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戦国の鈴木さん  作者: capellini
第6章 停滞編「剣が峰に立つ」
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第69話 1526-27年「堺公方」

「岡殿、わざわざ天王寺より三河までお越しくださってかたじけない。国内の神楽囃子を集めて『楽方』を作ったはよいが、雅というにはちと物足りぬで、岡殿のような誉れ高き楽人のご指導賜れるはまことにもったいなきことよ。」


 鈴木重勝がたいそう上機嫌に言った。彼の感謝を受けるのは、岡昌歳という雅楽家である。

 岡は、上方の三大雅楽組織の一つ「天王寺方」という組織に属して、これまで各地で雅楽の教授を行ってきた。他には宮中方(京)と南都方(興福寺)がある。

 天王寺方の拠点は摂津の四天王寺であり、堺からほど近いため、中条常隆被官・丸根美作守がひとっ走りして話をつけてきたのだった。


「いえいえ、応仁の大乱よりこの方、楽人も逃げ散り伝授も途絶えつつありて、鈴木様のようにお志ある方々のもと回りて芸事の絶えぬようにするも麿らの務めにておじゃりまする。」


 岡の言葉に重勝は「うむうむ」と頷く。

 彼がなぜこのようなことを始めたのかというと、先の御霊祭で大いに心を揺さぶられた彼は猿楽の伴奏に注目し、家中の催し物や外交場面で音楽を使って人心を掌握しようと思い立ったからだった。

 彼は、三河国内の祭りや神社のために働く囃子から人を集めた。奥三河で霜月に行われる神楽の「花祭」の囃子から、豊川の砥鹿神社や尾張との境にある知立神社の楽人まで幅広くである。


 この取り組みは政治的にも有益だった。

 これを機に重勝は今後、「花祭」の開催費用を鈴木家が負担することを約束した。これは奥三河の住民の歓心を買うためであると同時に、祭りを主導する乙名衆(惣村の有力者)の村々に対する影響力に横槍を入れるためでもあった。

 また、知立神社に協力を求めることは、ある種の踏み絵だった。

 知立神社の神主・永見氏は知立城を構え、対松平戦末期には尾張織田家の進駐を受け容れた。それはつまり永見氏が織田方についたことを意味した。彼らは隣の水野氏との関係を重視しており、水野氏が織田氏に従属したのに歩調を合わせたのだ。

 それゆえ永見氏に楽人の提供を迫ったのは、「織田や水野と手を切って鈴木につくかどうか」を問うことにほかならなかった。そして結局、彼らはこの圧力に屈することになった。


 鈴木家が雅楽振興の裏であれこれ算段しているとはつゆも知らない岡昌歳は、純粋に三河一国の支配者が雅楽に関心を寄せていることを喜び、重勝に笑顔を向けている。

 今のところ、大内氏の山口は西の京と呼ばれるほどの文化的中心地であり、近畿にほど近い外側では越前・朝倉孝景、能登・畠山義総、土佐・一条房家らが文芸に通じる名君として知られる。

 これらの地は京の困窮する公家たちの受け皿になりうるため、それに三河が加わって下向先の幅が広がるのは公家社会にとって喜ばしいことだったのだ。


「左様、上方では多くの曲目が失伝したと聞き申すが、楽譜が戦禍で失われたということであろうか。」

「それもそうでおじゃるし、多くの楽人が命を落とし各地へ散ってしまったゆえ、口伝が失われたのでおじゃりまする。」

「口伝ともなればかつての通りに復するは難しいでござろうな。」

「いかにもその通りにて、京はとりわけ大変でおじゃりまする。とはいえ、天王寺方(四天王寺)や南都方(興福寺)、あちこちの神社にも古譜が残っておじゃりましょう。古譜あらばいくらかは復旧できるに違いないでおじゃりまする。」

「ふうむ、なるほど。」


 ◇


 大永6 (1526)年には、三河で物故者が相次いだことで縁起が悪く、喪に服す意味合いもあって、大規模な軍事行動は控えられた。

 隣国も動く様子がなかったため、鈴木重勝は心おきなく家中の仕組みの再整備に努め、武家の法令である式目の研究に時間を割くことができた。


 平和な三河に対して、しかしながら上方は混乱を極めていた。

 この年の夏、細川高国(道永)政権では、内部の不和により丹波の香西元盛が謀殺されて、秋には丹波勢が離反した。彼らから連絡を受けた三好元長は、年末に阿波から堺に進軍した。


 細川高国はかつて細川澄元と細川の宗家たる京兆家の家督をめぐって争っていた。

 高国は野州家、澄元は阿波家の出身で、ともに本家である京兆家の養子となっていた。京兆家は管領職を世襲してきたことから、養子同士で争って高国が管領の地位を固めたのだった。

