第65話 1526年「大御霊祭」
鈴木家中のみならず三河国全体に淀みとどまっていた死の気配を払うべく、上方から猿楽を生業とする金春座が招かれ、岡崎で数日かけて猿楽や連歌会の催し物が開催された。
この座を招くにあたって中心となったのは、先の騒動の後に隠居して重勝の相談衆となった熊谷備中守と、同じく相談衆に加わっていた吉田兼満だった。
「うむうむ、やはり心の鬱々たるを晴らすには歌い舞うが一番でおじゃる。」
吉田が隣の鈴木重勝に向けて言った。
「いやはや、侍従様(吉田兼満)は労を厭わず金春座を招くに力を尽くしてくださり、おかげさまで人々はよく楽しむようでござる。まことかたじけなく。」
「なんのなんの。麿のみならず京におわす柴屋軒殿(宗長)も骨折りくださればこそにおじゃる。演目は番組立も季節もなくておじゃるが、こたびは楽しむこそ本意にて、麿も無粋なことは言わぬでおじゃるよ。」
宗長は終の棲家を求めて一休宗純ゆかりの地を訪れるべく初春頃に上京していた。
高齢の彼はこの旅が生涯最後となると覚悟しており、道中で重勝にも挨拶するつもりだったが、三河で疫病が流行ったことから、三河を避けて海路で伊勢に出ており、その願いはかなわなかった。
その未練もあって宗長は金春座招致に協力してくれたのだ。
また、ちょうど金春座の指導者が金春禅鳳から子の氏昭に代替わりしたところだったため、新たな指導者の実績になると判断されて三河興行が実現したのだった。
最初に三河の諸寺から僧侶を集めて、各宗派それぞれの形で祈禱や護摩焚きなど法要が行われ、神社からは楽人と舞子が集められて慰霊のために舞が催された。
3日続けての大法要には入れ代わり立ち代わり大勢の人びとが見物しにきて、彼らには喜捨・奉献の代わりに醴酒(甘酒)が振る舞われた。
翌日には宗長の希望を受け、吉田と中原外記が主導して故人を偲ぶ連歌会が開かれ、その次には2日かけて猿楽の興行が行われた。
演目は1日目が『杜若』『角田川』『初雪』、2日目が『西行桜』『安宅』『嵐山』だった。
『杜若』は三河に所縁の演目で和歌を題材としており、西行法師を扱う『西行桜』と合わせて、こちらも連歌のよさを広めたい宗長の希望を反映していた。
『角田川』は人買いに子を攫われた母の無念を扱うもので、それ対して『初雪』は、死んだ飼い鶏が正しく弔われたおかげで成仏でき、感謝しにやってくるというものである。別離の苦しみに心を配るとともに、穏やかに鎮魂を祈ろうという意図で演目が組まれていた。
2日目の『安宅』は弁慶の勧進帳を含むもので、将を勇気づけるべく選ばれており、桜の守り神が護国の舞を踊る『嵐山』で大団円という意図だった。
作品の選択は季節を全く無視しているし、しかも本来はもっと多くの作品から全体的な構成を吟味して1日の演目を決めるものである。
それゆえ、兼満はこの構成に不満足を覚えないではなかったが、この催し物が鎮魂と鼓舞のものであるのは理解しており、とやかく言うのは避けたのだ。
そして最終日は餅つき大会が開催されて参加者には茶と甘酒が供され、夜はそのまま大宴会へなだれ込むことになっていた。
「田舎者ゆえ無粋なところも多々あり申したにもかかわらず、無理な願いをお聞き入れくださったは、侍従様にも金春の御一同にも感謝の念に堪えませぬ。」
「まことに。演目に口を出して、騒がしき催しも設けるなど、わがまま勝手いたし申したが、方々ご辛抱いただきよくお付き合いくださった。家中の皆もよく手伝ってくれて、かたじけない。」
熊谷備中守に続けて鈴木重勝も礼を述べた。
このような構成になったのは、重勝の要望によるものだった。彼は芸事に疎い者たちのことも考えて連歌会も1日にとどめ、猿楽も少なくわかりやすい演目に絞り、その代わりに気分を晴れやかにするような催しを増やしたのだ。
重勝の謝意は、演目の解説のために付けられていた金春座の者に加えて、新しい小姓の青山藤八郎忠門、鳥居源七郎忠宗、奥平次郎九郎貞直にも向けられていた。彼らは取り立てられてすぐに伝令として駆け回ってくれたのだった。
とはいえ、3人組は猿楽に夢中で重勝の言葉は耳に入っていないようである。
◇
「それにしても、美濃介殿(重勝)は遍く領民の心にも気遣われておられて感心でおじゃるな。主上も天にておよろこびでおじゃろう。」
「今川のお屋形様も安らかにあらせられれば、よいのですがなあ。」
この年の春に後柏原天皇が崩御し、初夏には今川氏親が卒去していた。この鎮魂のための催しは、三河の死者のみならず、先帝と亡き主君にも捧げられていた。
また、吉田侍従が領民うんぬんと言ったのは、これらの催しとは別に農民のために田楽踊りを用意していたからだった。
奥三河の鳳来寺の協力のもと、御霊祭の触れ込みで事前に領民全体から踊り手を募り、いくつかの行列を地区ごとに割り当て、彼らがあちこち練り歩いて村々を楽しませる手筈となっていたのだ。
農村部の催し物は各地の寺社の協力のもと準備されたが、その際の鈴木家側の窓口となったのは寺社奉行の酒井信誉入道だった。
寺社奉行は一向衆の統制のために設置された。最初の仕事は荒廃した西三河の寺社を再建するにあたり、いかに本願寺系の寺を他宗門の寺に置き換えるかだった。
