第74話 1528年「沓掛城」
大永8 (1528)年。
年始早々に織田信秀が三河国境に近い沓掛城に攻め寄せた。
「ご注進!沓掛の近藤殿から救援を求めるお使者が参られました!」
「来たか!これで堂々と尾張に攻め入ることができる!各々方、手筈通りに動かれよ!」
それを聞いた鈴木重勝は手を叩いて喜び、諸将に号令した。
重勝には自分から尾張に攻め込めない理由が2つあり、織田信秀が攻めてくるのを待っていた。
1つ目の理由は、対三河戦の終戦時に尾張守護代の織田大和守達勝と結んだ5年間の不戦である。ここで信義に悖る行いをして信用を損ない、今後の外交に支障が出ることを恐れたのだ。
もう1つの理由は、今川家の国人が尾張を切り取るという約束である。主君・氏輝とその母・寿桂尼は比較的鈴木家に好意的であるとはいえ、重臣団はそうではないため、気を遣わねばならなかったのだ。
「それから藤八郎よ、すぐに清洲と駿府に文を認めるゆえ、使者も用意してくれ。尾張の方は北を回って大森に出れば、時はかかれど危険はなかろう。駿府は三河屋を使えばよい。」
重勝は、小姓の青山藤八郎を呼び寄せて指示を出し、駿府に常駐する雑掌の神谷喜左衛門に宛てて事情説明の手紙を送った。
また、織田守護代の居城・清洲城にも使者を送って「先に攻めたのは織田信秀で、鈴木家は近藤氏の要請に応じただけである」と弁明した。織田との不戦条約はあと1年残っているため、念には念を入れたのである。
「この日のために方々手を尽くしてきた。手抜かりはないはずだ。用意した諸々を全て用いて一気に尾張を切り取るのだ。間違いなどあるはずがない。」
不安と期待を抱えた重勝は、「あれもやった、これもやった」と指折り確認をして、おのれを落ち着かせていた。
◇
知立城の青山徳三郎率いる備えの兵団は直ちに戦支度をし、岡崎からの増援を迎えると、1500の兵で沓掛城目指して進軍した。
物見によれば織田勢は2000近いということであり、ひとまず対抗しうる兵数が用意された。
沓掛は知立からは徒歩でわずか1刻程度、岡崎からも3刻程度の距離であり、「官衙講」で常時活動している農民兵に動員をかけて、知立城に蓄えてある武具と兵糧を持たせるだけなら、この程度の兵は即日でも出撃が可能だった。
尾三の間を流れる境川を越えて大久伝の村を通り抜けた鈴木兵は、本郷の宿駅を荒らしている武者の姿を見つけてひとまずこれを追い払った。
その様子を見て駆けつけた沓掛城主・近藤伊景は、鈴木方の大将・青山徳三郎と副将・酒井左衛門尉忠親に礼を述べた。
「こたびは援軍かたじけなく。鈴木様には『いざというときはすぐに頼られよ』と前々から声をかけてもろうており申したが、よもやここまで早く援軍を得られようとは思うておりませなんだ。」
「我ら鈴木はすでに大森に城を構えておりますれば、尾張のことは他人事ではござらぬゆえ、当然のことでござる!それにしても織田兵は向かいの山に逃げていき申したが、かの者らは山上に陣取っておるようですな。」
青山は近藤に胸を張って答え、すぐに織田勢をどう扱うか考え始めた。
近藤が説明を加える。
「あの山は二村山といい、あたりでは一番高く、そばには鎌倉街道が通っておりまする。はあ、しかし、ふもとの宿は荒らされてしもうて……。」
二村山は沓掛の西にある山で、熱田から鎌倉街道を東進してきた織田信秀はこの山に陣取り、山上で陣幕を張るなどする間に兵に宿駅での掠奪を許していたのだった。
「ふむ、改めて物見を出したところ、織田方は我らとおおよそ同数とのこと。とはいえ、数の有利があろうとも山上で守られておってはやりにくい。さて、どうしたものか。」
