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戦国の鈴木さん  作者: capellini
第6章 停滞編「剣が峰に立つ」
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第71話 1527年「大橋と新城」◆

「これよりは奉行ら御役目のことにつきて話す。」


 税制や行政区画の説明を終えてしばらく休憩した後、鈴木重勝は戻ってきた。


「まずはそれがしの相談衆は熊谷備中、吉田侍従、根来の金谷斎とする。備中は隠居の身となるゆえ、方々はこれまでのように取次を頼まぬように。

 それから奉書(がかり)を置き、中原外記と高橋外記にお頼み申すゆえ、他の名にて出されたものあれば偽書なり。気をつけよ。」


 重勝は注意事項を交えて人事変更を告げた。

 金谷斎とは山本菅助が西国に旅立つにあたって寄越した後任の軍配者で、奉書とは家臣が代筆した主君の命令書のことである。

 彼は続けて取次について述べる。


「諸将に関わるは取次のことなり。取次は方々の相談を受けるが、それのみならず相談を記録し、その扱いを奉行らに割り振る。ゆえに取次となる者は、諸々の御役目をもよく承知しておかねばならぬ。」


 普通、大名と家臣・外部勢力は、取次やそれに類する者が口利きする形でやり取りする。

 口利きは近習や馬廻りも担うが、癒着を防ぐために鈴木家では護衛専任の「側掛」が代わりに置かれて、お久の連れ子の大給松平親乗、宇津忠俊、松平信長、阿寺平七、阿寺平八が配された。

 また、鈴木家の「取次」は連絡係というよりも相談事を受けて仕事を振り分ける部署として整備された。故・鳥居源七郎(忠明)が過労死したことを受けて、相談事を主君や家老に集めないようにしたのだ。

 この取次は自身も奉行仕事をしつつ相談事や業務を記録し、主君・家臣から来た案件を奉行評定で共有して仲間と仕事を分け、時には臨任の者を呼び、主君に裁可を求める。

 取次が何らかの理由で身動きが取れないことになっても、他の奉行はその業務記録を基に仕事を回すのだ。


 一方、重勝はここでは話さなかったが、国外の勢力との取次は外交上の秘密を握りうるため主君と直接やり取りすることになる。

 信州相手は伊藤貞久、知多相手はかの地から招致された花井又二郎元信、三河諸寺社は酒井信誉、伊勢神宮は永山道損がそれである。


「奉行以外の者で相談がある者は『小指南』の松下(長尹)を頼るように。他家の方々は『惣取次』の設楽三郎に使いを出すなどしてくだされ。」


 松下は口がうまいため下級家臣の相談を受ける立場となった。

 元小姓の設楽三郎清広は、戦死した設楽貞重に代わって設楽家惣領になっており、家臣の数も十分にあって自前の使番に困らないことから、三河内の諸家との連絡役に抜擢された。


「奉行衆の取次として鷹見修理亮を置き、これを『奉行指南』とする。」


 元々は鷹見修理亮は自前の家臣がなかったため、今や実家や将来の婿の父である三宅師貞を家臣にしている。彼らに加えて講や現地の人間を使って仕事をこなすのだ。

 その鷹見がついに奉行評定を監督する役目に任じられ、倉方の大畑定近と小姓上がりの冨永資広、作事方の塩瀬権次郎と酒井忠尚、薬草園・果樹園の長田広正と山田新左衛門、他家からの手伝奉行に具体的な仕事を割り振ることになる。

 また、奉行の下部組織として大工衆もまとめられ、牧野家から引き抜かれた中尾・真木・藤原が正式に鈴木家大工頭に任じられ、美濃の関から招かれた刀鍛冶・八板金兵衛もその列に加えられた。

 その他、訴訟と商人管理を担う町奉行は、元小姓の熊谷正直の下に、西三河・岡崎に詰める近藤忠用と東三河・御油に詰める牧野貞成が置かれた。これに牧野家の稲垣や能勢ら応援が加わる。


「鷹見には東三河庭野の豊川を挟んだ対岸に町を造営するよう命ずる。かの地には城も普請し、『鷹見新城』と名付ける。また、すでにそのために豊川には伊奈熊蔵に橋を築かせておったが、先ごろ落成となった。これを『熊蔵大橋』と名付ける。」


 諸将は「おお!」と思わず声を発した。鷹見が重鎮の地位をいよいよ固める上に、その名を採って東三河の中心地として新たな町を作るというのだから、よほどのことと思ったのだ。

