議の席に来て、こんなものを見せられねばならぬのだ。彼には状況が理解できなかった。

 するといきなり重勝は達勝の方を向いてまじめな調子で言った。


「さても大和守様、こたびは三郎殿(信秀)との間で行き違いござって相争う仕儀となり申したが、無事に平和を復すること、かない申してなによりでござった。

 しかしこれは我らがさらに友誼を深める好機でもあり申す。家老たちは三郎殿の仕出かしの後始末をともになし遂げて仲も深まったことにござろう。」

「うむ、まあそうと言えなくもないが……。」

「であらば、家臣同士で婚儀を結びましょうぞ。三郎殿に困っておるのは尊家も当家も同じこと。何かあり申せば、これよりはともに事にあたろうではございませぬか?」

「いや、当家の奉行のことは当家で手当てするものなれば、貴家の助けはいらぬが……。」

「いやいや、ここなる竹王丸殿は亡き主君・紹僖様(今川氏親)の御子にて、それがしはその身の安全をお引き受けし申したところ、万一があっては困りまする。清洲のございまする西はともかく、せめて那古野より東につきては力を合わせることもお考えくだされ。」

「ううむ……、考えておこう。」


 達勝は始終、重勝に調子を狂わされ、言いたいことも言えず対面は終わった。もっとも、達勝の側には特に言うべきことはなかったが。

 逆に重勝は満面の笑みで別れを告げ、竹王丸を伴って三河に帰国した。

 彼は、信秀を一息に滅ぼす作戦が失敗して意気消沈していたが、ただでは転ばずに織田大和守家との誼を求めたのだった。

 一度ばれてしまった包囲網はもう使えず、次は信秀との正面切っての殴り合いしか道がない。そのため、尾張をまとまらせず、反信秀勢力を片端から味方につけようと舵を切り替えたのだ。

 大人しく和睦したかに見えた鈴木家は、しかしその裏で反水野の国人一揆を支援するために三河屋に兵糧を低金利で貸し付けさせていた。また、花井氏には平島城獲得を支援した見返りに鳴海の廃城跡に新たに城を築かせ、いざというときは鈴木家に譲渡させる密約を交わしていた。

 策士は策に溺れながらも、懲りずにまた策をめぐらしているのだった。


 ◇


 一方、当の織田信秀は、織田大和守家と鈴木家に後事を任せて自らは伊勢に攻め込んでいた。

 ここのところ伊勢中北部は六角家と北畠家によって攻められ続けていて、彼らの主敵・長野氏は風前の灯火であった。

 しかし、管領・細川道永(高国)は友邦の六角・北畠がいつまでも上洛のそぶりを見せないことに痺れを切らし、越前の朝倉孝景に頼んで上洛軍を引き出すことに成功していた。

 そうなっては幕府の屋台骨である六角定頼も兵を出さざるを得ず、伊勢攻めは一旦停止となった。


 これで伊勢攻めの完了が後ろ倒しになれば、その分だけ六角も北畠も自由に動けるのは先延ばしになる。道永はそれがわからぬでもあるまいに、どうも普通とは違う理屈で動いているようだった。

 しかも、せっかく軍を率いて戦ってくれた朝倉宗滴に対しても、道永は帰洛がかなった途端、朝倉家が反乱に苦しむ道永派の若狭守護・武田元光を支援していないことを詰り、それに怒った宗滴はすぐに帰国してしまっていた。

 結局、京を得たものの道永軍は六角勢1万のみとなり、数において三好元長率いる堺方に負けていることから、守り切れないと見た六角定頼は元長と和平交渉を始めた。

 しかし、堺方は堺方で内部分裂しており、この交渉は早々に頓挫した。

 元長がひとりで話を進めるのが気に食わなかったのか、彼の功績が頭抜けて高くなるのを嫌ったのか、細川六郎(晴元)の側近の可竹軒周聡や三好政長、失陥するまで京の管理を任されていた丹波勢の柳本賢治らは和睦に反対し、勝手に軍を動かして道永を近江に追いやったのだ。


「またしばらく京が遠のいたようだ。」

「早くも管領様は上洛を呼び掛けに伊賀の仁木殿のもとに直談判に向かわれたとか。」


 六角の重臣、後藤但馬守高雄が管領・細川道永の様子を伝えると、定頼は道永に対する不満を不機嫌に吐き捨てた。


「あれは上洛上洛と騒ぎよるが、そのために背を守るということをまるで分っておらぬ。あれが伊賀を頼れるのも、かの地の柘植なる者どもを当家が成敗してやったからというのに。」

「かの御方は領国を自ら治むるということをほとんどしておられませぬゆえ、そのあたりの機微がわからぬのでしょう。」

「それが管領で大丈夫なのか、まったく。人にものを頼む、いや命ずる立場にあるとはいえ、あれはその命を受けた者の苦労というものを少しも思いやることがない。」


 細川道永は永正年間からたびたび伊賀や伊勢の仁木氏を頼っていたが、伊賀では長らく守護・仁木氏と柘植氏が争い、仁木氏は一族を討たれて国を治めるどころではなかった。

 柘植氏を破ってひとまず伊賀を安定させたのは六角軍だった。慎重な性質の六角定頼は、伊勢中北部への進出にあたり、戦場のすぐ隣にある伊賀が乱れているのを好まなかったのだ。

