第76話 1528年「庭野学校」◆
信秀を誘引した上で包囲殲滅するという大それた計画は、鈴木重勝と伊庭貞説が3年かけて用意した渾身の一手だった。
すでに知多の土豪の取り込みは対松平戦の最中から始められており、その成果を利用してこの作戦は考案された。
誘引先、つまり信秀が攻めてきそうな場所と言えば、今川の那古野城や鈴木の大森城もあったが、その防備は年々強化されており、攻め獲るならば別の城だろうというのが伊庭の見立てだった。
実際、信秀は兵を動かすときは比較的小規模な土豪の居城を狙っており、伊勢長島という争乱の種も抱える中で、兵の損失を嫌っていたのは明らかだった。
そうなると、東進する信秀が三河攻めの足場として、いずれ知多半島付け根の小城に攻め寄せるのは確実である。
そこで重勝は、信秀の視点で熱田と鈴木の勢力圏との間にいる丹羽氏や花井氏に織田家に偽装従属するよう頼み、信秀が「熱田の周辺も押さえた」と判断してさらに三河寄りの地に攻めてくるよう誘導したのだ。
これらの支度が済んで想定される戦場が定まってきたため、伊庭と重勝は知多の諸勢力に対する一斉蜂起の指示を出していた。
敵方に悟られぬよう不特定の商人が各家の家人に口頭で指示を伝えていたが、齟齬を防ぐためにその内容は「信秀が東進したのを見たらすぐに蜂起する」というごく簡単なものだった。
間に何人もの人を挟んで、場合によっては自分が何を伝えているかも知らされていない人間が関わって口伝えでやり取りをする都合、細かい指示は不可能であるし、そもそも、誘引がうまくいったかどうかを鈴木家で確認して諸家に使いを出すのは、戦場まで1日かそこらでたどり着ける範囲の話では時間がかかり過ぎて無理だったのだ。
諸勢力が命令を待って動けない間に信秀に逃げられるのを防ぐためにこのような指示となった結果、包囲が失敗してももはや蜂起を止めることはできなかった。
要するに、この策は1回きりのものだったのだ。
◇
包囲失敗の報せを受けたとき、寡黙な伊庭貞説ですら雄たけびを上げて持っていた筆を圧し折った。
一方の重勝は、恥も外聞もなく髪をかきむしって絶叫しながら部屋中をのたうち回り、やがて疲れ切ると秘蔵の銘酒をかっ喰らって泥酔した。
「姉上、お方様にご助言賜ってきてくだされ!殿が暴れて手のつけようがございませぬ!」
主君の見苦しい様に閉口した小姓の奥平貞直は、奥女中を務める姉・もとに頼んだ。
いま重勝の妻・久は、後に松平竹千代と名付けられる男児をその腹に宿しており、母子の健康を過度に心配した重勝の命で無暗に人と会わないよう大切に守られていた。
そのため、貞直は久に直接助言を求めることができず、姉を頼ったのだった。
もとは久の居室に出向き、重勝が作らせた安楽椅子なるものに座ってくつろぐ彼女に話しかけた。
「お方様、殿の御様子がおかしく、みな戸惑うておるそうでございます。お酒のせいなのでしょうか。お心をお慰みできることはあるのでしょうか。」
「伊庭殿もご乱心と聞き及んでおります。おおかた、2人でこそこそ悪だくみでもして失敗したのでしょう。あの方はそういうところがありますから……。」
久は、今や己の大事な人となった重勝がかつて松平家に対してした仕打ちを思い出して、悲し気な声音で静かに答えた。
「乱暴をしでかすような人ではないですが、我を忘れるほどに酔うた人は何をしでかすかわかりません。しばらく閉じ込めておけば、そのうち頭も冷えるでしょう。」
「それでよろしいのでしょうか……。」
正体不明の大の男が何をするかわかったものではなく、重勝は部屋に隔離された。
しかし、それがいけなかった。
