第66話 1526年「神余実綱」◆
中条常隆・丸根美作守・山本菅助らが話しているところに来客の先触れを告げにきたのは、日根野九郎左衛門尉という人物だった。
和泉国沿岸まで商船を護衛して出張っている小笠原水軍は、和泉の海賊・淡輪氏と関係をもっていたが、その伝手で和泉国日根郡から仕官してきたのがこの九郎左衛門尉だった。
和泉国では守護の細川元常が管領・細川高国と対立して没落した。元常が阿波に逃れて帰還のめどが立たない中、元常の守護代・松浦盛は自立して勢力を強め、一方で高国派の守護・細川勝基が近衛家と縁を繫いで和泉に入っていた。
元常に味方していた日根野氏は、万が一に備えて家を存続させるべく九郎左衛門尉を外に出すことにした。九郎左衛門尉は淡輪氏の伝手を辿って、和泉では新参者で人手不足だった鈴木家に仕えることになったのである。
中条常隆は日根野に問い返した。
「どなたからの先触れか?」
「越後守護代の長尾様のご家来・神余隼人佑殿にござる。お使者は蔵田清左衛門尉と名乗られ申した。明日には挨拶に来られるとのこと。」
「それは長尾様が京に置いておられる雑掌の方でござるな。それがし聞き覚えがございまする。」
常隆に答えた日根野の言葉に、山本菅助が一言添えた。
長尾様というのは長尾為景で、その在京雑掌が神余隼人佑実綱である。
「これは気張って支度せんといかんな。」
「それがしも船を待って何もせずにただおるだけでは心苦しいゆえ、手伝い申す。」
張り切る常隆に、菅助もそのように応じた。
彼は鈴木重勝から西国での外交関係の開拓という重要な仕事を任されており、任務遂行のために上方でひとまずの準備を終えて、今は堺船の出港日を待っていたのだ。
重勝が西国との関係を気にするようになったのは、大永3 (1523)年に大内氏(博多商人)と細川氏(堺商人)の遣明船が寧波で起こした騒動について知ったからだった。
夢で得た知識に基づいて、重勝は寧波で起きた騒動の今後の影響を重く見て、特に以後の日明貿易が大内氏に独占されることを不安視し、西国や海外との独自の伝手を作るべく菅助を派遣したのだ。
菅助は小笠原長高の家中の者とはいえ、上方でしばらく過ごして外地での世渡りに通じ軍事や外交にも理解があるため、この一大事を任せ得る唯一の人物だった。
それはともかく、その菅助も手伝って堺郊外の鈴木屋敷では慌ただしく来客のもてなしが準備されることになった。
◇
「いやはや、かくも豪勢なもてなしを受けるとは。かたじけない。この酒は三河で作られたので?」
「ええ、当家は渥美や知多の職人をまとめましてな、そこそこ量も得られるようになり申した。お国の近くで売るのみなれば、隼人佑殿には珍しかろうと思いてお出しし申した。」
「いかに上等な堺酒といえども、これには優るとは言えますまいな。」
丁重なもてなしにたいそう満足した神余隼人佑がお世辞を言った。
結局、最後まで長尾家側からの要求などはなく、本当にただの挨拶だったようで常隆は拍子抜けしてしまい、気が緩んだ彼は本心から疑問をぶつけた。
「それにしても、貴殿のご主君はなぜ当家に挨拶を、と思い至られたのでござろうか?」
「ふむ、一番は大舘殿から話を聞いたことであろうか。また、当家は相州北条家とも誼を通じておるゆえ、今川を挟んでお味方同士の貴家ともつながりがあってもよいと思い申してな。」
「なるほど北条殿。それから大舘殿は、先の今川様の官位奏上のときでござるか。」
鈴木家は、中条常隆の亡き祖父の知り合いであった幕臣長老の大舘尚氏を介して、叙位任官をめぐる騒動の際には事態の収束を図った。
この大舘尚氏は長尾氏の取次をしており、その縁で鈴木家のことが話題になり、「挨拶をしておいてはどうか」という流れになったのだ。
一方、北条家との誼というのは本当のことではなかった。
大永5 (1525)年、相模の北条氏綱は、関東上杉氏に包囲網を構築されて武蔵の占領地を奪い返され窮地にあり、越後の長尾為景にあの手この手で取り入って援軍を引き出そうとした。しかし、為景が色よい返事をしなかったことで、氏綱は関係を断っていた。