 そしてそれに並んで、小笠原家臣でありながらよく尽くしてくれた伊奈熊蔵に今になって大きな名誉を与えたのも何かの転機を画するように思われ、諸将は色めき立った。

 当事者の鷹見修理亮と伊奈熊蔵には事前に話がなされていて冷静を装っていたが、互いに目配せをして誇らしげに背筋を伸ばした後に深く頭を下げた。


 鈴木家の政庁は庭野にあったが手狭になったため、学問所に場所を明け渡すこととなっていた。新しい町は豊川流域の産物を一手に商う商業都市として設計され、歓楽街も併設される。

 一方の熊蔵大橋は刎橋(はねばし)という構造の橋で、川の岸壁から横向きに支柱を伸ばし、それにどんどん接ぎ木して両岸からせり出す土台を作って架橋するものである。橋脚がないため舟の通行が妨げられず、鉄砲水にも強い形である。

 熊蔵はかつて重勝の命で信濃に入り、梓川にかかる「ぞうし橋」という橋を検分していた。彼は、確かな岩盤を露出させるまで両岸を削って念入りに施工させ、3年がかりで完成させたのだった。


「軍には『軍指南』として伊庭出羽(貞説)を置くが、諸将は相談するならば九里入道(浄椿)と宇津左衛門五郎(忠茂)を相手とするように。

 尾張への備えとしては、大森の西郷弾正(正員)はそのままに、新たに知立に青山徳三郎を入れるゆえ、永見氏と合力するように。馬奉行として熊谷次郎左(直安)もこれを支えよ。

 水軍には取次を置かぬが、入り用ならば三河屋に伝えれば船を動かせる。ただし、不用意に用事を申し付けぬように。先ごろ堺より彼方との商いのために山本菅助を西国に送ったが、これが戻るまで水軍は遠方への航海に慣れるべく修練に励んでおるでな。」


 重勝は小笠原水軍に遠洋航海の訓練を申し付けていた。水軍は紐で吊った方位磁針を頼りに海図を作成しつつ、同盟国の北条が支配する八丈島との間を訓練航海しているところだった。

 諸将は相談先として伊庭が外されたのは「さもありなん」と思ったが、ここで小笠原長高の名前が出てこないのを不思議に思った。諸将の間では彼が客将であるという印象は薄れ、もはや鈴木重勝の一の将と思われていたからだ。

 さらには鳥居伊賀守の名も呼ばれていないことに気づく者もおり、「新町や大橋のごとく、何か特別なことがあるのではないか」と期待を膨らませた。


「諸将に関わるはこれで全てであるが、紀伊のことで話あり。

 紀伊の守護殿(畠山稙長)は細川や畠山の内々の争いにかかずらわっておる。そもそも東紀伊は守護の力及ばずしてほとんど無主なり。その中で尾鷲の長篠左馬允は堀内と組んでよくやってくれており、熊野を治める七上綱(じょうこう)を押し込めつつあるそうだ。」


 紀伊では畠山尚順(尾州家)が西部の有力国人・湯川氏の反乱を鎮められないまま追放され、跡を継いだ稙長は、畠山の別家(総州家)と河内の支配をめぐって争う中で、西紀伊を早くまとめて河内侵攻を本格化させようと目論んでいた。

 畠山一族の内部分裂は応仁の乱の原因になっており、それ以来ずっと続く根深いものである。紀伊・尾州家は細川高国の近江幕府を支持する一方、河内・総州家の畠山義堯は堺公方を支持しており、この争いも畿内の大きな派閥争いの一環だった。