結局、三河で再建されたのは、元々住持・源正との密約があった本證寺と、故・実円の本宗寺だけだった。本宗寺の再建は、亡き教団門主の実如に向けてその子・実円を誤殺してしまったことを詫びる意味があった。
それ以外は曹洞宗や臨済宗、真言宗、天台宗、伊勢社、熊野社に置き換えられた。
これに不満を募らせたのは高田派の僧侶たちである。「自分たちは勝ったのに勢力拡大どころか明眼寺の再建すら許されなかった」と思ったのだ。そのため、彼らはこの御霊祭に便乗して明眼寺再建のための勧進を行った。
それを知った重勝は、集まった多くの人々に「鈴木家は領内の寺の再建費用も出さずに、このような催し物に銭をつぎ込んでいる」と思われるのを気にして、「これまでの勧進は鈴木家の名において行われたことにすべし」と通告し、同時に、明眼寺の再建費用を一括で寄進した。
そして、勧進で集まったお布施は、ちょうどこの年に戦火で焼失した下野高田の専修寺に送ってやるように伝えたのだった。
それはともかく、祭りの間の農村は乱痴気騒ぎで、各地で乱闘が起こるなどの騒動はあったものの、三河の人々は国全体で運気が上向くのを感じ、鈴木家に対する信頼を回復した。
疫病で疲弊していると思われた鈴木家が盛大な催し物を開催したことから、これを虚勢と見抜く能のある近隣諸国の者であっても、鈴木家は虚勢を張れるほどには力を保っているのだと判断した。
それこそが重勝の狙うところであったが、思いの外自分にとっても心機一転のよい機会になったようで、気が挫けて考え方が守勢になっていた状態を脱し、彼は積極的に活動するようになる。
◇
「それがしも三河大御霊祭を見てみたかったなあ。」
「まあまあ、出羽守殿(中条常隆)。美濃介様(鈴木重勝)からは、京で催し物あれば見物に出て縁を繫ぐよう言われておりまするし、宗長様のおかげで金春座ともご縁ができ申せば、近く機会もございましょう。」
在堺雑掌の中条常隆が嘆くのを、鈴木重勝からの指令で上方に再び出てきていた山本菅助が慰めて言った。
先の三河の催し物は「大御霊祭」と名付けられてその盛況っぷりが意図的に各地に伝えられていた。菅助はこの御霊祭を三河で見てきたため、その様子を常隆に伝えていたのである。
それを横で聞くのは、常隆についてきた家臣の丸根美作守である。
丸根は2人の話が途切れたところで、業務のことを報告した。
「さても、宿紙座の小佐治氏との話がまとまり申した。紙漉き職人を三河にいくらか移し、当家で面倒を見ること。彼らが作る上等な紙を朝廷に上納し、余りは座が売りて、利は当家が6分取り。そのほかの三河紙は座の名を出して勝手に売るを許し、座役は免除。そのような仕儀に相成り申した。」
上方は大量の紙を必要とする一大消費地であり、その需要を満たすために古紙を漉き直して使っていたが、それを司ったのが宿紙座の上座・栂井氏と下座・小佐治氏であった。
宿紙座は、近江の商人が扱う安くて上質な美濃紙に圧迫されていたうえに、上座下座で序列争いをしていた。
その隙をついて、鈴木氏は上昇志向のあった小佐治氏に対して、支援する代わりに便宜を求め、朝廷の文書業務や外記局への影響力を強めるように動いていた。
重勝はもともとは「図書允」を世襲する栂井氏に接近するよう求めただけだった。図書寮の貴重書を写させてほしかったのである。
彼は「進展次第でどうするか考えよう」と思って「とりあえず仲よくなっておいてほしい」と堺の者たちに伝えたのだが、しかし堺の者たちは「鈴木家の上方における『顔』として頑張らねば」と気張っていたため、この一言を深刻に捉えてしまい、意図を図りかねて悩んでいた。
そうこうするうちに、上方通の山本菅助がやってきた。相談を受けた菅助は重勝の意図を深読みし、朝廷への介入の糸口とするべく小佐治氏の取り込みを図ったのだ。
「ふむ、三河屋は何と申しておったか?」
「浜嶋の言うところでは、『宿紙座の名を冠するは三河紙の格を上げ、土岐の美濃紙に抗するためにもよいでしょう』とのこと。」
「では6分取りでも構わぬということか。」
「はっきりとは申しませなんだが、悪しからずということにございましょう。職人の食い扶持も、材料の木材も、上方へ運ぶ船も当家で用立てておりますれば、いささか取り分が少ないように思えまするが、職人を三河に移してしまえば、取り分は後々改めることもできましょう。まずはこれくらいでよいのでは、と思い申す。」
さらりと職人を人質にした配分の再交渉を示唆した丸根に常隆は驚いたが、おそらくは宿紙座の方も鈴木家の不利になるようなことは隠しているだろうから、「これくらいしたたかでなくば、やっていけぬか」としみじみと思った。
実際、丸根がこのような考え方をするようになったのは、堺郊外に屋敷を構えるにあたって奔走してきて、野遠屋・阿佐井野宗瑞や三河屋の協力はあったものの、苦汁を嘗めてきたせいだった。
丸根は次代の育成の必要を痛感し、中条家に従う三河土豪の森家から送られてきていた若侍の森五郎兵衛を常に引き連れて、交渉ごとに慣れさせているところである。
そこへ来客の先触れを告げる者がやってきた。
「出羽守様(中条常隆)、お話しのところ失礼いたし申すが、来客の先触れござりて候。」




