第72話 1527年「帰還」
小笠原長高は、信濃帰還のために用意してあった黒漆・白萌黄縅の具足に身を包み、家紋の三階菱を前面に張り付けた兜をかぶっている。いかにも晴れ晴れしい出陣である。
体高4尺9寸(150cmほど)の亜麻色の巨馬「大河原毛」の背にまたがって、長高は居並ぶ鈴木家の諸将に別れを告げた。
「対馬殿(鈴木重勝)、熊谷殿、伊庭殿、方々。まことに世話になった。」
鈴木対馬守重勝は「なんだか泣けてくるでござる」と言って鼻をすすっている。
伊庭出羽守貞説は一言に心をこめて別れを告げた。
「達者で。」
「いやはや、かくも華やかなる御出で立ちを見ますれば、これぞまさに尊きお方の御帰りに相応しき有様と言えましょう。絵師呼びて写し取らせたくございまするな。これは近江守護代の我ら伊庭衆にとってもまことに心強きこと。この調子で近江とは言いますまいが、どこぞの半国なりとも手に入れ鳥居殿のように我らにお任せくだされば――」
「世話になった。対馬殿、今生の別れではないのだから、泣かずともよかろうに。」
九里浄椿は、あたりの様子を全然気にしないで長口上を述べ始めていた。
長高はごく自然な様子でそれを無視して、鈴木重勝と伊庭貞説に言葉を返した。
「みっともないところをお見せいたした。左様、信濃と三河に分かれても、我らは盟友なり。何かあれば当家を頼ってくだされ。それがし、長篠までは見送りに参らん。」
かくして長高は、愛馬・伯楽号にまたがってついてきた重勝とようやく長篠で別れ、そこからは奥三河の険しい山道を信濃に向けて進んでいった。
鳳来寺の麓の谷を進む長高の指揮下には、自前で集めた600の兵と、鈴木家が寄騎としてよこした松平重吉隊500の合わせて1100があった。道中の設楽城で1泊して、田峯菅沼氏当主・大膳亮定広と鈴木家臣で設楽城主・伊藤貞久が先導役として加わった。彼らは300の兵を出している。
豊根の村で一泊し、さらに北へ向かって新野峠で1泊すると、翌日、長高軍は一戦することになった。
新野には近頃勢力を伸ばしている関氏がいたが、彼らは下伊那の下条伊豆守時氏と敵対していた。下条氏が三河一向一揆の鎮圧のために鈴木家に援軍を出している最中に、関安芸守春仲が下条領早稲田に勝手に築城していたのだ。
下条氏は領内で伐り出した材木を天竜川に流して河口の遠江懸塚湊で売っており、その大口取引先が三河屋であることから鈴木家と誼を通じて援軍も出してくれていた。
しかし、そのせいで足元を関氏に脅かされることになったため、今回はそのお詫びとして関氏討伐の密約が交わされていたのだ。
それゆえ、南からやってきた小笠原軍は北の下条氏と挟み撃ちして新野の日差城と早稲田の八幡城を囲んだ。関氏は100の兵しか集められず早々に抗戦を断念した。
下条は関の指導部の自害か追放を望んだが、長高は主敵・松尾小笠原家が守備を整える前に進軍したかったため、関氏の臣従を受け容れた。
結局、下条は早稲田を回復しただけで、関は小笠原長高に臣従して新野代官に任じられ、当主の叔父で家政を牛耳っていた関右馬允春光が長高軍に同行することになった。
「いやはや、かくなっては我が祖父のごとく小笠原守護様にお仕えするほかございますまい。それがしが『右馬允』を名乗っておるのも、そういうご縁だったということでございましょう。下条殿におかれましてもお互いわだかまりを捨て、ともに殿をお支えいたしましょうぞ。」
新野に移ってきた関氏は、小笠原守護家に従ってたびたび合戦に出ていた。それに加えて、関は自分の名乗りが「右馬允」で、小笠原長高は「右馬頭」であることから、「その臣となるのは必然だった」と言ったのだ。
「恥ずかしげもなく他家の地に城を築くだけあって、もはや『さすが』とも思われる物言いでござるな。」