 畠山稙長は、鈴木家の支援を受けた湯川氏・玉置氏・野辺氏らと睨み合いとなっており、これを圧迫すべく南部の山本氏・安宅氏・小山氏に協力を呼び掛けているところである。


 それをしり目に、紀伊東部に忍び込んだ鈴木家は、尾鷲を中心とする菅沼一党に任せて支配地域を南北に拡大させており、管理と防衛の仕事が片手間では済まなくなっていた。

 東紀伊の熊野は昔から守護の支配をはねのけており、今は七上綱という7家の寄合で運営されているが、7家それぞれの力は弱体化しつつあった。

 上綱の1人の宮崎貞信は、親鈴木の堀内氏の圧力を受けて鈴木家に臣従し、子の行信は小笠原水軍に加入していた。宮崎父子は紀伊九鬼氏から宮崎氏に入った養子の流れである。

 一方の堀内氏は熊野社の社家の一族で、熊野別当の子孫を自称して近頃勢力を増しつつあり、紀伊の流民を引き取ってきた三河鈴木家とは10年近くの付き合いである。

 七上綱の他5家(芝・滝本・矢倉・中曽・蓑嶋)も鈴木と堀内の圧力に屈しており、唯一反抗的な新屋は見せしめに近々攻め滅ぼされることになっていた。


「かくなっては熊野を三河に並ぶ当家支配の地とすべく鳥居伊賀守を送り、東紀伊はその命に従うものとする。伊賀にはかの地で勝手を許すゆえ、これをよく治めてほしい。」

「承知つかまつり申した。」


 鳥居伊賀守は簡潔に答えたが、内心は喜悦に満ちていた。

 「鳥居に一国を」というのは亡き源七郎との約束である。また、海を挟んだ紀伊の差配は三河からでは難しく、生半可な者を送っても失敗するか独立しかねないため、任せるなら彼しかいなかった。

 鷹見と鳥居という重勝の両腕ともいえる譜代の家臣が大いに面目を施すのを見て、諸将の中には評定の最初に演奏された「今日は素晴らしい日だ」と歌う「安名尊」のことを思い出す者もあった。


「伊賀には期待している。そして大変お待たせすることになり申したが――」


 重勝はここで言葉を切って小笠原長高と視線を合わせた。


「当家に長らく逗留して力を尽くしてくれた小笠原右馬助殿であるが、こたび信濃にご帰還することになる。当家はこれを全力でお支えし、この評定の後には直ちに出兵の支度をすることとなる!」


 ◇


 三河で鈴木家が軍勢を整えている頃、伊勢は混乱していた。

 管領・細川高国に対立する堺公方勢力が、高国の娘婿・北畠晴具の援軍派遣を防ぐために、伊勢中部で彼らの宿敵・長野氏を焚きつけたことで、北畠と長野は武力衝突に至っていたのである。


「丹波の手の者か、阿波の手の者か、余計なことをしてくれたことよ。ようやっと志摩の海賊を黙らせたところというのに。」


 伊勢国司の北畠晴具が悔しげに言った。

 鈴木家による伊勢湾の封じ込めは、伊勢内陸の北畠家にも影響を与えていた。

 封じ込めにより湾の外側の海運は御師か三河屋に頼るしかなくなりつつあったが、彼らこそが晴具にとっては敵なのである。御師は鈴木家に保護されて自由に動けるため、その大本の伊勢神宮も影響力を増しつつあり、晴具は危機感を募らせていた。

 それゆえ彼は海賊衆が四分五裂して落ち着きのない志摩に対する圧力を強め、鳥羽の橘忠宗に答志郡の海賊をまとめるよう強制し、九鬼氏の波切城を攻め落とさせた。当主・泰隆は自刃に追い込まれたが、彼の幼い長男・次男は家臣に連れられて故地である紀伊国九鬼城に落ち延びていた。

 橘氏を中心とする自前の海賊を組織することに成功し、晴具の目的はある程度は達成されていたが、長野氏に対応するために志摩から手を引かねばならず、志摩を直接支配するまでは至らなかった。晴具はそれを悔んだのだ。

 

「長野とはどのみちぶつかる定めでございますれば、致し方ありますまい。ともかく藤方にさらに後詰を送りましょう。坂内(さかない)の御舎弟様と木造(こづくり)の参議様の方にもお手当てが要るかと。」

「うむ頼んだ、式部少輔(山室国兼)。」


 山室は北畠家の代々の奉行人で家政実務を取り仕切る立場にあり、この場で軍令を伝える奉行人奉書を作成し始めた。

 藤方は長野氏にほど近い地のことで、この地名を苗字とする北畠庶流の藤方慶由が守っていた。坂内の舎弟というのは晴具の弟・具祐のことで、木造参議は一門の俊茂のことである。

 北畠家ではこれまで坂内と木造の一門衆に長野氏との戦を任せており、その南の多気御所にいる本家は彼らを後方から支援することが多かった。

 

