第73話 1527年「丹生暦」◆
「鈴木家から文?またか。」
「実はずいぶんとたまっておりまする。長野との戦もござり申すところ、文に書かれたる事々につきて調べに時がかかってしまい申した。」
「それは構わぬ。向こうもこちらが戦のさなかというのはわかっておろう。それで、今度は何の用だ。」
北畠晴具はそばに側近の山室国兼を置いて、伊勢大湊取次の鳥屋尾茂康からの報告を聞いていた。
北畠家は舅・細川高国(道永)と三好元長率いる堺公方の争いに巻き込まれて、前年から伊勢中部の長野氏と抗争を続けていた。堺陣営が、高国陣営に属する北畠家の動きを封じるべく、長野氏を煽って戦を起こさせていたのだった。
「ひとつは式部少輔殿(山室国兼)にもすでにご相談いたした梅屋と三河屋の相論につきてにござる。」
「ああ、それとなくは聞いておる。なんでも三河が『伊勢白粉を使ってはならぬ』と禁令を出したとか。それについてであろう。文では友誼がどうこう申しておっても、やることがこれではな。」
晴具は忌々しげに言った。
梅屋というのは伊勢国丹生の豪商・長井氏の屋号である。梅屋は伊勢の丹生鉱山で採れた水銀を商っており、それから作られた白粉を上方に売って巨利を得ていた。
「その禁令にございまする。三河からは『この触れは禁令にあらず、水銀と鉛は長年かけて臓腑にたまって淀みとなるゆえ、口に含むべからず。赤子にはなおさら気をつけ、乳に白粉を塗るべからず、というものなり』と抗議がきてございまする。」
鈴木重勝は妻が急逝したことで、女性の健康を気にして、水銀や鉛を使う白粉を摂取しないよう領内で触れを出していた。しかしその内容は禁令というほどのものではなかった。
重勝は、水銀白粉を商いの種としている伊勢と騒動になることを懸念して厳しく規制はしなかったのだが、結局は無駄な配慮だった。
「確かにこれを受けて品を返し銭を取り戻そうと騒動を起こした三河者もおり申したが、これは些事にてすでに相論も解決してございまする。むしろ厄介なことに、梅屋の手代の間で三河の触れを偽りて広めた者がおったことがわかってしまい申した。」
「……それで三河屋はどうかかわっておるのだ。」
一方的に三河が悪いのではないとわかって、晴具は雲行きが怪しくなってきたと思い、事件の詳細を求めた。
「三河屋は特に何もしておらず、梅屋に唆された者たちが荷留めや、売りしぶり、値のつり上げなどしたようで、鈴木家に泣きつき申した次第。対馬守殿(鈴木重勝)は梅屋に損金分を払わせ、痴れ者を1人か2人か処断してはどうかと書いて寄越しておられ申す。」
「……事を荒立てぬということか。話に乗っておくほかあるまい。」
三河屋は被害者ぶっているが、実のところ梅屋が暴走したのは、伊勢湾をめぐる廻船業を三河屋が独占して、この地域の商売の様子が短期間で大きく変わったことに原因があった。
今や伊勢から堺に物を売るには、小笠原水軍の警固(護衛)が不可欠だった。もちろん伊勢北部から伊賀・近江に抜けることも普段なら可能だったが、目下の戦乱により今はできなくなっていた。
大和を抜けて河内・山城方面に出る陸路もあるが、あちこちの勢力が近江公方派と堺公方派に分かれており、下手をすれば近江派の伊勢商隊は堺派に襲われかねないため、危険だった。
梅屋をはじめ伊勢の商人たちは、三河者に頼るしかない現状に、自由を損なわれた気がして不満を覚えており、しかも三河屋にもそのことを笠に着て増長する者がいたことから、その鬱憤が今回の騒動の形で表れたのだ。
「対馬守殿は丹生のことを気にしておられて、白粉を上方に売りに行く分の船賃を値下げさせようだとか、丹生の暦を三河にも取り入れて商売の便宜を図ろうとも申しておられまする。」
「うーん……、まあよいか。細かいことは式部(山室)に任せるゆえ、梅屋の何某かを適当に処罰して、値下げの約束を書状にて残させ、暦も手配してやってくれ。」
「かしこまってござる。」
山室は晴具の決定を奉書の形で通達する奉行人である。
彼は諸々の処理について、双方の損得に不均衡はないものの、それらが基本的に鈴木重勝の提案通りであることから、内心で「御所様(晴具)は操られておりはしないか?」と懸念したが、それにしては三河側に害意がみえないので、ひとまず黙って仕事にとりかかった。
鳥屋尾は別の件について話を切り出した。
「御所様、これに加えて、対馬守殿より、もひとつお頼みがございまして候。」
「頼み?こちらに益のある話もあるとはいえ、なんだか向こうばかり頼みごとを持ち込んでおるように思うのだが……。」