翌朝、すっかり静かになった部屋に小姓の鳥居忠宗がやってきて主君に呼びかけたところ、部屋からくぐもった女の声が聞こえて驚き、慌てて中を検めると、奥平もとが「との、源七郎殿(鳥居忠宗)が……」と呼び掛けていたのだった。
◇
「すまぬ……。」
うなだれた重勝は、日当たりのいい場所で安楽椅子に身を預ける妻・久に詫びた。
「なにがです?」
「いや、その、もとのことだ。」
「もとのなんです?」
「その……、いやしかし、覚えておらぬのだ。起きてみればもとがおって、それで……。」
「もともだんまりだそうですが、あの娘もなかなか言い出しにくいのではないですか。」
「いや、その……、やはり、そういうことなのであろうか……。」
久が重勝と奥平もとの間に何かあったと考えているのは、ただの猜疑心ゆえではない。
奥平もとの同僚の奥女中は、騒ぎになって慌てて駆けつけると、目ざとく重勝の布団に血がついているのを見つけ、そしてすぐさま情事を連想し、久に報告していたのだ。
これは実際は酔った重勝が酒壺を割ってケガをし、出血したまま布団に触れたせいだった。もとは、重勝を心配して様子を見に来て、けがをしたまま嘔吐して寝ていた重勝を介抱し、割れた壺を片付け、布団を用意してやったのだ。
そして、もぞもぞ布団に入った重勝は寝ぼけて「ありがとう」と言いながら彼女の手を放さず、もとはもとで疲れており、振りほどくのを諦めてその場で寝てしまったのだ。
どうしようもなく迂闊であるが、彼女は遠慮して重勝の布団には入らなかったから、厳密には同衾ではない。
しかし、若い娘と一夜を明かしたという事実だけで、邪推されるには十分だった。
しかも当の重勝は細かいことを覚えておらず、仮にもとが近い将来に子をなしたとすれば、「もしかしたら父親は……」と疑われて厄介なことになる。
久に呼び出されて事情を聴かれた彼女は、大ごとになってしまったことに加えて、悪いとわかっていながら見張りの兵に無理を言って重勝の部屋に入っていたこともあって、怒られるのを怖がり、まともに返事ができなかった。そして、久はその様子を違う意味に解釈した。
さらには、次男・貞直から早馬で事の次第を聞いた奥平の老父・貞昌は「しめた」と思って娘・もとにそのまま黙っておくように指示を出し、重勝には「側室で構わない」と連絡をしていた。
「奥平の翁(貞昌)からは『側室に』と言われておるが、そなたの大事な時にこのようなことになったはまことに心苦しく、左様な不義理はいたしかねる。もとには尼寺に入ってもらおうと思う。」
妻が身重の時に側室を持つのは必ずしも当時にあってはありえなくはなかったが、誠実な夫婦関係という現代的な倫理観に囚われている重勝にはひどい悪徳に思われ、神妙な面持ちで謝った。
しかし、だからもとを尼寺に入れるというのは、それはそれでひどい振る舞いである。もとはまだ15になったばかりであり、そのことを憐れんだ久は首を横に振った。
「まだ若いのにかわいそうでしょう。それに、おもとはきっと親の言いつけを守ったのでしょう。あのご老公のことです。隙あらば側室に、ともとに吹き込んでいたのでしょう。」
「されど……。」
「わたくしが『よい』と言っているのです。もうこの話は終いです。」
かくして、奥平もとは重勝の側室に召し上げられることとなり、奥平家に遠慮して彼女を重勝のもとに通した護衛の兵は罰金処分となった。
◇
公私にわたって打ちのめされた重勝は、茫然自失の様子で飼っている亀の甲羅を掃除していたが、するとそこにか細く「父上?」という声が聞こえてきた。嫡男・瑞宝丸だった。
その声に「ハッ」と我に返った重勝は、亀を平たい瀬戸物の水槽に戻して息子を迎え入れた。
「……いかがした、瑞宝丸。1人で来るとは珍しいな。いや初めてのことか?他の者らは?」
