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戦国の鈴木さん  作者: capellini
第5章 今川連合編「海の路」
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第68話 1526年「素顔」◆

 奉行の会合にて、伊奈熊蔵と大畑采女正定近が鷹見修理亮に詰め寄っていた。

 熊蔵は小笠原長高家の家政を管理しつつ家の別なく会合に参加しており、大畑は倉奉行・鳥居忠吉が商人の管理体制を整備するのに忙しいため倉奉行代行となっている。


「修理亮殿、殿のあれは本気にしか見えませなんだ。」

「左様、貴殿から言上してくだされ。『継室をお迎えくだされ』と。」


 大御霊祭の後の宴会で、酒が入って気が緩んだのか、重勝がポロリとこぼした発言を彼らは問題視していた。


 重勝は「今川の五郎様(氏輝)は若いながらうまく代替わりできてめでたい。当家も瑞宝丸の家督相続は周知しておるし、奉行衆は頼りになるし、何の心配もいらぬな!もし不慮のことあっても、それがしの葬儀に銭はかけてくれるなよ?つねの側に置いてくれれば十分よ、ハッハッハッ!」などと言って場を凍りつかせていたのだ。

 冗談にしてもたちが悪いが、本気にしか聞こえなかった熊蔵と大畑采女は、「もしやお方様を失って現世に未練をなくしてしまったのやもしれぬ」と心配し、重勝に継室を娶らせて変な気を起こさせないようにしたかったのだ。


 2人が自ら重勝に進言するのではなく鷹見修理亮を頼ったのは、彼らは鷹見を鈴木家で一番の実力者と思っているからだった。

 奉行の数も多くその裁量権も大きい鈴木家では文治派の力が強く、文官の長老だった塩瀬甚兵衛・近藤主税助・鳥居伊賀守(忠明)らが死去し、熊谷備中守がなかば隠居したも同然の今や、現役の惣奉行である鷹見は陰の実力者になっていた。

 旧松平家から編入された者たちや三河土豪たちは尚武の気風ゆえに、当初は武功のない鷹見を侮る物言いをする者がいたが、彼を腹心として重用する重勝によって鷹見の与力に付けられ、その激務を手伝う中で悉く改心し、鷹見はますますその地位を固めていた。

 鳥居源七郎亡き今、重勝に諫言できるのは鷹見であるというのが家中の総意になるほどだった。


「ううむ、さまで言わるれば致し方ないか……。」


 鷹見修理亮もその場にいて重勝の発言を聞いていたため、2人の懸念を理解できないでもなかった。

 とはいえ、重勝と幼い頃からの仲である修理亮からすれば、重勝は時々ひどく後ろ向きなことを平気で言うことがあるため、あまり深刻にはとらえていなかった。

 しかし、先の発言は大勢の宴席でのものであるから、熊蔵らと同じような懸念を抱いた者は少なくないと思われ、手を打つことにした。


 ◇


「――というわけで、『継室を』という声が上がっておりまする。」

「……源七郎からすでに話はあったのだ。それゆえ、それがしもいずれはと思うておったが、そうか、悠長にしてはいられなかったか……。やむを得まい。」


 鷹見は重勝の失言が理由であることは伏せたため、重勝は「鳥居源七郎の忠告の通りになったのだ」と思っていたが、実際はただの自業自得である。

 とはいえ、源七郎の遺言ともいえる忠告があったおかげで、再婚に対する覚悟は重勝の頭の中にも少しはあったため、これを機に継室を探すことにした。


「されど、どの家から嫁をもらうがよいやら。」


 重勝が縁を保ちたい外部の家は小笠原と今川である。

 とはいえ、娘・勝子はすでに小笠原長高の幼い嫡男に嫁ぐことが内々に決まっている。

 また、今川家と再び縁を結ぶのもよいが、上納の多さに立腹している一部の者の間で独立を望む声もあり、彼らをなだめるためにも再び今川方の家から嫁をもらうのは避けるのが無難だった。