その後、氏綱は今川家に駿河の所領を放棄することで大規模な支援を取り付け、上杉氏に逆撃を加え始めており、長尾為景はそれを見て縁を結び直そうとしたが、うまくいっていなかった。
そこで、外から見れば今川を中心に北条と連合しているようにみえる鈴木家を糸口に、長尾は北条・今川連合との接触を図ろうとしていたのだった。
神余は歓待を受ける間、鈴木家の情報収集能力を見定めていたが、結局、中条はこうした事情を含めて諸事に詳しくないようであることから、与しやすしとみなした。
こういう相手の場合、友好的なそぶりを見せれば容易に取り入ることができる。そう判断した神余は、口から出まかせを述べて中条の警戒心を下げるように努めた。
「とはいえ、それより前から色々なことが重なりて当家は尊家に段々と興味を持つようになり申した。」
「色々とは?」
「まずは一向一揆のこと。それから、神宮や外記局と御縁を結んでおられますな。御霊会を開いて先の帝の冥福を祈られ、三河守護の騒動の折には幕府と朝廷とうまく付き合っておられた。」
「……まことによくご存知のようで。」
常隆は長尾家が鈴木家のことを非常によく知っていることに寒気を覚えた。不用意に聞いた質問に対する答えが、「貴家の一挙一動を知っておるぞ」というものであれば、怖気づくのも仕方ない。
相手方は自らの調査能力の一端を「この程度は造作もない」という態度で開示した。そのような力を持つ大名家から関心を寄せられているとなれば、心穏やかでいられるわけがないのだ。
一方の神余は、相手に関心がある姿勢を見せて歩み寄ったつもりだったが、中条が怯えている風だったので、小心者には安心と少しの脅かしが効く場合があることから、手口を変えることにした。
「左様、当家は尊家のことをよく知っておる。されども、それは悪心からではなく、まことに興味のなせる業なのでござる。尊家の歩みは当家とよく似ており、それがゆえの興味なのでござるよ。」
神余の言葉は全てが嘘というわけではない。長尾家は守護家を押し込めながら、一国を支配する立場へ成り上がろうという段階で、また、越中一向宗と戦い、領内に伊勢御師を招き、朝廷や幕府を尊重して下剋上の権威づけを求めており、鈴木家と似たような状況にあったのだ。
それゆえ、鈴木家に対する興味は、確かに神余自身にはあった。ただし、家全体あるいは主君・長尾為景が鈴木家に関心があるかといえばそんなことはなかった。
「例えば、尊家はこたび宿紙座の小佐治氏と結ばれたようでござるが、当家も青苧を扱う天王寺苧座と話し合うところにござる。」
青苧というのは布の原料で、かつては天王寺苧座が青苧を独占的に売買していた。しかし近頃は、越後では長尾家が青苧を管理するようになっており、座の本所である三条西家に直接座役を納めることで座の影響を排除していた。目下はその値下げ交渉中なのだった。
鈴木家が一足先に紙の取り扱いについて宿紙座と交渉をまとめたことから、神余の関心は一段と増していたのである。
「ところで、尊家には吉田侍従様(兼満)がご逗留しておられますな?」
「……いかにも。」
常隆は長尾家の耳の速さに気圧されながら短く答えた。
「侍従様の娘御は三条西の右中将様(実枝)に嫁いでおられる。天王寺苧座の御本所は三条西様なれば、当家は三条西様に青苧の商いにつきてご寛恕を求めておるところにござる。ということは、尊家と仲良くしておけば、よいことがあるやもしれませぬな?」
「……なるほど。」
要するに「吉田侍従に一筆書かせろ」ということである。
代々の越後守護代である長尾家と、血統は古くとも勢力としては新興の鈴木家との間の格の差を考えれば、やんわりとした言い方でも、中条常隆には己に何を求められているのかがすぐに分かった。