瑞宝丸は普通、護衛の側掛や重勝の小姓の誰か、あるいは弟・順天丸、養育係のようになっている家中の老人連中と一緒にいるため、一人で重勝の居室まで来るのは初めてのことだった。
あまりに落ち込んでいる重勝の様子に、見かねた妻・久が「子の前では親はしっかりしようとするものです」と言って瑞宝丸を送り出したのだ。
「今はそれがしだけです。柴屋軒のおじじ様(宗長)から聞きました。新しく弟ができたというのは本当ですか?」
「弟?お久のややこはまだ生まれておらぬが……。」
「柴屋軒のおじじ様と一緒に来られたと聞きました。」
「ああ、興津の紅葉丸のことか。あれは吾子からすれば叔父なんだが……。ふむ、養子にして本当に弟にするのもよいやもしれぬな。」
重勝は息子のために茶の支度をしながら、宗長や興津紅葉丸らが三河に移ってきた時のことを思い出していた。
◇
宗長はすでに数えで81歳。
しばらく前に終の棲家を求めて京に上ったが、上方では近江と堺の公方の間で戦が続きそれどころではなかったため、再び駿府に帰ってきていた。
しかし、出発に際して今生の別れを告げてしまったうえに、不在の間に外交僧として長らく仕えた敬愛する主君・今川氏親が亡くなっており、彼にとって駿府は居心地が悪くなっていた。
そのため庵に籠って寂しく暮らしていたところ、年始に冬の寒さで体調を崩した興津盛綱、つまり重勝の母・お秋の再婚相手が亡くなった。盛綱は宗長の友人でもあり、彼はいよいよ気落ちした。
お秋は気を遣って宗長を三河に招くよう重勝に頼み、彼女自身に対しても重勝は「異父弟の面倒を見よう」と返事をしたため、宗長と母子は3人で連れ立って三河にやって来たのだった。
「母上、お会いするのは久々にござるな。彦九郎殿(興津盛綱)は急なことにござった。」
「あの人ももう年でしたからね。紅葉丸のこと、ありがたく思いますよ。この子は父に似て海が好きなようです。良くしてやってください。」
お秋はすっかり言葉遣いが武家の妻といった風になっていた。
「ええ、もちろん大切にいたしまする。それで、母上はこの後どうなさるので?紅葉丸と一緒に三河におられまするか?」
「わらわは落飾して、お世話になりました尼御台様(寿桂尼)にお仕えしようと思います。」
「左様ですか。であらばまた折々に駿府に贈物いたしまする。お体お大事になさってくだされ。」
「孝行息子をもって母は幸せ者です。」
柿の木が「秋」に「紅葉」することから、母と弟の名にかけて重勝は母に「恵柿尼」の法名を贈り、彼女は駿府に戻って世話になった寿桂尼に仕えることになった。
一方の宗長には、重勝は「駿府の方々と異なりて、三河の我らにはまだお別れのご挨拶をいただいておりませぬ」と手紙で呼び掛けて、三河に終の棲家を構えてはどうかと誘った。
老齢の身に旅はこたえたようで宗長は到着後しばらく休んでいたが、回復すると「まずはおつね殿にご挨拶させてくだされ」と言って、重勝と一緒に墓参りに出向いた。
「おつね殿はまことに惜しくあられた。対馬殿(重勝)から『室に贈りたい』と歌の書を頼まれたは、よき思い出にございまする。」
『閑吟集』は連歌師でもある宗長が編んだ歌謡集で、重勝は亡き妻・つねに歌ってもらおうとこれを取り寄せたことがあった。
宗長は、それを思い出してしみじみとつねのことを偲び、一首詠んで墓前に短冊を供した。
やがて今後のことを話し合って一息つくと、宗長は重勝の手紙を持ち出して和歌の添削を始めた。苦手ながらも重勝は和歌の勉強を始めており、宗長を招く手紙に一首を添えていたのだった。