 鳥屋尾茂康(豊前守)は、ここで躊躇いがちに書状を取り出した。鈴木重勝の書状である。

 礼儀を厚くして宛名は晴具本人でなく鳥屋尾となっている。彼は大湊など沿岸部との取次をしている関係で、鈴木家の相手もしていたのだ。


「御所様(北畠晴具)、実はまたもや鈴木から書状が来ておるのでございまするが……。」

「またか、もう無視しておけと言うておっただろう。」


 かつて今川氏親の要請で、細川高国(晴具の舅)の命により北畠家と鈴木家は不戦協定を結んだ。

 その後も落ち着かない志摩海賊を北畠家と伊勢神宮がそれぞれ支援していたが、晴具は敵対派閥の背後に神宮だけでなく鈴木家もいると断定して、この協定は有名無実だと思っていた。

 鈴木家は、実際は志摩海賊には手出ししていなかったが、志摩国南部ではこっそり尾鷲に上陸し、その後もじわじわと北に勢力を伸ばしていた。

 そこまで手配りしている余裕のない晴具はこれを放置せざるを得なかったが、それでいて鈴木家からはそこそこの頻度で手紙が来て「仲良くしましょう」と言ってきており、鬱陶しく思っていたのである。


「そうなのでございまするが、こたびは堺や神宮のことを書き付けよるゆえ、お知らせしておくべきやもと思い申して。」

「……続けよ。」

「かの家は堺に屋敷を構えておる都合、堺公方と誼を通じざるを得ぬものの、主家の今川が管領様のお味方で、しかも鈴木は三好に嫌われておるらしく、わざわざ近づくつもりはないとの由。その証として神宮との間取り持ち、志摩の地割するつもりあり、と申しておりまする。」

「長野攻めの背後を固めてくれようというわけか。」

「左様にございましょう。」

「……志摩衆の船に便宜を図るよう求めよ。それを認めるならば悪くは扱わぬ。」


 かくして北畠家は、鈴木家とは不戦協定を更新し、伊勢神宮とは現状維持を約束した。

 つまり、40年ほど前に北畠家が参宮路次(伊勢参宮街道)に勝手に関所を設けたり神宮領を押領したりしたことなどは不問として、これ以上の押領はせずに現状を固定するという合意である。


 一方、志摩国答志郡は、鈴木家の的矢湊を除いて北畠領となった。

 志摩国英虞郡の南は人口が希薄で伊勢国や紀伊国との境が判然としなかったため、現状に合わせて国境自体を変えてしまうことになった。そうすれば一郡の主という北畠の立場が守られるからだ。

 鈴木家がその一部を支配する紀伊国牟婁郡は、熊野と伊勢を結ぶ古道の「始神(はじかみ)峠」より南と定められ、それより北の長島城あたりからが北畠家の志摩国英虞郡となった。

 志摩の五ヶ所浦を領する愛洲氏は、鈴木家と内々に同盟していたのがばれて、晴具により当主父子が追放された。弾正忠親忠・治部大輔教忠の父子は、鈴木家に引き取られて紀伊に移り、伊勢国野篠一帯に残る愛洲一族は北畠家への従属度を強めることとなった。



【史実】東三河・庭野対岸の「新城」は野田菅沼氏により1532年に作られ、1575年に「新城城」が奥平氏によって作られます。


【史実】八板金兵衛は1502年生まれの美濃国関の刀鍛冶です。不明な時期に種子島に移住し、1543年に伝来した鉄砲の複製技術の開発に携わり、1545年頃には早くも堺や根来で複製が開始されました。


【史実】当時、志摩国英虞郡は尾鷲までありましたが、1582年に伊勢の織田信雄と紀伊の堀内氏善が英虞郡を半分こして伊勢国度会郡と紀伊国牟婁郡に編入してしまいました。

 尾張国山田郡(瀬戸のあたり)も春日井郡と愛知郡に分解されていますし、戦国時代(織田家?)では律令以来の枠組みの変更はままあったようです。

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― 新着の感想 ―
久々に読んだのでよく覚えて居ないのですが、最初は勝手働きを許されて紀伊で活動していた菅沼党はその後鳥居が紀伊鈴木領を差配することになって不満に思わなかったのでしょうか?
[良い点] 綿密に資料を調べておられ、かつそれをうまくものがたりに溶け込ませていて、素晴らしいと思います。 [気になる点] 最古参にもかかわらず平七・平八があまり出てこないな、、、と思っていたら、護衛…
[良い点] とても面白かったです! 現代と戦国の価値観を持つ主人公の将としての強さと、人としての弱さが丁寧に描写されており、物語により感情移入できました。また、それにより物語にビリーバビリティーを感じ…
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