わだかまりというのは、相手に迷惑をかけた方が捨てるよう呼びかけるものではない。
関の物言いは下条時氏の神経を逆なでしたが、彼は小笠原長高の手前なんとかその怒りを内心に押しとどめ、そっと関を視界から外すと長高に話しかけた。
「それにしても、右馬頭殿。この伊那の地にては熊蔵殿は名奉行として名高く、そのご主君たる貴殿の評判も高くておりまするぞ。」
「ほう。だそうだぞ、熊蔵。」
「それがし自らの話というよりは、三河の鷹見修理亮殿のおこぼれの評判にございましょう。」
自分より熊蔵がもてはやされていると聞いて主君・長高の機嫌が悪くなったのを察した伊奈熊蔵は、慌てて謙遜した。
「いやいや、『熊蔵大橋』なる立派な橋をかけ、他家においてもその名を轟かしておられる。下伊那の民はそなたが奉行として采配を振るうのを心待ちにしておりましょう。」
「左様、さこそあれば、先ごろより村々から兵が加わり案内を買って出ておるのでござりまする。」
下条はさらに長高の機嫌が悪くなるようなことを言って熊蔵を閉口させたが、熊蔵が奉行として伊那を監督するというのは、結局、小笠原長高が南信濃を支配するのを当然と思っているからこそ出てくる言葉であった。長高もそれはわかっており、焦る熊蔵を見て内心で笑みを浮かべていた。
関は下条に続けて追従の言葉を口にしたが、確かに伊那郡に入ってから長高軍の侵攻は妨げられることなく順調に進んでいた。実際に下伊那では伊奈熊蔵の噂は広まっていたのだ。
この地の民は奥三河の湯立神楽(冬至のお祭り)である「花祭」が鈴木家の支援で開催されるようになったと知って、同じようにこの地の湯立神楽「霜月祭」も小笠原家の保護を受けられるのではないか、と期待していた。
関氏の兵が集まらなかったのも、進軍してきた軍勢が伊奈熊蔵の主君・小笠原長高であるとわかって農民がその支配に服することを受け容れてしまったためだった。
自分たちの帰還を歓迎するような空気の裏に、何とはなしに長高は「鈴木重勝が色々手配りしたのだろうな」と感じ取って苦笑した。
◇
「名古山の遠山殿、左閑辺(坂部)の熊谷殿もご着陣いたした。また、物見の知らせるところによりますれば、松尾城からはしばらく前に西へ向けて兵が出たようにござる。」
長高軍が下条氏の吉岡城で1泊していたとき、下条時氏は小笠原長高にこのように報告した。
下条氏の軍勢には、下条領の南東に住む土豪で長山城(名古山)の江儀遠山氏・蔵人正直と、左閑辺熊谷氏・直勝も追いついて加わっていた。
これらの土豪は下条氏を盟主と担いで関氏と対立しており、その下条氏と協力関係を結んだ小笠原長高は彼らの支持も得られていたのだった。
「それは心強い。遠山殿、熊谷殿には礼を述べておこう。しかし、松尾の動きが思いのほか速い。いや、しばらく前と言われたか?しかも西?我らの動きの前ということであろうか。」
「物見は10日ほどは前と述べておれば、三河の方々の動きを知ってなのかどうか、なんとも言いかねまするな。」
「ふうむ。松尾の動きにつきて、方々、何かお心当たりはござるか?」
松尾城は小笠原貞忠の居城である。
今回の進軍の目標は、この松尾の小笠原氏を滅ぼして下伊那に長高の勢力を確立させ、信濃の中部から北西部を押さえる弟・長棟に対抗する地盤を固めようというものだった。
松尾小笠原氏は下条氏にとっても長年の敵で、この目標には下伊那の雄・下条氏も賛同しており、松尾攻略はよほど不測の事態が生じない限りは成功するだろうと見積もられていた。
下条氏は松尾城と隣接する鈴岡城に住んでいた小笠原政秀と仲が良かったが、松尾城の小笠原定基は明応2 (1493)年に政秀を謀殺しており、定基の子・貞忠の代になっても松尾小笠原氏と下条氏の関係は修復していなかったのだ。