その歌は「あさぼらけ露の置きたる二村の山に残れる虎落のさびしさ(夜が明けてぼうっと明るくなる中で朝露にぬれる二村山に竹垣がさびしく残っているよ)」というもので、信秀包囲失敗について、朝が来たら二村山の信秀陣に人気がなかった様子を詠んでいた。
「この虎落が肝でござる。織田三郎は『尾張の虎』と呼ばれておるゆえ、虎の字に思いを込めたのでござる。」
「なるほどよく工夫なさっておられるのですな。とはいえ、聞き手がいかに歌を深く解そうと努めても、その工夫は事情を知らねばわからぬゆえ、ちとよろしくありません。
とりわけ初心の者はあまり技巧に走らずにあっさりと心を言葉にするのが肝心。これぞ『枯淡の美』にございまする。」
重勝はふてくされた。
◇
時は戻って、重勝の居室で父子が雑談をしながら亀の水槽を覗き込んでいると、重勝の背にいきなり衝撃が走った。
「ぐわぁあ!」
「討ち取ったり!」
崩れ落ちる重勝が振り返って見たのは、満面の笑みで勝ちを宣言する次男・順天丸だった。
「このたわけ!なにをしよるか!」
「父上は兄者ばかり褒める!今も『よく習っておってえらい』などと言っておったのが聞こえたぞ!俺ももっと褒めろ!」
「そうか?どちらも同じくらい褒めておると思うが、こちらに来なさい順天丸。
……うむ、今のはなかなかに良い頭突きであった。それがしがおぬしの近寄るに気づかなんだも、足さばきをよく学んでおるがゆえであろうな。ようやった。」
「であろう!」
「しかし、頭をぶつけると馬鹿になるゆえ、頭は大事に守るのが一番ぞ。近頃は弓の稽古も始めたのであったか。」
「そうだ!まだ小弓だが、阿寺の者らは筋がよいと述べておったぞ!あとは、あとは……、九里のじじい(浄椿)から戦の話をたくさん聞いたぞ!」
「そうか、そうか。この辛く厳しい世にて長く生きるというのはそれだけで大したことなり。年寄りの話をよく聞いてえらいぞ。順天丸は兄を助けてよい武将となろうな。」
胡坐の上に順天丸を乗せてゆさゆさと揺れる重勝は、瑞宝丸にも手を伸ばして2人を両膝に乗せた。
「瑞宝丸は今日は柴屋軒殿の話を聞いてきたのか?」
「はい父上。それがしはおじじ様から足利学校なるものがあると聞きました。学校なるところでは学生が大勢いてみんなして学問するのだそうです。」
「おお、瑞宝丸もえらいな。学校が気になったか?」
「はい、見てみたいです。」
「そうかそうか。いま当家の学問所を学校にするべく支度をしておるでな。吾子も今度、連れて行ってやろう。」
足利学校は儒学や医学、易学などの重要な学問拠点である。宗長は永正年間にこの学校まで足を延ばして見学していたのだった。
今は関東上杉氏の保護下にあるが、下野国は専修寺が燃えるなど兵禍が広がっており、学問を続けるには危険な環境だった。
それはともかく、瑞宝丸は父の提案に嬉しそうに頷いたが、順天丸はいやいやと首を振った。
「俺は嫌だ!手習いは嫌いだ!」
「順天丸、そう言うな。思い浮かべてみよ。吾子が一廉の将になったとする。そのときに、敵味方の数も数えられず、兵糧もうまく扱えず、相手に降伏を呼び掛ける文も書けずでは格好がつかぬであろう。」
「……それはいやだ。」
「であろう。吾子の好きな九里の爺様はそれはもう賢いぞ。かの者は今は拳母におるゆえ、弟子入りを頼む文を出してはどうだ。いやしかし、みっともない文では呆れられるかのう?」
「……文ぐらい書けるわい。」
「どれ、爺様に出す前に父が見てやるでな。父は昔、祐筆の真似事をしておったのだぞ。
――さてもそなたら、次の用事があるのではないか?それがしが連れて行ってやろう。その前に、源次郎(久の連れ子)や勝子(重勝の長女)のもとに顔を出しておくか。」
◇
この年、庭野の学問所は「庭野学校」として改組された。