「全くその通りかと。やかましい隣人を持ってしまい申した。」
「はははっ!おぬしもそう思うか。なまじ害をもたらさぬゆえ斥けようにもやりづらい。」
ここで書き物をしている山室が口を挟んだ。
「とはいえ、鈴木は当家に安く兵糧を貸し付けてくれておりまするし、長野が頑なに降らぬならば身柄を三河で引き受けるとも申しておりまするゆえ――」
「なかなか縁を切るというわけにもいかぬか。」
伊勢は三河から年利1割で兵糧を借り入れていて、そのおかげでこの2年間は休みなく長野氏を攻め続けており、このままいけば数年とかからず長野氏の息の根を止められそうだった。
「この利率は同盟国相手のものである」と重勝はしきりに強調して同盟を切られないようにしていたが、実際、普通の借財では1年で1倍半にして返すのが当たり前であるため、かなり良心的だった。
しかも、長野氏が最後まで抵抗を諦めない場合は、三河への逃げ道を与えてはどうかと提案しており、家政を取り仕切る山室としては、鈴木との同盟には続けるだけの利があるように見えていた。
「兵糧か。次の戦を思えば、三河と紀伊を押さえる鈴木と争う利はないな。」
晴具はこの戦にすでに勝った気でいた。
今後の進出先を考えるならば、北勢(伊勢北部)にはすでに六角・織田が入り込んでいて対立する恐れがあるため、次は大和国だった。北畠家はもともと大和国宇陀郡を従属させており、北がダメなら西となるのは必然だった。
しかも、大和は国人が割拠していて付け入る隙があった。かの国は元々興福寺を守護とし、他国でいう国人は興福寺の衆徒として組織されていた。衆徒は一揆を結んで連合していたが、国内では興福寺の権益を収奪し、国外では細川・畠山の抗争に巻き込まれ、落ち着きがなかったのだ。
晴具は憎まれ口をたたいたが、利を考えると「大和攻めまでは三河と同盟を継続してやってもいいかもしれない」と思っていた。
「それで、頼みにつきては、三河は何ぞ書き遣るか?」
「次の船で三河より近江公方様の奉公衆、明智彦一郎殿(政宣)がお越しとのことですが、対馬守殿はこれをお引止めなさって、先んじて当家にお伝えしたきことありとのこと。
文によれば、鈴木家は先ごろ信濃守護の御家柄の小笠原右馬助殿(長高)の御帰国をお助けいたしたそうなれど、その右馬助殿は、御所様の舅殿(細川高国)の上洛の呼びかけに応えた松尾の小笠原殿をお討ちなさったそうにございまする。」
「ふむ、わかったぞ。この我から明智何某にその仕出かしにつきて口添えしてくれというのであろう。」
「左様にございまする。文を見る限り、公方様(足利義晴)と仲違いするのを相当に心配しておられまする。」
小笠原右馬助長高は、松尾小笠原氏が近江公方の上洛要請に応えて出兵中であったことを知らずに信濃に侵攻し、慌てて戻ってきた松尾の貞忠を滅ぼしていた。
この出来事は、事情を知らなければ、三河鈴木家と小笠原長高が近江幕府と敵対するつもりであると宣言したようにしか見えず、できるだけ日和見でいたい鈴木重勝は、管領・細川高国の娘婿の北畠晴具からも自家の立場を幕府使者の明智に説明してほしいと頼んだのだ。
重勝は同じような事情説明を、主家の今川家のほか、縁のある長尾家や北条家にもしている。
「明智殿は近江から美濃に入って信濃、甲斐、駿河そして三河へと移ったそうにて、確かに信濃勢が三河を発ったときには上洛の話は知らなかったということはあるやもしれませぬな。」
山室が言った。
晴具は山室の意見を聞いて「まあ、それは仕方のないことであろう。」と言いながら、やがて来るだろう明智彦一郎なる幕府の使者に一言口添えしてやるつもりになっていた。
どう考えても口添え程度で鈴木家の立場がよくなるとは思えないが、この程度で恩が売れるならば安いもの。晴具はそう考えたのだ。
それよりも、近江幕府からまたもや上洛を求める使者がくると知って、晴具は不満を口にした。
「しかし舅殿にも困ったことよ。当家はまさに来る上洛のために後ろを固めんと長野を片付けようとしておるというのに、何度も何度も上洛をお求めなさる。『今は無理』となぜわかってくれぬのだ……。」
「焦っておられるのでしょう。丹波勢が背いたのも管領様の不用意な御手討ちがゆえ。六角様(定頼)も疑念がおありか、様子を見ておられるようにございますれば。」
山室が手仕事を止め、顔をあげて言った。
今上方が動揺しているのはだいたい細川高国のせいと言っても過言ではない。
