第75話 1528年「虫の知らせ」
織田信秀が尾三国境の沓掛に攻め寄せ、この地に住む近藤氏の救援のために兵を出した鈴木家に対して和睦交渉の使者を立ててから、すでに3日が経っていた。
鈴木家からの返事はまだ来ない。
「おかしい。」
「岡崎と往復したとて1日もかからぬところ、返事が遅すぎまするな。」
「沓掛の兵も何をするでもなくただ睨み合うだけ。……もしや我らはここに足止めされておるのか?」
内藤勝介が相槌をうち、信秀は難しげな顔でひとしきり思案すると、決断した。
「何やら気に食わぬ。これが虫の報せというやつか。……決めた。日が暮れてから陣を引き払い、古渡に戻る。」
「日が暮れてからにございまするか?」
「『急げ』とそれがしの勘が言うておる。明日を待ってはおられぬ。勝介、おぬしには念のため殿を任せるが、夜に陣を払えば朝まで気づかれることはなかろう。しばらく様子を見て追撃なくば、おぬしもすぐに後に続け。」
「承知。」
沓掛周辺の鎌倉街道は道幅が狭い曲がりくねった山道で足場も悪い。ここを夜間に行軍するというのは危険を伴ったが、信秀はそれよりもこの場を早く去る方を優先した。
日が落ち、暗くなると、二村山の陣には篝火や柵だけが残され、兵たちは密かに西へ撤退した。
◇
古渡に帰城した信秀が知ったのは、東尾張の国衆の一斉蜂起だった。
「那古野に鈴木兵入城!」
「岩崎陥落、荒川殿お討ち死に!」
「一色城柴田殿より後詰可否の問い合わせ!」
「桜中村城山口殿より『大高に鈴木の旗見ゆる、後詰乞う』との由!」
「熱田沖に佐治と小笠原の船あり!」
「知多亀崎にて新海氏ら蜂起、水野殿より救援求むお使者きたり!」
各地に放った使いの者から続々と伝えられる報告を聞くうちに、信秀は鈴木家があたりの国人を巻き込んで構築した大規模な包囲網をありありと思い浮かべることができた。
その主な標的は織田氏に従属する水野氏だったが、信秀が沓掛にとどまっていればその包囲網のただ中に取り残されることになるところだった。
「よもや岩崎が丹羽何某の手にすでに落ち、花井が鈴木方に寝返っておったとは。いや、丹羽も花井も初めから通じておったのだろう。」
岩崎城は沓掛の北、瀬戸の南にあり、尾張北東に広がる鈴木家の勢力圏と接する城だった。
近くの本郷の住人・丹羽氏清は早くから信秀に従属を願い出ていたが、信秀が沓掛に出発して熱田周辺の防備に穴ができたとみると、「鈴木家に備えん」と言って岩崎城にやって来ていた。
城将・荒川頼宗は大森の鈴木勢に比べて自らの戦力に不安があったためこれを招き入れたが、丹羽は荒川を殺して城を乗っ取ったのだった。
丹羽氏清はすぐに鈴木家の西郷正員が守る大森城に使いを出して後詰を要請し、岩崎にはすでに鈴木家の兵が守備に入っていた。
一方の花井氏は、古渡から沓掛に出る途中の鳴海の南側に勢力を持っている国衆である。
彼らは元から鈴木家と通じており、信秀の出兵をきっかけに、その退路を塞ぐべく蜂起した。
これは事前の約束の通りの動きだった。信秀が三河方面に出兵するというのは、鈴木重勝の予想では「確実に起こること」だったため、彼は花井氏に信秀の通行後にその退路上にある鳴海を扼するよう伝えていたのだ。
もちろんそれには彼ら独力では厳しいため、鈴木家は海沿いにある花井氏の大高城・薮城に500の援軍を海路で運び入れた。
鈴木兵が大高に入城したのは、信秀が古渡に帰還したまさにその日であり、もし信秀が撤退時期を見誤っていれば、退路上の鳴海に鈴木家の兵が展開することになって、沓掛の軍勢と合わせて挟撃・殲滅されるところだった。
そのわずかな日にちのずれは、ただ波と天候によるものであり、まさに運の問題だった。