「たとい我らの勢威に恐れて逃げたとしても、三河での支度を知ってから兵を集めたならば、早すぎまするな。例によって三河では兵・武具・糧秣の調達はそれとわからぬよう密かに整えてござって、外から見てわかるようになるのは出立の2、3日前に過ぎませぬ。」
伊奈熊蔵が自信を持って答えた。下伊那勢を加えた長高軍は1800を数え、確かにこれに怖気づくことはあり得るだろうが、順序が合わなかった。
長高は思案した。
「さにあらば、松尾は別に用があったのだろう。兵が西に向かったとなれば、木曽谷で何かあったか。」
「木曽谷……、松尾弾正(貞忠)は木曽(義在)の義兄弟であれば、その繋がりで呼ばれたのやもしれませぬな。」
伊那谷の西の木曽谷には木曽義在がいて、松尾の貞忠の姉妹を妻としている。そのことを関右馬允が補足したが、それでも何が起こって松尾の兵が西に向かったのかは不明だった。
「ああ、そうでござった。半月か、いやもう1月ほどは前でござろうか。松尾より管領様が上洛を求めておって云々と申し渡してきたような覚えがあり申す。もし松尾弾正が上洛を決めたのであれば、西へ向かったのはそのためやもしれませぬな。」
下条時氏が「すっかり忘れていたが大事と思っていなかった」という風を装って重大情報を伝えた。
しかし、上洛という一大事の話はうっかり忘れていられるようなものではなく、長高は瞬時に下条が意図してそのことを隠したのだと悟った。
下条氏は関氏を滅ぼすのに三河の援軍を呼び込みたかったが、松尾小笠原氏の上洛のことを伝えれば、三河勢が近江幕府の顔色をうかがって出兵を先延ばしか、取り止めにしてしまうのではないかと危惧し、敢えて隠したのだった。
もっとも下条は、松尾が上洛軍を興すとは全く思っていなかったため、内心で焦っていた。幕府の求めで上洛している者の居城を襲ったとなれば、評判が地に落ちかねないからだ。
「上洛で城主不在の空き城をかすめ取るような真似はいかにも外聞が悪い。松尾の先の八幡宮(鳩ヶ峯八幡宮)で宿営して……、ううむ、ひとまず飯田の坂西氏を脅してみるか。」
「坂西氏とは伝手があり申す。それがしにお任せくだされば必ずやお味方に加えることかないましょう。」
長高はひとまず、入って身を守れる拠点を探して、近くの飯田城に目をつけた。一方で、宿営するのは城方を挑発するための行動だった。
松尾城の目と鼻の先でこれ見よがしに毛賀沢川を渡河し八幡宮で宿営することで大きな隙を見せ、城方の攻勢を誘い、反撃の形をとって城攻めに持ち込むことで、悪評を避けようというのだ。
彼が下条時氏に非難するような視線を向けながらこう言うと、焦りを覚えている下条は、自分が役に立つことを示そうと坂西氏を味方につけるべく交渉することを願い出た。
◇
その後、いさかいなく飯田城に入城できた小笠原長高は兵を休めることができ、慌てて戻ってきた小笠原貞忠を討ち取って下伊那の支配を確立した。
上洛途中の松尾城・小笠原貞忠は、「ひとまず交渉しよう」と説得を試みた義弟の木曽義在を振り切り、単独で木曽と伊那の間の山々を西から東に突っ切って飯田に現れた。
しかし、強行軍で疲弊していたうえに、上洛という長征ゆえに200ばかりの少ない兵しか連れていなかったため、あっさりと長高に滅ぼされ、貞忠の幼子は三河に追放された。
「坂西伊予守が早くに城を開けてくれて助かったわ。
さすがに三河より来りて落ち着くところもないでは、将兵の疲れもたまる。いくら兵数があってもくたびれておっては、松尾弾正(貞忠)やら知久やらに後れを取るやもしれぬからな。
吉田の松岡氏が従属したも、伊予守の働きによるとも言えような。」
坂西氏と下条氏は、かつての鈴岡城主・小笠原政秀の与力仲間だった。