学校として新築された建物の門には立派な扁額が掲げられた。能書家である北畠晴具に頼んで書いてもらったものである。
この学校は基礎教育を終えた者が進学し、研究するか技術系の官吏になるための勉強をする場であり、置かれている学科は医学・本草学・農学である。
重勝と久の間に松平竹千代が生まれると、その誕生を祝って松平家の菩提寺・大樹寺が再興され、住持・真誉南香が学校の教師として招かれた。
三河からは設楽氏の菩提寺・勝楽寺から朝堂玄賀、水野家臣中山氏の出身で西明寺に住む快翁龍喜、戸田氏の勢力下にあった長興寺の模外惟俊と東観音寺の如林誾公も招かれた。
信濃国伊那からは高名な学僧・雪岫瑞秀の弟子である大極口初、雪岫の学友で小笠原長高に従属した松岡氏出身の文叔瑞郁の弟子・黙宗瑞淵も招かれた。
農学部門の課題は、さしあたって「馬の交配と同じく作物を交配すればどうなるか」という問いが定められている。
また、作物の生育環境・加工方法・灌漑技術などに関するこれまでの知識や改善の成果を書物の形にまとめることも目指され、農事や土木工事に関する人員管理など行政の領域も幅広く学問された。
三河の薬草園が本草学の実験農場として付属し、『新修本草』『政和本草』などの書物が講釈され、雅楽会で縁ができた楽所奉行・山科言綱から調合指南書の『薬種調味抄』を得るなど蔵書の拡充も行われている。
医学部門の最初にして究極の研究課題は疱瘡についてだった。
これは妻をこの病で喪った重勝が強く求めたもので、「明には疱瘡の治療法があるか。一度疱瘡に罹れば次は罹らぬのはいかなる理屈か」という問いが立てられている。
開校を祝して神宮の医者・久志本常光を招いて講演会が開催され、『福田方』のほか、特にこの年に発刊された10冊本の『新編名方類証医書大全』を所蔵していることが宣伝された。
『医書大全』は阿佐井野宗瑞が長年にわたって出版の準備をしてきたもので、鈴木家では自家の木版印刷工房を動員して支援し、朝廷・近江公方・堺公方・今川家に1組ずつ献上した。
近江公方に対しては信濃で松尾小笠原の上洛軍を滅ぼしてしまった手違いを詫びる意味があった。
界隈では三河に医学校ができるという話はそれなりに噂になっていた。
そのため、庭野学問所を出て上方で禅僧に弟子入りして医学を学んだ長田平蔵改め徳本も帰国した。
彼は『続添鴻宝秘要抄』という本を読んで感銘を受け、病状に応じた薬湯を処方するという傷寒論の臨床経験的な原則に強く共感していた。
また、相国寺の若き学僧・曲直瀬道三も足利学校に向かう途中に庭野に立ち寄った。その際、彼は相国寺に打診して1人の稚児を呼び出し、庭野に留学させた。
この稚児は重勝の相談衆・吉田兼満の従弟であり(つまり清原宣賢の子)、兼満の勧めでこのような運びとなった。稚児は後に牧庵等貴を名乗る医者となる。
一方の曲直瀬自身は三河には居つかずに足利学校に属し、陰陽五行説に基づく医学理論を打ち立てた田代三喜に師事した。
曲直瀬と徳本は――やがてはこれに仏教系医学を代表して牧庵等貴も加わって――医学に対する根本的な価値観を巡って激しく論争し、3学派が切磋琢磨するようになる。
元々は日本一の学校だった足利学校がこの数年後に戦乱に伴う火災で勢いを落とすと、にわかに活気づく庭野学校はこれと並び称されるほどとなった。
【注意】『閑吟集』の作者は宗長とは特定されていません。織田信秀の「尾張の虎」という呼び方が当時あったかは不明です。興津盛綱が亡くなるのは4月ですが物語の都合で前倒しになっています。
【史実】中国では15世紀には疱瘡患者のカサブタを吸い込ませる予防法がありましたが、失敗して罹患してしまう危険もありました。日本に伝わるのは18世紀半ば、実施されたのは18世紀末です。




