第67話 1526年「多治見流庖丁術」◆
多治見主水は鈴木家の庖丁人であり、奥奉行として鈴木重勝家の家政を仕切るようになっていた。
彼が司る台所には、主君である鈴木重勝と、引退してすっかり好々爺のようである熊谷備中守が訪れていた。茶や薬湯、その他新しい料理の製造と開発について話し合うためだった。
一通り試作品の茶を飲むなりした後、重勝は言った。
「うむ、梅と昆布の薬湯はうまい。味もよく健康にもよいとなれば、飛ぶように売れるであろう。例によって『茶』として売るがよかろう。」
「茶」が人気であることから、鈴木家では茶葉の入っていない薬湯にも「茶」の名をつけて売り出し、そこそこの利益を得ていた。すでに「桑葉茶」「蒲公英茶」「胡麻茶」「鳩麦茶」が売り出されており、薬として重宝されて広く取引されていた。
また、重勝は上品な抹茶よりも、焙じ茶を好んだ。いちいち茶をたてるのを面倒くさがり、居室に作らせた炉に掛けた瀬戸物の土瓶で一度にたくさん茶を煮だして勝手に飲むのが好きだったのだ。
彼の部屋を訪れる機会のある重臣の間では、密かにこの喫茶の形が流行っていた。
「そうなれば、梅の木もそれらを扱う人手も増やさねばならぬでしょうなあ。」
「いまよりもでございまするか……。大変でありますな。」
熊谷備中守が暢気に言うと、多治見がげんなりした様子で反応した。
それを見て苦笑しながら重勝が言う。
「薬草園も大きくなってきたところゆえ、果樹園と分けて奉行を置くがよいやもしれぬな。」
薬草園ではショウガやネギなど重勝からすれば野菜に属するようなものが多く栽培されている。また、甘草や棗などの山菜も薬草園で管理するところであるが、こちらは栽培というよりは、里山の生息場所を探して柵で囲って定期的に収穫するという形だった。
「そうしてやってくだされ。あちこちの薬草園・果樹園を長田殿だけでどうにかするのは無理でございましょう。」
薬草園を担当する奉行は、旧松平領の土豪で臣従した長田広正だった。
広正は尾張国津島の大橋氏から長田氏に養子に入っており、その出自から尾張に介入するための伝手となることを期待されて、鈴木家中に取り込むべく奉行に抜擢されていた。
当初こそ抜擢に喜んだ長田も、一人で三河中に散らばる薬草園や果樹園の状態を管理しなければならず、親族・知り合い総出でなんとか仕事を回していたが、その激務に疲弊していた。
同じ時期に鈴木家に加わった他の旧松平家臣や土豪たちは、それを見て嫉妬という感情は捨て去っていた。
そのうち、長田の親族で平蔵という少年が薬草に関心をもつようになったため、広正は主君に願い出て、平蔵が庭野で本草学を学べるようにしてやってほしいと頼んだ。庭野には小規模ながら学問所があり、漢籍に通じる僧を教導役にして購入した書物を講釈させていたのだ。
重勝はこれを快諾して、長田平蔵は庭野で本草学と医学を学んだ後、堺の豪商で医に通じる阿佐井野宗瑞のもとに遊学に出されることになる。
鈴木家台所で使う薬草や果物を介して長田と日常的に付き合いのある多治見は、「人手がほしい」という彼の愚痴をいつも聞いていて、仕事を軽減させてやるよう主君に一言添えたのだった。
多治見自身も、鈴木家が急激に支配地を拡げたことで業務が急激に増えて、今は園部何某など弟子を育てて何とかやりくりしており、長田の境遇に共感を覚えていたのである。
「そうかあ。であれば……先に山田何某が加わったであろう。主水(多治見)よ、そなたがひとまずあれの面倒を見て、使えるようならば長田のところに送ってやってくれ。」
山田何某とは、三河・美濃・信濃の境のあたりに住んでいた山田新左衛門尉景隆なる土豪のことで、彼は大御霊祭を見物しに鈴木重勝領に出てきてその勢いに圧倒されて仕官を願ったのだった。
多治見主水は「余計な仕事を増やしてしまった……」と内心で苦い顔をしたが、主君には「承ってござる」と返事をして、さらに料理に話を戻して言った。
「それにしても殿、この湯浅の『醤』、買い増すことは?」
紀伊国湯浅の「醤」とはたまり醤油のことで、熊野海賊・堀内氏との同盟を介して知った調味料である。今回多治見が重勝に味見を求めた料理には、その醤を使ったものが含まれていた。
多治見はこれを気に入って常用にしたいとまで考えていた。
「問屋の赤桐何某なる者はだいぶ値を釣り上げてきておるそうでな。三河屋からは『それならば当家で仕入れて東国に高値で売りさばくのはどうか』と提案があったのだが……。ふうむ、当家でも使うとなれば、いっそ職人を引き抜くべきやもしれぬな。」
この頃、西紀伊の湯浅周辺では有力国人・湯川政春が守護の畠山氏に反旗を翻しており、その隙をついて職人に移住を勧めることもできそうではある。
しかしなんといっても距離が離れており、尾鷲と有馬という支配地を持つ東紀伊とは違って、西紀伊勢に対して交渉で強気に出るのは難しかった。
水軍を増強した鈴木家は、確かに三河から堺まで紀伊沖を回る「海の路」を維持できるようになっていた。しかし、西紀伊の沿岸を安全に航海するためには、紀伊南部で安宅氏らと不戦を約し、西部の湯川氏には航行や寄港の許可を求める代わりに守護・畠山氏と戦うための兵糧を支援するなどの手配りを必要としていたのだ。