最初の物見は敵の数を誤認して2000と報告したが、本当は1000から1500程度のようだった。
二村山からは沓掛城を含めてあたりが一望でき、織田勢に鈴木勢の動きが筒抜けになってしまうし、山の下から上を攻めるのも簡単ではなく、迂闊なことをすれば敗北もあり得た。
青山隊に与えられている指示は単純に沓掛を守るだけではなく、信秀隊を引き付けておくことだったが、沓掛城は館程度の防備しかなく、有利な地点を押さえられていてはこの地に拠って長く戦うのには不安があった。
「対馬守様(鈴木重勝)からのご指示もあり申すし、ここは知立よりさらに後詰を頼むがよいのではあるまいか?」
「それがよいな。」
悩む青山に副将の酒井左衛門尉が助言すると、青山はその言を容れた。
鈴木方は増援を待つ間、城近くの聖應寺と諏訪神社に拠って織田兵の狼藉から逃げてきた民を保護しつつ織田方と睨み合った。
使者を送って早くも翌日には500の兵が到着し、鈴木方は数の有利を手に入れた。
◇
青山徳三郎は2000の兵数を頼りに織田勢に対し攻勢に出ることに決めた。
「先陣は林殿と印具殿にお頼み申す。各々300を以て敵の具合を調べてきてくだされ。」
「心得た。いくぞ、甚蔵。」
「合点!」
東三河御油のあたりの土豪だった林光衡・印具甚蔵は、今や三河鈴木家の熟練の物頭であり、その戦人としての器量は家中でも評判だった。
彼らは堂々と矢合わせを仕掛け、受けて立った織田方の先陣・内藤勝介率いる400に対し、気心の知れた2人は交互に攻め寄せた。
鈴木家から十分な装備を支給された兵は、鍛錬を積んだ半農半兵の組頭のもとでよく戦い、織田方の兵の注意を左右に引き付けて足並みを崩させた。
昼の1刻ほどの戦で内藤勢は数十の損害を出すと後退しはじめ、織田信秀は自ら兵を率いて前に出ると山麓の傾斜を利用して遠矢を放ち、内藤の撤退を援護した。
林と印具は無理をせずに青山と酒井のいる本陣に帰陣した。
敗勢を悔やむ内藤勝介を出迎えた織田信秀は、その働きを労いながら、鈴木家が1日、2日で2000の兵を送ってきたことの意味を考えた。
「勝介、ご苦労であった。鈴木の兵はなかなかこなれた動きをしよる。それに加えていくら国境といえど、これほど早く2000の兵を送って寄越したは並々ならぬことにて、やつらの目は尾張に向いておるというのがよくわかる。」
「信濃に兵を出したは、やはり誘いでございましたか。」
「そのようだ。」
内藤の問いに信秀は軽く頷いた。
「守護代殿(織田達勝)はお人よしにも鈴木めが5年の不戦を守っておると信じて疑わないようであったが、この様子を知れば少しは考えを改めるやもしれぬ。どう見ても攻め込む気満々であろう。
とはいえ、こちらから手を出さねば動かぬつもりでもあったようだ。一応は守護代殿の顔を立てておるということか。」
「であらば、少なくともあと1年少々は攻めてこぬということになりまするな。さても鈴木の様子もわかり申したゆえ、ここらで和睦といたしましょうか?」
「うむ。もしさほど兵が出てこぬようならば、水野より富田何某を呼び込んで挟み撃ちという算段であったが、倍の兵となると荷が重い。」
信秀の今回の出兵の目的は実のところ威力偵察だった。
もちろん鈴木家が準備不足であれば、丸根城の富田左京亮家次なる者が水野勢を率いて駆け付けて城攻めを行う手はずであり、沓掛の地を攻勢拠点にさらに三河に攻め込むことも視野にあった。
しかし、敵が虎視眈々と待ち構えているとわかったため、信秀は手を引くことに決めたのだった。