 高国は澄元を追い落とすと、さらには対立した前将軍・義稙も阿波に追いやって政権を確立した。しかも、高国はその際に三好一族を謀殺していた。

 そのため、阿波細川家に仕える三好は、義稙の養子・義賢(後の義維)と澄元の遺児・細川六郎(後の晴元)を戴いて、復讐を果たすべく畿内に上陸してきたのだった。


「こんなときに雅楽の指導者をよこしてほしいなどと、美濃介殿(鈴木重勝)も無理をおっしゃったことよ。幸い岡殿が乗り気ですぐに話がまとまったゆえ、諸々差し障りなくてよかったわ。」

「いやはや、鈴木様が『上方は厄介』としきりに言われておったのが身に染みてわかりまするな。」


 堺郊外の鈴木屋敷で中条常隆がこう述べると、家臣の丸根美作守がしみじみと答えた。

 屋敷にはろくに防御の兵もなく、下手に守るそぶりを見せると討ち入られる恐れがあるため、三好家に「鈴木家に敵意はない」ということをわかってもらうまで、門は開け放たれたままである。

 常隆はそんな中でも案外図太く、三河の一部で流行っている瀬戸土瓶で煮だしたほうじ茶をすすっていた。


「いかにもそうであるなあ。美濃介殿は『三好殿と誼を通じてよい』と言われるが、今川のお屋形様は管領様(細川高国)と懇意ではなかったか?本当にそれでよいのだろうか……。」

「鈴木様は上方に深入りするつもりがないとお見受けいたすところ、どちらが京を治めなさろうが気にしておられぬのやも?あるいは、話がこじれれば退去してよいともおっしゃっておられますれば、身を守るすべもない我らが害されぬようにというお心遣いかと。」

「ふうむ、いずれもありそうであるな。まあよい。美作(丸根)には苦労をかけるが、三好に挨拶に行ってくれるか?五郎兵衛(森)にはこの礼状を四天王寺に届けてほしい。」

「承知。」

「承ってござる。」


 丸根美作守が短く答えた。

 彼の補佐として修業中の森五郎兵衛も返事をして文を受け取った。そこには、雅楽の指導を引き受けた四天王寺所属の岡昌歳が三河に無事到着して仕事をしていることが記されていた。


 ◇


 三好元長は斎藤基速宛の鈴木家の書状に目を通していた。

 斎藤基速は足利義賢(後の義維)に仕える奉行人で祐筆でもある。


「丸根何某とかいう者はいかがであったか。」

「ううむ……、取り立てて目立つところのない御仁としか言いようがありませぬ。」

「そのような者を大事な交渉ごとに使っておるとはお家の程度が知れよう。」


 三好元長は側近の篠原長政の返事を聞いて、バカにしたように言った。


 堺郊外の鈴木屋敷から挨拶に来た丸根美作守は、まず元長の側近の篠原長政と協議して、敵対云々以前に「お互いの主君をどのように呼び合うか」などの前提をすり合わせて帰った。

 そして、斎藤宛の書状を中条常隆が認めて、これを森五郎兵衛が届けたのだ。


 26歳の三好元長が担ぐ細川六郎は大永6年時点で13歳、その主君たる足利義賢は18歳で、この政権は指導層が若年だった。しかも足利義賢は阿波に落ち延びた前将軍・義稙の養子かつ現将軍・義晴の異母兄で、自前の兵力がなかった。

 そのため、年長で軍事力を提供する元長が実質の指導者だった。


 しかし、形式上は足利義賢が最上位者であるから、鈴木家の書状は、三好元長が読んで決め事をするのを前提に、しかし建前は義賢の耳目に触れるように、その上で、礼儀のために宛名を義賢本人でなく奉行人の斎藤にする、というややこしい調整が行われたのだった。


「文の中身も平凡。何の面白みもなし。三河船の堺への乗り入れ、鈴木屋敷への不入、それらが認められぬならば堺の者らの無事の帰国、これだけよ。」

「順当といったところかと。先方は当家と初めて接するゆえ、妙なことはできますまい。屋敷の門も開け放っておるとのこと。気を遣っておるのでしょう。」


 篠原長政は鈴木家を擁護するようなことを言った。

 しかし、武の人である三好元長の目には、鈴木重勝はずいぶんと軟弱者として映っていた。

 一向一揆のゴタゴタが聞こえるばかりで、三河を得たのに重勝の武名がとんと聞こえてこないのが、元長が鈴木を侮る理由だった。


「はあ。守護がおらぬというだけで三河一国を得たような者に期待するだけ無駄か。先の今川と道永(細川高国)の騒動においても、この者はさっさと朝廷と話をつけて大した官位も得ずに逃げたそうだな。頑張っておれば主君に三河守護を得さしむることもできたやもしれぬというのに。」