 さらに定頼は伊賀を安定させるために、南伊賀と接する北畠晴具に伊賀折半の話を持ちかけ、北の山田・阿拝・伊賀西半郡は六角の、南の名張・伊賀東半郡は北畠家の庇護下という風に分けていた。

 なお、伊賀から伊勢に落ち延びた柘植宗家は、海を渡って今川家の遠江を目指す途中に三河で雇われることになった。


 後藤が細川道永の次の動きを予想して言う。


「管領様はそのままおそらくは国司殿(北畠晴具)のもとを訪れましょう。」

「であろうな。長野はともすればあと1、2年で追い詰められよう。さすれば、伊勢より援軍を得ることは近々かなうやもしれぬ。」

「そうなれば当家も動かぬわけにはまいりませぬゆえ北勢の安定を急ぐ必要がございまするが、織田との付き合いはいかがいたしまするか?」


 外交を総括している定頼のもう一人の腹心、進藤山城守貞治が問いかけた。

 彼のもとには織田信秀から不戦の申し出が届いていた。


「伊勢に攻め込むは、津島と長島を押さえておる織田の分家だそうだな。ふうむ……。」


 織田信秀は木曽三川河口に浮かぶ長島の支配を確たるものにしており、この島にある本願寺系の願証寺の門徒は上陸すらできずに対岸の桑名の三崎に坊舎(後の本統寺)を構えて睨み合っていた。

 沓掛攻めから間を置かずに、名目上は守護代の名で従軍要請を発して前田家や佐久間家の軍勢を従えると、信秀は2000の兵で桑名郡に上陸し、躊躇なくこの坊舎を焼き払い、続けて多度山の真宗・法雲寺も焼いた。

 こうした焼き討ちで恐怖を植え付けた信秀は、天台宗の伊藤武左衛門や真言宗の矢田市郎左衛門の臣従を取り付けると、その縁と勢いに任せて桑名の他の土豪たちも味方につけていった。


 双方大きな被害が出たが、織田方の攻勢の中心を担ったのは伊勢の真宗高田派門徒だった。

 その指導者・応真は、最近まで本山である専修寺の住持の地位をめぐって真智というもうひとりの指導者と権力争いをしてきた。

 この争いはすでに応真の優位で決着がついたとはいえ、彼の支持母体は伊勢中部の小規模な諸寺しかなく、応真は指導力と政治力をさらに増すことを望んで軍事的成功を求めていた。

 しかも信秀はこれに先立ち朝廷に献金をして、即位したばかりの後奈良天皇から「応真の専修寺住持の地位を確認する」という綸旨を引き出しており、報恩に燃える高田派の勢いはすさまじかった。


 そのうえ信秀は、前年に本願寺指導者・蓮淳が権力掌握の一環で理不尽に破門した近江国堅田の本福寺の一団を伊勢に招いていた。

 ほとんど無一文の本福寺の面々に対し、蓮淳が創建した長島の願証寺を譲り渡す代価として信秀は共闘を求めた。

 しかも三河介入の失敗で蓮淳は指導力にケチがついており、不満の声もあった。

 本福寺勢のように直接武器をとらずとも、蓮淳の無茶な振る舞いに不満を覚える本願寺系の者たちの中には、願証寺勢の救援に消極的な者もいないではなかったのだ。


 信秀は北勢(伊勢北部)に侵入して本願寺蓮淳派と対立しながら桑名をひとまず支配すると、この地に流れる員弁川を遡って北西の地も呑み込もうと動いた。

 その地では昨年から六角定頼の弟・梅戸高実、六角一門の種村高盛、被官の大木氏らが旗色の定まらない土豪に圧力をかけていたが、そうした土豪は織田を後ろ盾にして息を吹き返した。

 今回の上洛のせいで六角の軍勢はほとんど伊勢から近江へ帰還しており、そのことも反六角の流れを勢いづかせることになった。

 梅戸らは単独で信秀勢に抗するのに不安を覚え、もともと梅戸高実が本願寺と良好な関係を保っていたこともあり、蓮淳派と同盟して桑名の拠点を失った彼らを梅戸城に招き入れていた。


「守護の斯波とは言わぬが、せめてこれが守護代の清洲か岩倉の織田であらば相手となろうものを。」


 六角定頼は序列や秩序というものを大事にしている。

 それゆえ、守護・斯波氏、守護代・清洲織田大和守家に従っているはずの勝幡織田弾正忠家と主家を飛び越えて盟約を結ぶことは、下剋上を助長することになりかねないため抵抗があった。