「いやはや、殿の勘に我ら一同、助けられ申した。」
内藤勝介が冷や汗をにじませながら言った。
鈴木家は「信秀さえ滅ぼせば尾張は怖くない」とばかりに、この機会に確実に彼を葬ろうとしていたのだ。
大森城の石川又四郎はこの作戦に大いに冒険心を刺激され、500の援軍に先だって30の手勢を連れて陸路で大高に駆け込み、鳴海を見張って撤退する信秀軍を見つけていた。
しかし、花井氏は又四郎の扇動になびかなかったため、又四郎は数十倍の敵を前になすすべもなく見送るしかできなかった。
肝心の信秀に逃げられて憤懣やるかたない石川は、大高の兵を焚きつけて織田と同盟している水野方の平島城を攻めて鬱憤を晴らしているところである。
「なんとも用意周到なことよ。下手をすれば、臣従を誓っておる国衆の中にはまだ鈴木と通じておる者らがいるやもしれぬな。」
「しかし、殿の機転のおかげでやつらの企みも無駄遣いとなり申した。裏切者がおったとして、いまさら蜂起しようとも時宜を逸しておりますれば、この古渡よりただちに成敗に向かうことができましょう。」
「うむ、いかにもそうである。しかし、鳴海より向こうはもうだめだな。手を出せぬ。」
「知多の国衆も一斉に蜂起したとかで、右衛門大夫様(水野忠政)から援軍の催促が矢のように来ておりまするが、いかがしましょう?」
鳴海から三河方面の尾張南部、知多半島の北半分の地域は大雑把に言えば水野氏の勢力圏であり、その水野氏の居城は三河との境にある緒川城だった。
鈴木家は数年前の松平戦の頃から知多の土豪と連絡を取り合っており、織田信秀包囲網の構築にあたって、水野勢が信秀の救援に出られないように、知多衆にも蜂起の約束を取り付けていた。
緒川城の南側、水野氏と懇意の久松氏が治める坂部城の東側の地域には、水野氏の勢力拡大を警戒する土豪たちが割拠しており、今回、彼らは鈴木家の呼びかけに応じて蜂起した。
宮津城の新海氏を中心に連合した知多衆(榊原・榎本・鵜飼・岩田)は、鈴木家が知多の付け根に唯一もつ拠点である亀崎に入った兵500を後詰に、水野家臣・中山重時の守る有脇城を囲んでいた。
中山氏の出身で東三河の西明寺で修業した快翁龍喜なる和尚はかねてから鈴木の庭野学問所に出入りしており、その伝手で中山重時も鈴木家の接触を受けていた。
彼は今はまだ水野家への忠誠を失っていないが、知多での鈴木家の影響力を見せつけられたことで、今後、身の振り方を考え直さざるを得ないだろう。
「水野ももう助けられぬ。せいぜいこちらからできるのは花井を足止めするくらいであるが、あまり意味はあるまい。水野の緒川城は三河に近すぎる。鈴木が攻めると決めれば守るのは厳しい。いざとなれば落ち延びてもらうしかあるまい。」
「それでは従属した国人連中は当家を頼りなしと思うのではありませぬか?」
「その懸念は正しい。ゆえに我らは伊勢を切り取る。」
信秀は力強い目つきで答えた。
「伊勢にござりまするか?」
「左様。かの地はいまや六角と北畠の切り取り勝手となっておる。当家もこれに乗るのよ。伊勢にて桑名を切り取れば、国人どもも当家の武威を認めよう。」
「なるほど。では、西へお移りになられまするか?」
「うむ。津島の平手(政秀)と交代する。あれは気が回るゆえ、ここ古渡でも熱田の商人どもとうまく付き合ってくれよう。」
かくして織田信秀は古渡から津島に居城を移した。
彼は鈴木家との和睦交渉は清洲の織田大和守達勝に丸投げして、自身は大永8年のうちに叔父・織田玄蕃秀敏、青山与三右衛門、滝川彦九郎勝景、祖父江光太夫長定、前田与十郎仲利、前田蔵人利昌、佐久間久六盛重を従えて伊勢国に攻め入るのだった。




