第70話 1527年「安名尊」◆
三河の諸将は、鈴木重勝に呼び出されて岡崎に集まっていた。岡崎城は大規模な改修が進んでおり、広間に100人以上を収容できる本丸御殿が新築されていた。
上座に座る重勝のそばには楽器を構えた者たちが10人並んで催馬楽(雅楽の一分野)の「安名尊」の演奏を始めた。
「今日はまことに素晴らしき日だ」という素朴な喜びを伝えるその歌は諸将の心に染みわたった。
寺部の鈴木日向守重教は、演奏を聞き終えるとしみじみと言った。
「時折『あれこれ家中を整えておる』と知らせは来るも、何をしておるのかいまいちわからなんだが、こうして仕上がった歌を聞けば、なるほど整ったなあと思うことよ。」
「おぬしの口ぶりではなんとも間抜けに聞こゆるが、されど整えたる様は確かに感ずるところなり。
雅楽に式目にと、美濃介殿(鈴木重勝)はもしや今川のお屋形様と肩比べをするつもりなのやもしれぬ。三河の地に駿府と並ぶ文芸の町を作ろうというのか。」
寺部の日向守より賢そうな口ぶりで酒呑の鈴木次郎左衛門重信が言った。
彼らは足助の鈴木重直とともに鈴木重勝家に臣従することを申し出てから、父世代を隠居させて当主となっていた。
彼らには家臣の忠誠を固め土地から例年通りの収益を得られれば十分なのであり、土地を直轄化して効率的な経営と増益を目指すという重勝の考えはいまいち共感を得られていなかった。
重勝もそれは承知であり、楽方の整備は国が豊かになったことを肌で感じ取れるようにするためでもあった。2人の様子を見れば、その目論見はある程度成功したようである。
演奏が終わると、岡昌歳がこの曲を演奏することの一体何が重要なのかをわざわざ説明した。
岡は重勝の懇願を受けて今や鈴木家の楽方の奉行になっていた。いっとき三河に下向していた四天王寺の雅楽家・東儀は摂津に帰ったが、噂を聞きつけた京の雅楽家・多久氏と山井景通が下向してきていた。
この頃は窮乏から雅楽家同士で楽人職の取り合いも激しく、久氏の父・久泰は石清水八幡宮の陪従(楽人職)をめぐって京の地下楽人の筆頭・豊原盛秋と争い、先ごろ没していた。景通は山井氏の庶家で、本家と鴨社・北野社の恩給をめぐって争った。
こうした事情から、両者は将来を悲観して三河に流れてきたのである。
「皆々様、お聞きいただいたはしばらく前に失伝した『安名尊』という曲でおじゃる。それがこうして再び耳目に触れるようになったは、鈴木様の助けを受け、公卿の方々が集まりて議を尽くしたおかげでおじゃる。
主上もたいそう感心したまいて、鈴木様はこたび対馬守に叙せられておじゃりまする。」
岡がこのように述べると、諸将は感心して「おお!」と声を漏らした。専門家に言われると「そういうものなのか」と、より感心するという寸法である。
鈴木重勝は上方とのやり取りが増えつつある中で、自家が軽んじられないようにするために、世間にわかりやすい功績を欲していた。
そのような目的からすると、岡から聞いた各地の寺社に眠る古い楽譜から失われた曲目を再興するというのは、いかにもよさそうだったのだ。
◇
古譜のありそうな寺社で一番に思いつくのは伊勢神宮であり、重勝が取次の永山道損を介して神宮に相談したところ、祭主・藤波朝忠はすぐに朝廷に話を持ちかけた。
藤波は自身の名声のために、幕府の混乱で先行き不安な京から公卿を伊勢に招き、雅楽会を主催しようと考えたのだ。もちろん費用は鈴木家持ちである。
藤波の連絡を受けた神宮伝奏・今出川公彦は琵琶の名人でもあり、近頃の雅楽界の危機的な状況もあって、一も二もなく会の準備が始まった。
この頃は雅楽を司る綾小路家が断絶し、神楽を司り一度断絶している滋野井家も、同じく神楽を家業とする庭田家も養子をとってなんとか家を繫いでいる有様だった。
故・後柏原天皇も雅楽の故実のゆくえを心配しており、それを受けて雅楽頭の故・豊原統秋が『體源抄』という本に知識を書き集めたばかりだったが、当の豊原家も次の世代で途絶の危機を迎え、なんとか養子の盛秋が跡を継いだところだった。
宮中での舞楽は時々しか催されなくなっており、これを機に雅楽・神楽の研究が行われることになったのである。