「鈴木もこれで近藤に寄親面ができて満足であろう。すぐに和議を持ちかければやつらが攻め入る理由ももはやなし。いや、いっそ和議のことは守護代殿にお任せするのもおもしろいやもしれぬ。」
「さすれば、守護代様も鈴木家の脅威を正しくお認めになるやもしれませぬな。」
「それに鈴木は守護代殿の顔色を窺っておるとわかったからな。どう転ぶにせよ、揉めるようならそれはそれでよいし、どちらも少なからず手間取られよう。いま時が必要なのは我らよ。」
勝幡織田家が尾張東部に進出したのはここ3年のことだが、かなり無理のある勢力拡大であり、本人たちにもその自覚があった。
父・信定が勝幡から津島に進出し、跡を継いだ信秀は本願寺との対立をも厭わず長島を押さえ、木曽三川中下流の商業を手中に収めた。そして今や熱田大宮司・千秋季通と同盟し、熱田の町を支配下においていた。
これを監視するために古渡城を築いて信秀自らが入り、尾張北東に入り込んだ鈴木家に対抗するために岩崎城を築いて家臣の荒川頼宗を入れた。
古渡と岩崎を結ぶ線より内側の土豪たちに従属を呼び掛け、ときには武を以て手下に組み入れた。御器所の一帯の佐久間氏も桜中村城の山口氏も信秀に服従している。
少し離れた一色城には斯波家臣・柴田源六がいるが、これもいざとなったら信秀に合力すると約束していた。熱田より南東の大高城を中心に勢力を持つ花井氏も、圧力に屈したかにみえた。
しかし、これらは安定した支配とはいい難く、鈴木家と勝幡織田家が互いの勢力拡大を警戒してあたりの土豪たちに旗色を明らかにするよう急かした結果、彼らはどちらにつくかを取りあえず決めただけだった。
しかも信秀は立場としては清洲守護代家の一奉行でしかないため、建前は主君の名代として国衆を従属させつつ個々に内通を求めており、危うい橋を渡っている自覚があった。
信秀はこうした新参者の忠誠に期待しておらず、彼らをよく自らに引き付けるには今しばらく時が必要だと考えていた。
「鈴木は大森から出てこぬようだが、かの城はすでに固く守られており、あたりの国衆でこれを頼りと見ておる者も少なくない。」
信秀の言うように、鈴木方の大森城の周りに住む土豪は鈴木家に味方し、尾張衆として西郷正員が率いる備えに組み込まれていた。
瀬戸の土豪ですでに従属していた菱野の林光利の他に、若手の下方貞経、岡田与九郎重頼、猪子弥兵衛といった者たちが加わっていた。
「いよいよ東尾張の切り取りも難しくなり、『その時』が近づいてきておるように思われる。
あるいは守護代殿が『三河と戦う』とお覚悟を決めてくだされば、我らは無理をして清洲を出し抜かずとも、織田の総力を以て三河と争うこともできようが……。」
動きの鈍い清洲守護代・大和守家に対して信秀は失望感を抱いていたが、それでもこの小競り合いの和睦を口実に彼らに鈴木家の脅威を見せつけ危機感を持たせられれば、わざわざ下剋上などせずとも済むため、信秀はまだ辛うじて清洲を見限ってはいなかった。
「いずれにせよ三河を叩くには足元を固めねばならぬ。こたびの戦はそのためにも引き分けが一番。将兵にはくれぐれも逸ってしくじるようなことはせぬよう言い含めよ。」
「承知つかまつってござる。」
今回の出兵を引き分けにとどめておくのは、これらの新参の土豪たちに鈴木家の脅威を見せつけるとともに、それと渡り合う織田家の武威も見せつけるためだった。
東尾張の土豪の多くは信秀の支配を受け容れたように見えるが、十分な信頼があるわけではない。団結を強めるにはわかりやすく敵を作り、それに対抗する指導者として立つことが重要だった。
信秀は沓掛城には和睦を求める使者を立て、清洲には主君としての介入を求め、様子を見ることにした。




