第63話 1526年「祟り」
「父上、手荒な真似はしたくありませぬ。どうぞ隠居なさり、家督をそれがしにくだされ。」
勝幡城では、織田信秀が父・信定に詰め寄り、家督相続を要求していた。
そのそばには、一門の織田左馬助敏宗の姿もあった。彼は信定の相談役として長年協力関係にあったはずだった。
「左馬助よ、儂はそなたを友と思うておった。そうではなかったということなのか?そなたは我が父・西巌のご主君・常英公のお子。あべこべになって儂に仕えるというのは不服だったのか?」
織田敏宗の父である織田敏定は法号を「常英」といった。かつて岩倉城伊勢守系の守護代・織田敏広と争い、今の大和守系守護代・達勝の系統の祖となった人物である。
一方、信定の父で織田弾正忠家の祖である良信は法号を「西巌」といい、その敏定に仕えていた。
つまり、信定と敏宗は父世代から主従が逆転していたのだ。
「霜台殿(弾正忠信定)、そういうことではござらぬ。確かに貴殿の父御は、我が父の被官であったやもしれぬが、儂は貴殿に仕えてよかったと思うておる。」
「ではなぜ?」
「貴殿は津島を獲ってよりこの方、変わってしまったように見ゆる。」
「……どう変わったというのだ。」
「三郎殿を見ていて思ったのだ。昔の貴殿はこうではなかったか、と。」
「儂が守りに入ったと、そう言いたいのか?」
「その言葉がすぐに思い浮かぶということは、思い当たるところがあるのではござらんや?」
織田敏宗が最近の信定を「守勢」とみなしたのは、長島進出をめぐる信定の姿勢を見てのことだった。
先ごろ、勝幡織田家は勝手に長島城を占領した。守護代・達勝は本願寺との関係改善のために長島を返還するよう命じたが、信秀は頑として受け入れなかった。そのため、守護代と勝幡の家はしばらく不和が続いていた。
これに対して信定は長島の放棄も視野に入れて和解を模索していた。
信定は達勝に三河進出を勧めるまでは同意していたが、信秀が強行した長島進出には反対だったのだ。そのため信定は、長島のことですぐに妥協は無理でも、ひとまず信秀の正室に達勝の娘を迎えて融和のきっかけを作ろうとしていた。
その一連の動きに、敏宗は信定の衰えを感じ取ったのだった。
敏宗の問いかけに信定は答えず、嫡男の信秀に向かって言った。
「三郎(信秀)、おぬしが致そうとしておることは、足利の御世に弓ひくことである。そのことを、しかとわかっておろうな?」
「もちろんにござる。いや、むしろ公方様その御方こそが、足利のお血筋を尊きものとする秩序を蔑ろにしておりまする。公方様は先に伊達を陸奥守護にお任じになられたが、では奥州探題の大崎はどうなるというのでござろう?」
信秀は、今の世においては、足利の血筋を尊重することで保たれてきた秩序が機能していないことを鋭く察知していた。
大永2 (1522)年に将軍・足利義晴は伊達稙宗を陸奥守護に任じた。陸奥に守護は本来不設置で、代々足利一門の大崎氏が務める奥州探題が所管するはずだった。つまり、将軍は自ら「足利一門を尊重すべし」という秩序を崩し、実力のある伊達氏に権威を与えたのである。
「力を見せれば、足利の御一門を差し置いて守護としてお認めいただける、そういうことなのではありませぬか?」
信秀は守護不在の三河で鈴木家が勝手をしているのを幼少期からずっと見続けてきて、妬ましさを覚えていた。「守護さえいなければ、守護代さえいなければ」という思いは彼の中で時が経つにつれてますます膨れ上がり、それと比例して三河鈴木家に対する警戒心も大きくなっていた。
鈴木家は三河をほとんど統一し、しかも今川家から三河筆頭国人の地位を認められてしまった。彼らの持つ巨大な海賊は伊勢湾に蓋をするように航路を繫ぎ、明らかに織田家を締め上げにきている。
信秀は、鋭い観察眼で、今すぐ動いてこの動きに歯止めをかけなければ、尾張は今川と鈴木に呑みこまれてしまうことを見抜き、それゆえに焦っていた。
しかも、前尾張守護の斯波義達は当時の守護代を誅してまで遠江国浜松の確保にこだわったが失敗して力を失い、一方で守護代家がそれで台頭するかと言えば現守護代・達勝は穏健で、信秀の目から見てこの危機を乗り切るには器量不足だった。
それならば自分が動くしかない。信秀はそう決意したのだ。
「……さまで言うならばやむを得まい。家督は三郎に譲り、儂は犬山に移りてせいぜい美濃と岩倉の一族でも見張っておくとしよう。
ただし、守護代の娘を嫁に迎えておけ。これからいかに振る舞うにしても、あからさまに敵意を見せておってはなし得るものもなせぬであろう。」