また下条時氏(伊豆守)は、坂西政之(伊予守)が急激に勢力を増している知久頼元(大和守)に圧迫されて困っているのを知っており、知久氏に合同で当たることを条件に小笠原長高に対する従属と飯田城滞在を認めさせたのだった。
知久氏はもともと坂西・下条とは逆に、鈴岡に対立する松尾の小笠原陣営に属していて、竜東(天竜川東側)に勢力を持っている。
川が自然の領境となることから、長高は知久氏には手を出さずにひとまず川の西側の国人の従属を取り付けるべく動いていた。
飯田の北の有力国人・松岡氏は、様子見なのか、戦をするでもなく動きが鈍かったが、坂西氏の働きかけに加え松岡氏に従う座光寺氏が勝手に長高と誼を通じたことにより、なし崩し的に長高に対して従属的な同盟を結ぶことになった。
「松岡につきては座光寺の者らが一足先にこちらに通じたが決め手になり申したが、いずれにせよ、それがしも伊予守殿には配下の侍をよく貸してもろうており、まことに助かっており申す。」
「下条の狐に関の狸と、信の置ける者が少ない中で、坂西のような者はありがたい。」
「……殿、言うまでもありませぬが、くれぐれも下条殿と関殿にそのようなお心をお見せなさいませぬよう。」
「わかっておるわ。」
下条時氏は下伊那では長高以上の勢力を持っており、今は利害が共通しているから味方になっているが、松尾小笠原氏の上洛を隠したように勝手をしないとも限らなかった。
一方で関春光は下条氏に勢力を削がれたにもかかわらず、彼らとも表向き友好的に接しており、腹の内がわからなかった。長高に仕えるのも、誘導して自家に利益をもたらそうというのだろう。
「なんとか国人どもを滅ぼして直に差配できる地を増やさねばならぬな。」
「三河からは、かたじけなくも年利5分(5%)で米を借りておりますれば、財につきてはしばらく余裕はあり申すにしろ、あまり時をかけてはおられませぬところなれど……。」
「ううむ……。」
三河にいたときよりも格段に厄介な状況に、長高は面倒くささを覚えて唸った。
熊蔵はそんな主君のために、すでに三河と飯田の間をつなぐ補給路の確保と、松尾小笠原家の配下の地侍や村落に対する支配権の確立に奔走していた。
そのために役立ったのが鈴木家からの借款である。借財の年利は普通は少なくとも5割(50%)であるところ、鈴木家は5分(5%)という良心的な利率で物資を貸してくれていた。
おかげで獲得地の住民に負担をかけることなく、熊蔵は逆に下伊那の村々に年貢の減免や土地開発の支援を約束し、扶持を提示して侍を雇い入れることができた。
彼の名奉行という評判も後押しとなって、占領地の慰撫は短期間で完了した。
無事に下伊那の掌握がなったとはいえ、この地には中小の豪族が多く、小笠原長高もその中のひとつとして周囲に埋没しているため、少しでも自前で動かせる人員や物資を増やす必要があった。
そのため熊蔵は、下伊那の国衆には軍役を割り当てる一方、食い詰め者を寄こすよう頼み、彼らが動かせる頭数を減らすよう努めていた。
一方で長高は家臣の平岩九郎右衛門を東美濃の恵那郡・大井城に派遣していた。この地にも松尾小笠原の所領が広がっていたからだ。
松尾から派遣されていた代官の高柴景長は、主君・小笠原貞忠の死を聞いて臣従し、松尾陣営と対立する岩村城・遠山景前は、奪われていた一部旧領の回復の代わりに長高に従属した。
かくして小笠原長高は信濃守護就任への足掛かりを得て、じわじわと北方の片切氏やその一族の大島氏などを切り崩していくことになる。
それを見て、かつては松尾小笠原家と結んでいた今川家も長高に接触した。指図したのは、北条氏に駿東を放棄させた手腕から氏輝の外交顧問として招かれていた九英承菊(太原雪斎)であった。
小笠原長高の鎧のイメージは、白萌黄紺段絲威大鎧、鉄黒漆塗切付小札萌黄糸威裾紅二枚胴具足などの色合いです。