 独立派の筆頭は酒井将監忠尚で、酒井家の惣領兄弟の弟の方である。兄・左衛門尉忠親に比べると、この弟はわんぱくで、武を重んじて文を軽んじ、奉行職を蔑視したため、鷹見の直属に置かれてしごかれていた。

 彼は鷹見個人に対する尊敬は持つようになったようだが、それでも反骨心は衰えず、鈴木家の上層部を軟弱だと非難してはばからなかった。


「牧野と三宅は修理亮が繋いでおる。そういえば奥平の嫡男は菅沼から嫁を迎えたな。奥平からは次男を小姓にもらい受けたゆえ、一応つながっておるか。菅沼には紀伊を任せて十分に信を得たであろう。」


 鷹見修理亮は牧野成勝の娘を娶っていたが、生まれたのがすべて娘だったため、実家と縁が深い三宅一族から婿養子をとることになっていた。

 また、奥平貞昌の嫡男は元服して田峯の菅沼定広の娘を娶った。奥平の老当主・貞昌と重勝は個人的に親しく、その次男は重勝の小姓であり、菅沼には遠国奉行として紀伊の采配を任せて信頼関係は結べている。


「そうですなあ、中条殿も堺で頑張っておられまするし、東三河の諸家や西三河の北半分とは十分に縁を結んでおりましょうな。」


 相談役の熊谷備中守が言った。同席する鷹見も頷いている。


「さすれば、まだ縁が十分でないのはやはり松平の者たちか。松平の一族かあるいは酒井や青山から娶るべきであろうな。」

「我が婿殿(松平信長)は早くに降った上に安祥の者らとは疎遠でござるからなあ。」


 宇利城で熊谷家と死闘を繰り広げた五井松平家の後継者・大炊助信長は、備中守に将来を見込まれて婿となっていた。しかし、それ以外の松平系の旧臣とは微妙な距離が開いたままだったのだ。

 松平宗家一族を暗殺したことが尾を引いており、また、浄土教系の者が多い松平旧臣の中には先の一向宗の祟りの流言を真に受けて密かに「鈴木家は罰当たりな家だ」と思う者すらあった。

 それゆえ鈴木家としては、松平旧臣のどこかの家、あるいはその核だった宗家に近い松平一族と婚姻を結んで、彼らの隔意を取り除きたかったのである。


「松平家で三河に残っておるのは、他は大給・鴛鴨・能見くらいでござろうか。鴛鴨は足助の、能見は当家の一家臣にすぎぬ身代ゆえ、三河一国を領する殿にはいささか不釣り合いかと。」


 鷹見がそのように思案すると、重勝は「では大給であろうな」と応じた。大給松平家は足助の鈴木重直に従属していたが、対松平戦の間に滝脇の地を得て勢力を倍増させており、有力だった。


 重勝が大給の乗元に内密に問い合わせをしたところ、この老獪な長老は話に飛びついた。

 従属先の足助鈴木家が重勝を主君に立てたため、大給松平家は重勝の陪臣のような立場になってしまっており、この長老はそれを気にしていた。そのため、重勝の嫁に縁者を送り込んで自家の家格を上げようと画策した。

 しかも、大給松平家では乗元の嫡孫が急逝していた。こういうことはいくらでもあるから、高齢の乗元としては将来の不安が拭いきれず、曾孫の代になっても鈴木家との繋がりで家が安定するのを願ったのだ。


 乗元からの仰々しい返書を受け取った重勝は「これは決まりであるな」と苦笑しながら呟いた。その反応を見て不思議そうな顔をする鷹見と熊谷に彼はわけを話した。


「いやなに、かの御仁はまこと老獪なりと思うてな。2年前に世を去った孫に嫁いでいたのが、なんと太雲入道(松平信忠)の妹だそうだ。

 しかもこの者はすでに子も産んでおるから安心と謳っておる。なるほど、それがしとの間に松平宗家の血を引く子ができれば、三河松平の頭目に据えることができよう。そしてこの老人の曾孫はそれがしの庇護を受けるわけだ。」


 乗元が差し出した孫の未亡人は名を「久」といって松平信忠の妹で養女として大給に嫁いでいた。彼女との間に男子ができれば、松平旧臣を束ねる象徴として松平姓を与えようと重勝は考えた。