「あるいはそうでなくとも、これは大豆から作られておるから、ひとまず三河で大豆を増やし、それと交換で仕入れる形にもっていくがよいか。」
「醤を作る材料を三河に頼るようになれば、値下げに応じざるを得ませんからな。」
熊谷備中守は重勝の意図を了解して応じた。「とはいえ――」と彼は言い添える。
「――職人たちもそこまで迂闊ではござるまいて、三河の他の仕入れ先との縁も相当に大事にしましょう。」
「まあそうであろうなあ。ううむ、かくなってはいよいよ紀伊に確かに根を下ろすがよかろうか。菅沼はうまく土地を広げてくれておるようだが、三宅か鈴木の家を紀伊に転出させ支配を確たるものにするがよいやもしれぬ……。」
「殿、そのお話は奥でするようなものではござりますまい。それよりも、こちらをご覧くだされ。『酪』なるもの、できましてござる。」
いよいよ話の規模が台所で話すような内容ではなくなってきたため、多治見は重勝を制止して話題を料理に関するものに戻し、木椀に入ったドロドロしたものを見せた。
重勝が入手した『斉民要術』から酪(ヨーグルトのようなもの)を作ったのだ。
さっそく熊谷は匙ですくって口に運び、珍妙な味に目を白黒させた。それを見て多治見は「誰でもそうなるだろう」と思って悩みを零した。
「そうなのでござる……。作ることはでき申したが、この酪なるもの、酸いのでござる。外記の若君が食べてくれるかどうか。」
「薬と称せば不味かろうが食うだろうが……干し柿と和えてみてはいかん?」
「おお、よいですな。試してみようと思いまする。」
外記の若殿とは、上方から下ってきた高橋之職のことである。
之職は体が弱く、多治見はこの少年のために健康によい食事を作ることに熱心だった。
「主水(多治見)は本草のこともよく学んでおって、まことに感心なり。」
「病を防ぐには食も大事と気づき申した。本草で学びしことを料理にも役立て、薬効ある料理を広めたくてござる。」
多治見は、重勝の妻つねが体調を崩している最中はほとんど食事をとれずにいたのを見て、料理とは平時に栄養をつけることで養生する術であると悟り、おのれの力不足を悔いていた。
しかも彼は仕官にあたって「四条流を学んだ」と嘯いたが、実はきちんとは修めておらず、嘘をついていた。彼はそのことも大いに恥じていたのだ。
それゆえ多治見は養生によい食事を作るために本草学を学び始めた。もともと重勝が本草学の学習を後押ししていたのもあり、奥三河の豊かな山林を活用して山菜や薬草を増産・普及させ、栄養の良いものを食う習慣を広めるために2人で協力していたのだ。
「さても水銀のことにつきては、いかがなり申したか?」
「ううむ、それはな……畜生どもは様子がおかしくなったゆえ、やはり領内に禁令を出そうと思うておる。まあそのあたりは、それがしがなんとかやっておくとしよう。」
薬効ということに関して、多治見は少し前に重勝が問題視した「水銀」のことを思い出し、それについて問いかけたが、重勝の答えは歯切れが悪かった。
なぜ重勝が水銀を問題視し始めたかといえば、妻の死がきっかけである。
当時流行の「伊勢白粉」の原料が水銀であったため、彼は「白粉を使わなければもっと健康でいられたのでは」と考え、白粉を制限しようと意固地になっていたのだ。
しかも白粉には鉛を含む種類もある。
もともと重勝は本草学の古典『神農本草経』を学んで毒成分を含まない「上品」という分類の薬品を広めようとしていたが、その中に水銀が挙げられているのを見て不審に思っていた。
さらには水銀や鉛は錬丹術でも不老不死の丹薬としてもてはやされることから、彼は危険性を周知しなければと勝手な使命感に燃えているのだ。
そういうわけで彼は水銀の危険性を確認しようと動物実験を行った。
しかし、水銀は人以外では毒性がはっきり表れないため、結果は出ていなかった。
そもそも重勝は水銀といえば有機水銀による公害を思い浮かべて危険視しているが、水銀の化合物には無機のものもある。
正確な科学知識のない重勝は、結局、鉛と水銀(汞)の毒性を記した『鉛汞正経』なる偽書を作り、無理を通してそれを根拠に「水銀と鉛を口に入れてはならない」「乳幼児に触れさせてはならない」「白粉を乳房まで塗ってはならない」などの触れを発布した。
多治見は素直にその内容を信じて、お手製の料理本に鉛と水銀の長期的な摂取が危険であることを書き留めた。
多治見は自らの料理術を秘伝とするよりも、普及させて人々の養生に資することを望んでいた。そのため、やがて薬膳方面に特化したこの料理本は『多治見流庖丁術』として木版出版され、彼自身も門人を増やしていくことになる。
【史実】本作では永田徳本という医者の若い頃の姿として長田平蔵を登場させました。徳本は諸国巡歴の後、一時、武田信虎に仕えました。張仲景『傷寒論』を重んじ、劇薬で病気を治すという治療方針を持っていました。生年は1513年としてみましたが、不確かです。