「また、当家は関東管領様としばらく争っておったが、かのお方は先年に儚くなり、次の管領様とは戦を仕掛けあうというようなことはなくなり申した。ところで尊家は今川家・北条家と結んで、関東上杉氏・甲斐武田氏と争っておられまするな。」
「いかにも。」
「であらば、貴殿は当家に見返りを与える代わりに、関東あるいは甲斐を挟み撃ちにするよう頼むこともできなくはないのでござる。」
神余は、自家が今川・北条との関係を保っておきたいにもかかわらず、あたかも鈴木家が長尾家との縁を望んでいるかのような形に話をすっかり作り変えていた。
「なるほど――いやしかし、ちとお待ちくだされ。隼人佑殿はなぜあたかもかようなご助言のごとき振る舞いをなさるので?」
「なに、どうも貴殿は交渉ごとに慣れておられぬ様子。素直ばかりではやっていけぬゆえ、大名家に仕える御取次の先達からちょっとした助言でござった。大変心のこもったもてなしをいただいたゆえ、これくらいは礼の内でござるよ。
さて、酔いもだいぶ醒め申した。それがしはこれにて。」
神余はそう言って鈴木の代官屋敷を後にした。常隆は屋敷の門の外までついていき、自分より若いにもかかわらず歴戦の風格が漂う交渉人の背を見送った。
◇
その後、中条常隆は鈴木重勝に「長尾家と縁ができたゆえ、甲斐攻めの際には協力を頼むことができるのではないか」と伝えると、重勝はたいそう喜び、早速駿府に連絡したそうである。
また、常隆の要請を受けた重勝は、縁ができたことの礼のつもりか、さっそく吉田兼満に頼んで三条西家に一筆認めてもらった。
そのかいもあって三条西家と越後長尾家の交渉はまとまり、長尾家から一時金300貫文を支払う代わりに、越後から三条西家への上納額は150貫文から30貫文に大幅に引き下げられた。
長尾家は一切損をすることなく今川家と縁を繫ぎ、座役を値下げさせることに成功したのだった。
「ふむ、それにしても公家は困窮する者も多い。これを助けて手駒にすれば何かと使えることであろう。ここはひとつ、中条殿に言い含めておくか。」
一連のやり取りを見届けた山本菅助は、公家との縁の有用性を悟った。
彼は出港まで時間がない中、一番近くにいた在地の人間である日根野九郎左衛門尉を質問攻めにし、近場の日根荘園主の九条家が唐橋在数を殺害してしばらく前に朝廷から干されたことを知った。
九条家の出仕停止から20年は経っていることから、もう意味はないかもしれないが、菅助は中条常隆に「九条家と接触して困っていれば支援し、有事の際に助けてもらえるよう縁を結んでおくのがよい」と助言を残した。
「おおそうだ、船出の先行きばかり気にして、三河の先行きを占っておらなんだ。どれ、ここはひとつ。……ふむ、争乱の気!方位は……なんともいえぬな。東西南北いずれでもないとあれば、この地、堺ということか?これはそれがしが去った後が心配であるな。誰ぞ軍配者を手配せねば……。」
菅助は旅立つにあたって鈴木家の未来を占い、「何らかの混乱に巻き込まれそうだ」という思わしくない結果を得たため、後事を託せる軍配者を探した。
急いでいた菅助は、近場の根来に金谷斎なる人物がいるとの噂を耳にすると自ら赴いて説得し、根負けした金谷斎は三河に移った。
こうして自身のいなくなった後の手配も十分に済ませると、菅助は淡輪藤左衛門を水先案内人に立てて西海に旅立った。
【史実】日根野九郎左衛門尉は日根野弘就の父です。弘就は、斎藤道三臣→今川氏真臣→長島一向一揆加担→織田信長臣→豊臣秀吉臣→関が原の戦いで中立という流転の経歴の持ち主です。
【史実】長尾家からの上納金は史実では150貫文が50貫文に引き下げられます。また、北条氏綱が1524-25年に長尾為景と友誼を結ぼうとして失敗したのは史実ですが、氏綱が今川の支援を取り付けたのも(63話)、長尾側からの再接触もフィクションです。
【史実】根来の金谷斎(大藤信基?)は北条氏に仕えた軍配者(軍師)です。彼は、真里谷武田氏の家督相続をめぐる内紛で、1537年に北条氏の支援する真里谷信隆の援軍として派遣され、敗北した信隆の脱出に協力します。