「けだし、三河の鈴木は先ごろ管領様のお呼びかけに応えた信濃小笠原の上洛を妨げたとのことにございますれば、美濃や尾張を挟んで向こうの鈴木を押し止むるには、これと敵対する織田家と誼を通じておくのはよいやもしれませぬ。」


 後藤が伊勢を越えてより広い視点から見たときの勢力関係を指摘した。

 進藤も鈴木家が堺と懇意にしているという話を補足した。


「鈴木は相州(後北条氏)のごとく今川家からすでに自立しておるように見えますれば、主家の今川が公方様をご支持なさっておるからといって、そのまま鈴木も同じであるとは限りますまい。

 なにより鈴木は堺に屋敷を設け、三好民部大輔(一秀)や篠原大和守(長政)と懇意だとか。堺方と見てよいのではありますまいか。」


 これらは進藤・後藤の誤解だったが、傍から見ればそうとしか見えず、仕方のない誤解だった。

 実際は、鈴木家は今川家の顔色をうかがっており、三好元長から軽んじられて立腹していたこともあって、何度か直接的に「堺公方を支持することはない」と連絡していた。

 しかし、三好元長の腹心で諸々の調整を担っている篠原長政は主君のためを思ってそれを握りつぶし、年嵩で落ち着きのある三好一秀を窓口に、なんとか関係を維持しているところだった。


「ううむ、当家が約定を交わすならば、津島の織田(織田信秀)でなく清洲(織田達勝)を相手とせよ。さもなくば、話は梅戸と津島の間のものとして扱うのだ。

 蒲生は休ませるが、近々伊勢に小倉を送るゆえ、梅戸にはそれまでしばし辛抱するよう伝えよ。」

「ご舎弟殿(梅戸高実)であればきっとうまくなさることでしょう。」


 先ごろまで伊勢出兵の指揮を執っていたのは蒲生定秀だった。蒲生家の所領は南近江の伊勢に出る道沿いにあったからだ。

 しかし、今や伊勢中部の長野家は追い詰められており、あとは六角に従属する関家に任せておけば問題ないため、定頼は北勢寄りの小倉家を梅戸の後詰に送るだけで済まそうと思っているのだった。


 ◇


 かくして、織田信秀と梅戸高実はひとまず不戦の約束を交わし、北勢の領境の画定については六角家と清洲織田家の間で交渉が持たれることになった。

 当然ながら、伊勢の獲得地を誰が差配するかで清洲と織田信秀との間で意見の対立が生じるようになり、尾張国内の戦の機運は否応なく高まることとなった。


 一方、梅戸城も大騒動だった。

 伊勢の一向門徒は本来、蓮淳の子で願証寺住持の実恵が指導しているはずだったが、彼は数年来寺に入れすらしないのに失望して山科の父のもとに身を寄せていた。

 代わりの指揮官は三河から流れてきた常基という坊官だった。阿部大蔵定吉のことである。

 常基は幽鑑(内藤清長)・宗湛(天野景隆)ら僚友のほか、真宗に帰依する伊勢土豪の坂太郎左衛門を配下にして戦っていたが、思うように僧や兵が集まらず苦戦していた。

 そんな中で梅戸が六角の命令で織田と和睦したために、本願寺系の勢力は梅戸城を出なければならなくなった。

 もう後がない。そう思った常基は、無謀な行動に出てしまった。

 梅戸高実を害して城を乗っ取ったのだ。


 六角定頼はこれに激怒し本願寺に対して強く抗議した。

 本願寺教団の指導者・蓮淳は、反本願寺の管領・細川道永(高国)を嫌って堺公方に味方していたが、堺方は近江幕府の屋台骨である定頼を刺激することを警戒して蓮淳に和睦を促した。

 蓮淳は六角と争って畿内での教団の勢威をいま以上に落とすことを危惧し、すべての責任を常基に押しつけてこれを暗殺した。そして、伊勢の門徒たちに武装解除を呼びかけた。

 定頼はその姿勢を誠意と受け取り、教団と和睦することとなった。梅戸高実にはまだ子がなかったため、定頼は重臣・蒲生高郷の次男に名跡を継がせ、伊勢での勢力は十分に得たと判断して軍勢を休めることにした。

 一方の蓮淳は実質伊勢を放棄したわけだが、かの地で失った財源を補填する当てがあった。堺方が細川道永の勢力を削ぐために北陸の細川氏の荘園を押領するよう教団に依頼していたのだ。

 かくして蓮淳は細川領を収奪させるべく、婿の超勝寺実顕と下間頼秀を加賀に送るのだった。

【注意】応真の住持職を確認する後奈良天皇の綸旨は史実では1529年で、織田家とは関係ありません。阿部定吉と天野景隆の法名は親族のものから適当に作っています。

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― 新着の感想 ―
[良い点] おんもしれ〜!
[一言] 期せずして、織田大和守がキーマンになってしまったな。同時に信秀にしたら結果的に更に真綿で頸を絞められる事態に頭抱えてそう。 これが、後の「三尾勢三国同盟」締結の原因になろうとは、この時誰も…
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