このような中で楽所奉行の山科言綱が奔走して、琴・箏を得意とする四辻公音や、笙に長けた正親町実胤らも集まることになり、数ヶ月かけて「安名尊」が復興された。
こうした催しは代替わりしたばかりの後奈良天皇に箔をつける意味でも歓迎され、次の会では「伊勢海」の復興を課題とすることも決まった。
発起人の鈴木重勝は功を認められて「正六位上・対馬守」に遷任した。対馬守には先ごろ死去した多久泰が任じられており、子の久氏が後を継ぐまでの間の任官となる。
しかし、重勝の喜びに水を差した者がいた。今川家である。山科言綱の妻の姉が寿桂尼であることから雅楽会の話が伝わり、「主家を差し置いて勝手をせぬように」と釘を刺されたのだった。
◇
催馬楽の余韻が消えた頃、重勝は今回の大評定の本題を切り出した。
「こたび皆に集まってもろうたは、新たなる家中の仕組みを伝えるためなり。この曲目は祝いの場にて披露されるものと聞くゆえ、各々方にはこの門出を分かち合い、ともに祝ってほしい。」
重勝がこのように話している間に、小姓の鳥居源七郎(忠宗)、青山藤八郎、奥平久兵衛が冊子を配った。鈴木家の新体制を説明するために木版印刷で複製された簡単な読み物である。
「ややこしい話ゆえ書冊を刷った。見ながら聞いてほしい。まずは御役(税)につきてなり。」
鈴木重勝家で長い時間をかけて準備したのは、第一に税制だった。
「商人には初回以降は年に2回、商事免状のために銭を払わせる。店棚持ちの者には、扱う品の種類や屋敷と倉の大きさによりて額を決める。連雀(行商人)や馬借には、駄馬の数や荷の種類に応じた銭と引き換えに関所手形を与えるものとする。」
商人と通行人の身元確認は間者排除と徴税のためにすでに行われていたが、これを以て町奉行の管轄のもと三河全体で制度的に行われることになる。
そのほかの基本的な税は物納の年貢、銭納の家屋に対する棟別銭と田畑に対する段銭があった。
「『棟別』『段銭』は幕府・守護の御役(税)にて憚りあれば、当家にては『有徳銭』と名を改め、毎年、寺社修築と貧者救済のため大地主・大屋敷からより多き銭を集めん。集めた銭は寺社のためのほか、飢饉のときには施しを支度し、普段は貧者と病人を養うために使われる。」
棟別銭・段銭は元々寺社修造の名目で室町幕府かその許可を受けた守護が臨時で徴集するもので、守護でもない鈴木家が徴収するには工夫が必要だった。
そのため、寺社のためだけでなく、徴収した税を貧者や病人の保護のために義倉・施療院・公共土木工事の経費に充てるという建前を用意して違いを出し、毎年徴収する形にしたのだ。
棟別銭・段銭は銭納で、有徳銭も鈴木家の銭の需要に応えるためのものだったが、農民が自分で換金するよりも商人に任せた方が失敗がないため、彼らは官衙講に属する「蔵本・銭主(金融業者)」に納税を委託することになる。
この常設の有徳銭は年貢と異なり一国平均役、つまり三河の諸家から一律に支払いを求めるもので、諸勢力との折衝でようやく成立した。彼らが支払いを受け容れたということは、鈴木家の領国支配の確立を意味した。
さらに、守護の権限を大々的に行使することになるため、今川家からの自立を強める意味もあり、家中の反今川派の面々は少しばかり溜飲を下げた。
「寺社は奉行の酒井のもとにまとまり、当家から扶持を得て、我が領内にて農事と兵役とを司る『講』と合力する。寺社に属した者は『講』に加わって『調衆』か『警固衆』となる。」
調衆は検地役人、警固衆は警邏役人である。
重勝は「保護するからには寺社に土地管理と警固の人員は不要である」として、既存の人員を供出させて官衙講に組み込み、土地台帳の作成と警察の業務を任せたのだった。
この仕組みは、一向一揆後に寺社に対して鈴木家が特に優位な立場にあった間に始められ、『今川仮名目録』を導入して守護不入特権の否定を正当化するようになると、断固として強行された。
主導したのは寺社奉行の酒井信誉で、時々僧兵が不穏な動きを見せることはあったが、いくつかの小寺が謎の失火で崩れて別宗門の寺に挿げ替えられてからは、進捗ははかばかしかった。
「次に年貢である。年貢は古の朝廷に倣いて戸籍に基づき集められる。戸籍は『講』ごとに作り、検地に合わせて5年ごとに改める。」