 とはいえ、三河守護は50年ほど前までは阿波細川家のものであったから、今川が三河守護になったらなったで、元長はきっと文句を言っていたことだろう。


「そういったことをお思いになるのはご勝手にござれども、どうぞ(おもて)にお出しにならぬようにしてくだされ。」

「そうは言うが、こやつ、主家の今川が道永(高国)に与しておるのに簡単に当家にすり寄ってきよって、節操というものがない。あまり信用できぬぞ。」

「今はこらえてお味方を増やすことをお考えくだされ。鈴木がこちらにつけば今川の出方も変わりましょう。本丸を攻めるには馬出を落とさねば。」

「ガハハッ!鈴木は馬出か、それはよい。」


 ◇


 大永7 (1527)年。


 丹波勢と三好軍は南北から高国の支配下の摂津国を切り取り、春になる前には合流して、京の西の桂川原にて高国軍と決戦に至った。


 高国軍の主力部隊を供出するはずの近江守護・六角定頼は、お抱えの保内商人からの運上が減って財政的に余裕がなく、大軍を送ることに消極的だった。

 保内商人は海路で伊勢に運ばれた東国産品を京に運んで売って儲けていたが、鈴木家の伊勢湾封鎖で品物が紀伊を回って堺に直送されており、保内商人は収益を落としていたのだ。

 しかも定頼は、裏で細川六郎(晴元)に娘を嫁がせる交渉を進めており、日和見の感があった。


 一方で丹波勢と三好勢は伊勢の長野氏を焚きつけ、高国の娘婿である伊勢国司・北畠晴具との不和を煽り、高国陣営の援軍を封じた。

 彼らは同じことを高国の支持母体である但馬守護・山名誠豊にも仕掛けた。守護代・垣屋続成と因幡守護・山名豊治に但馬を攻めさせたのだ。

 垣屋氏は山名氏のために戦った応仁・文明の乱で立て続けに当主を喪い、それを深く恨んで長らく争っており、山名豊治は妹が阿波に逃げた足利義稙の側室だったため、堺方に協力した。

 彼らはともに但馬の誠豊に反抗し、高国は足利義晴を使って敵対する因幡の山名豊治に和睦を勧告したが、状況はめまぐるしく変わり、因幡の豊治の方が逆に誠豊に暗殺された。


 高国政権は援軍のあてを失い、最大の後援者である六角定頼まで兵を出し渋ったため、士気は振るわず、大軍勢同士の衝突のわりに高国はあっさりと敗退し、将軍・義晴を連れて近江に落ち延びた。

 不運なのは、この戦いで三好政長の奇襲を受けてほとんど唯一損害を出した若狭・武田元光だった。元光は帰国後も将軍・義晴を支援しようとしたが、彼の勢いが後退したと見た国内の反抗勢力が蜂起したため、この政争から脱落した。


「なるほど、堺の方が優勢であると。」

「摂津におりました麿からすれば、そのように見えておじゃりまする。」


 鈴木重勝にそのように答えたのは、摂津の四天王寺から下ってきた雅楽家の東儀兼康である。彼は戦禍を逃れて、先に三河に移った岡の後を追ってきたのだった。


「それで堺と近江坂本とは、いずれを幕府と見ればよいのだ?」

「さあ……。主上は堺の公方様に『左馬頭』を(たま)わりておじゃりますれば、次の将軍は堺公方様なのでは?」

「そうなるか。」


 高国政権を追い詰めたと判断した三好元長は足利義賢を阿波から堺に呼び寄せた。

 義賢は「義維」と名を改めて「左馬頭」に任じられたが、これは次期将軍に与えられる官職である。それゆえ、重勝と東儀は「近江公方の次に堺公方が内定した」と考えたのだ。


「なんにせよ厄介なことだ。堺方は公方様も、管領役の細川六郎殿も、三好筑前殿(元長)も若い。どうにも落ち着きがないように見えるが……。これは身の振り方が難しいぞ。」


 東儀は「言うほど鈴木様も歳をとっておられぬような?」と不思議に思ったが口には出さなかった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 返信ならびにエピソードとして採用ありがとうございます。 >信安の方は金春禅竹の孫、武田信玄に招かれたとありました。年代的におかしいので仮冒かもですが、~ wikiで金春禅竹の孫「金春禅鳳」を…
[良い点] 話数訂正ありがとうございます。 [一言] 雅楽や猿楽の話がありましたが、金春流の猿楽師の大蔵信安(生没年不明)を保護できるといいですね。 信安は大和国から播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始した…
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