せっかく安定してきていた足利義晴政権の足元を揺るがしたのは、高国が丹波の重臣・香西元盛を殺害したからで、香西の兄弟が離反して三好家と同盟して堺に公方を擁立してしまったのだ。
近江守護・六角定頼はその顛末を傍から見ていて高国の政権運営に疑念を覚えており、こっそり堺の細川六郎(晴元)らに接触していた。
それでいて将軍・義晴を近江に迎えて世話していることから、定頼は幕府への忠心を持ちながら、高国を管領の職に置いたままでいいのかを見極めようとしているのだろう。
一方の北畠晴具は舅を一貫して支持しているため、不満はあれどもむしろ「六角定頼がきちんと幕府の内に入って政権を支えていればこうはならなかったのに」と思っていた。
「六角も食えぬことよ。公方様(足利義晴)をお支えすると言いながら、おのれは北勢(伊勢北部)を切り取りにきておる。
伊勢国司の我に『北勢を折半しよう』などと文を送ってきよったは業腹なれど、かの地には弾正殿(定頼)の舎弟(梅戸高実)もおるし、長野と争う関も六角と通じておるようなれば、今さら言っても詮無きことか。いずれにせよ、当家が長野に勝つのを見越しての振る舞いであろう。」
細川高国は京が堺公方の手の者の支配下にあることが受け入れがたく、各地の大名にしきりに上洛軍の支援を求めていた。
しかし、近江幕府を最も近くで支える六角定頼が上洛に乗り気ではないようで、定頼は北畠が長野を滅ぼしそうな様子を見て、便乗して伊勢中北部に介入し始めていた。
六角定頼は、北勢最北部・員弁郡の梅戸に弟を送り込んでおり、これを起点に北勢の土豪を傘下に集めようとしていた。長野氏に対しては、長野領・安濃郡の北西にある鈴鹿郡の関氏を後押しして支配地を拡大していた。
一方、長野氏の北の河曲郡を支配する神戸氏には、北畠晴具の弟・具盛が養子に入っており、神戸はさらにその北の三重郡の楠(川俣)氏・赤堀(浜田)氏を与党に、長野氏を南北から包囲していた。神戸具盛の舅が楠正忠(川俣忠盛)で、赤堀氏は昔から北畠家に従属していた縁である。
ほとんど全周を包囲されている長野氏に勝ち目はなく、あとは北畠と六角がどれだけ早くこれを降すかの競争だった。
「織田が長島を攻め獲りて北勢は騒がしくてござりますれば、かの地の土豪連中を押さえつけようという心もありましょう。近江の背で他家やら土豪やら、ましてや本願寺までもが動いておっては、公方様のご上洛どころではありますまい。」
ややこしいことに、六角と北畠の伊勢分割競争には、長島や桑名をめぐって争い続ける織田氏・真宗本願寺派・真宗高田派も参加していた。彼らは主に状況をかき乱すだけだったが、その騒がしさも六角が北勢に介入する口実となっていた。
「いずれにせよ、さほどの労もなく伊勢に土地を得ようというのは変わらぬ。やはり食えぬ男だ、六角弾正という御仁は。」
晴具は六角家に対する不満を口にして黙った。
彼はこれで相談事は終わりかと思い、鳥屋尾を下がらせようとしたが、鳥屋尾はさらにまだ懐から文を取り出して晴具に差し出した。
「まだあるのか!面倒なことだ。」
「お手を煩わせて済まなく存じまする。されど、こちらは神宮祭主様(藤波朝忠)と対馬守殿の御連署にて届きましてございまする。」
「神宮か……。して、何用か。」
「先ごろの雅楽会を近々また神宮にて行い、こたびは今川家・鈴木家と当家で費えを賄うようにしてはいかがかとのお話にございまする。京は両公方様の間でお取り合いとなりましょうから、身を案じて『神宮に寄寓できるならば』とお思いの公家の方々も少なくないとか。」
「おお、それは良い話だ。この多気にも方々を招き、連歌会を合わせて開くとしよう。されど、これは長野が片付かねば動けぬことゆえ、来年かその次といったところであろう。」
「では、そのように祭主様にご一筆お願いいたしまする。」
「うむ、よかろう。」
晴具はこの雅な催し事を楽しみに思って、気合を入れて書状を認めた。
能書家でもある晴具の書状を受け取った藤波は、内容はもとより立派な見た目の書状にも喜び、記念としてこれを大事にしまったという。
藤波は2回にわたる雅楽会の主宰者として上方で名を上げ、翌年の除目では正四位下の位階を得ることとなった。それでますます神宮は北畠と鈴木に対して好意的になり、神宮祭主と国司の良好な関係を受けて、伊勢国では急速に両陣営の者たちの融和が進み、安定していくことになる。
【史実】丹生暦は北畠氏の支援で賀茂杉太夫が発行した暦。伊勢の陰陽師の森若大夫が1631年に発行した伊勢暦に取って代わられます。