年貢は、作物の種類と地味の等級に応じた税率に、面積を掛けて算出される。そうした情報に加えて、棟別銭や段銭の等級も併せて検地台帳に記録されることになる。
記録の精度はさほど高くはないが、「毎年使える財は大体これくらい」というのがわかるのは大きな意味があった。
「貧者が盗賊となるを防ぐべく、年貢を払えぬほどの貧者には、貧窮の程度がさほどでなければ賦役の対価として手当を給する。それでも困窮する者は救貧院に住し『講』の指図に従いて作事や農事をこなすべし。」
税を払えないような貧困者は、公共土木工事や鈴木家直営の農園での労働に従事して、減税か賃金支給を受け、それでも生活できない者は、労役を行う代わりに最低限の衣食住が与えられる救貧院に所属できた。
「これらを目付するべく、『講』には武家、寺社、蔵本(金融業者)、農民、大工が集まる『寄合』を置く。この『寄合』は2000軒の戸籍を持ち、その相論を引き付け、警固衆と手伝人足(共同農作業員)250を世話し、遠国へ戦に向かうときには兵250を集むるものなり。」
官衙講はおおよそ2000世帯(人口にして約1万人)ごとに正式に行政区として設定され、寄合によって運営されることになった。
寄合で解決できない問題は、相論ならば町奉行が上訴審となり、その他の開発や運営に関わる問題は各部署で対処できなければ奉行評定が扱うことになる。
「これにてしばし休みとする。これらの仕組みにつきて方々で語り合うもよし、疑問あらばそこなる鷹見修理に聞くもよし、ゆるりと過ごされよ。食い物と飲み物も用意させよう。」
◇
説明を聞き終えた諸将は近くの者とやいのやいのと話し始めた。
「こうして絵図で見ると、武家・寺社・村の寄合が『講』なるものであるというのがよくわかる。」
寺部の鈴木日向守重教は酒呑の鈴木次郎左衛門重信に感想を述べた。
彼は、配られた冊子の「講」と銘打たれた大きな丸が真ん中に描かれたところを開いていた。この丸は下方の「侍」「寺社」「農民」と線で結ばれ、上にある「鈴木家」とは「沙汰・兵・年貢」という言葉を伴う線で結ばれている。
「うむ。それぞれ別にしておった仕事をひとまとまりにするということであるな。そしてそこには主家たる鈴木の目配りと命が届くようになっておるというところか。」
「出羽掾殿(鈴木重直)は美濃介殿、いや対馬守殿のもとに奉行を送っておったが、この仕組みを取り入れようとしておったのか。」
足助の鈴木家からは小原鱸の嫡男・永重、今は亡き小民部丞(重勝の父・忠親の弟)の子・鈴木重吉、重直に取り立てられた鈴木高教と深津重次が奉行として鷹見修理亮の指導下に入っていた。
そのほか、奥平家からは当主・貞昌の弟である貞次と、娘婿の阿知波民部定基がきていた。尾張の防衛で協力関係を深めたい三宅家からは児島義高が、鈴木重勝家との疎遠さを不安視した田峯菅沼家からも城所清庵入道がやってきていた。
「そうであったのだな。銭になる作物のあれこれを学ばせておるだけと思うておった。しかし出羽掾殿がこの仕組みを取り入れるというならば、我らもそうすべきやもしれぬ。」
「ひとまず出羽掾殿に相談してみよう。」
彼らはもちろん商品作物の扱いについても学びに来ており、山間では茶・藍・櫨・筍・里芋などのほか、紀州蜜柑・イチジク・アケビといった果樹も育てられ、それらの肥料のための草木灰の生産や、紙漉き・炭焼きのための植樹、製綿・養蚕業のための綿花と桑の栽培も行われた。
重勝としては従属家にも軍役を負担してもらう都合、三河全体で富国に努めねばならないと考えており、農業技術の伝授を積極的に行っていた。
しかも、東紀伊を押さえて肥料となる干鰯の産量は増えたが、同時に彼らは穀物の外部供給を必要としていたため、三河の開発は急務だったのだ。
鈴木重直にはなぜか従順な寺部と酒呑の鈴木家は、彼の勧めでようやく東の鈴木家への漠然とした疑念を捨て、彼らも加えて全三河で家臣間の交流が進み、仕組みが統一されていくことになる。
【まとめ】音楽方面で下級貴族との縁がさらに広がり、ほぼ三河全土に行政区を置いて地侍・名主も使って徴兵・警察・財政・開発・福祉をかなり在地直結で行えるようになりました。
【史実】安名尊は1685年、伊勢海は1626年に復興されます。