 ついでに大給の幼当主は、この老人の望み通りに、継室・久の連れ子として重勝の親族衆かつ直臣に格上げされることになる。


 ◇


 翌大永7 (1527)年に重勝はお久を娶ることとなった。

 久は重勝より3歳年上で、前夫を補佐して家政も取り仕切っており、しっかりした人物だった。

 この婚姻は松平旧臣との融和のためであるから、盛大な婚儀が行われた。


 床入りの際に初めて顔を合わせた久は、夫に先立たれて落飾していたため、尼削ぎの短髪で、お歯黒も白粉もつけず全く化粧っ気がなかった。

 亡き夫への操立てか、はたまた松平一族を暗殺した重勝に含むところがあるのか、いずれにせよこの結婚を承服しているわけではないと見た目で示そうとしたのだった。


「気の強いことだ……。」


 重勝は誰にも聞こえないような小声でぽつりと呟いたが、松平家に対する仕打ちに罪悪感もあり、つねを喪って再婚に気乗りもしなかったことから、彼女の心情に配慮して床入りを先送りにした。

 久は奥向きの仕事をよくこなしたが、その際に人と会うときはきちんと化粧をしていたにもかかわらず、重勝と2人きりになるときには化粧をしなかった。やはり、拒絶の意思表示なのだろう。

 しかし、それは重勝には逆効果だった。化粧をしないのは普通の農民と同じだが、彼女には清潔感があり、上級武士の妻が髪を長く伸ばすのとも違って肩までに切りそろえていて、夢で見た未来の女性の姿を知る彼にとって久はむしろ魅力的に映っていたのである。

 しかも「身だしなみに気を遣っていない」とは思われたくはないのか、主に丁子(クローブ)を使った香を時々焚いているようだ。


 彼女は数ヶ月の間、重勝の前で化粧をしないでいたが、その間も気を引こうとしているのか、あれやこれやと話しかけてくる重勝を無視するわけにもいかず、徐々に絆されてついに化粧をして彼の寝所に姿を現した。


「……そなたが化粧をしてきたことの意味はわかるつもりだ。」

「でしたらそのようなことはいちいち声に出すものではありませんよ。」

「ああ、いや、そうなのだが……。」

「なんですか、歯切れの悪い。」

「……どうやらそれがしはそなたの素顔を愛しく思うようになっておったようだ。障りなくば、これからも素顔を見せてくれるとうれしい。」


 それを聞いた久の顔は自分でわかるほどに熱を帯びたが、白粉がその朱の入った頬を隠していた。


 ◇


 大永8 (1528)年には重勝と久の間に男子が生まれ、「松平竹千代」と名付けられた。

 奇しくも駿河に移った松平家でも同じ年に当主・孝定に子が生まれており、東西で2人の松平竹千代が誕生することになった。

 旧主家を見捨てたことを気に病んでいた松平の旧臣は、宗家の血を引く者を三河に迎えられたことを大いに喜び、彼らと鈴木家の隔意はほとんどなくなったように見えた。

【史実】『寛政譜』によれば、久は松平清康(1511年生)の姉妹で大給家に嫁いで男子を生み、1524年に死別して翌年に清康に降伏した鈴木重直に嫁ぐそうです。

 作中では没年(1561年)と初産(1515年)から生年を1500年としました。しかしそうすると、1490年生とされる松平信忠の娘(清康の姉妹)というのは成り立たないので、信忠の妹にしました。

 また、当時3-4歳の清康の養女として嫁ぐのも妙なので、信忠の養女となって大給家に嫁いだとつじつま合わせしています。


【史実】本作の松平孝定は史実では「松平清定」といいます。系譜から逆算して1514-5年頃には生まれていて織田信秀の妹を娶り、1530年の少し前くらいに嫡男・家次が生まれていると思われます。


【史実】酒井将監忠尚は、本当に左衛門尉忠親の弟なのかは不明です。岡崎の松平家から半ば自立して上野を治めており、三河一向一揆に先だって徳川家康に反乱し、その後は消息不明です。

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