信定は己が子が放つ眩いばかりの才気を目の当たりにして隠居を決めたが、息子と守護代・達勝の娘の婚儀だけは結ばせた。自家の準備が整うギリギリまで決裂を避けるためである。
また彼は、息子に半ば追放されたとはいえ、それでも自家の役に立つべく、隠居先を美濃との境の犬山の木ノ下城に定めた。木ノ下城は、尾張上四郡の守護代の家系で代々伊勢守を名乗る岩倉織田家の一族、織田寛近の旧居城で、彼が近くの小口城に転出すると無主となっていた。
木之下も小口も同じ犬山にあるため、信定はここに移って岩倉系の寛近と接触し、清洲の守護代家と対抗する勢力同士で縁を結んで信秀を後ろから支援してやろうというのだ。
「……かたじけなく存じまする。」
信秀は、父の思いやりを察して涙をこらえながら言った。
かくして彼は己が力量で家を采配出来るようになった。
彼は、下剋上を目指すとは言っても、段取りというものがあるのを承知していた。
まずは守護代家より上位に立つことが重要。そのためにはさらに土地と銭を得たい。また、できれば守護家を手中に収め、成り上がる際には権威づけをしたい。
伊勢国長島への進出はその方針に即したものであり、信秀はさらなる経済的な利益を求めて尾張の重要な商業拠点である熱田を目指し、同時に、斯波家臣との関係構築をも模索し始めた。
三河との戦はせめて熱田、できればさらに清洲を食ってから。こう判断した信秀は、とはいえ鈴木家のことを放置するつもりもなく、戸田兄弟を引き抜いたように嫌がらせを仕掛けるつもりだった。
そしてその嫌がらせの一つによって、鈴木家は苦しめられることになった。
◇
鈴木重勝は、岡崎城に集まった諸将や家中の者たちをにらみつけていた。
心労によって頬がこけ、やつれた顔に両の瞳が浮き上がるように光る重勝の異相は、その視線に射抜かれた人々の心胆を寒からしめた。
重勝は腹の底から声を吐き出し、沙汰を述べ渡した。
「鳥居伊賀守(忠吉)が家中に悪意ある噂を広めし小者二人を手討ちしたは、ゆえなきことにあらず。方々も軽々に噂に惑わされるべからず。これよりは悪口を広める者は処罰することとする。
ただし、それがしは噂が広まるまで手を打たず、また鳥居もかの者らを捕縛して問い詰め、労役や罰金を科することもできたところ、そうしなかった。
ゆえにこたびは親族の連座を免じ、弔いのために鳥居より1貫、鈴木の倉より2貫の合わせて3貫を、誅されし二者の家族それぞれに与える。」
鳥居と手討ちにされた者の一族の代表者は、そろって平伏して沙汰を受け容れた。
鳥居はその後、自ら蟄居して反省を示し、手討ちにされた小者の親族らは、鳥居のその様子と弔問金を以て「仇討ちはしない」と誓って、この騒動は穏便に解決された。
◇
「最初は台所で奉公の者がする程度の、ほんの噂話だったようにござる。場所は西三河の、おそらくは岡崎が始まりのようにて。」
伊奈熊蔵が言った。彼の調査によれば、その噂というのは最初は西三河で広まったようである。
疫病をめぐる大騒動によってやつれてからまだ元に戻れていない鈴木重勝が、普段にもまして疲れた顔をして言った。
「一向門徒の扱いを見聞きして、西三河には当家に悪しき思いを抱く者も少なくなかろう。ゆえにこそ、こたびの病の蔓延るは『死した門徒の祟りなり』などという戯言を思いついたのか。口さがなき者もおったことよ。
鳥居伊賀にはさぞかしつらいことだったろう。」
鳥居伊賀守(源右衛門)が、噂をしているというだけで小者を切り殺したというのは、よほどのことだった。
彼が特に傷ついていたのは、父・鳥居源七郎に関する噂だった。噂というものは尾ひれ背びれがつくもので、鳥居はたびたび「鳥居源七郎の死は浄土真宗の徒でありながら門徒の弾圧に手を貸したからだ」という噂を耳にしていた。それはもはや故・源七郎に対する直接的な陰口だった。
源七郎は、今回の疫病の蔓延では、宗門の別なく病人や死人を丁寧に扱い、それによって身を削って死に至ったのである。その彼に対する陰口としては最低の部類に属するものだった。
鳥居は「所詮は噂である」と怒りと悲しみを押し込めていたが、この問題に対処するよう指示を出すべき重勝らは業務過多で手が回っておらず、鳥居はかなり長い間我慢を強いられた。
そのような中で、父を「死んで当然」とでもいうような口調で嘲っていた小者2人と鉢合わせし、我慢の限界を迎えたのだった。
「元は町人の口さがない戯言にもかかわらず、当家の家中がこれだけ混乱したのであれば、悪口とはげに恐ろしきものにござる。」
鷹見修理亮が嘆息して言った。
しかし、熊蔵は「あいや、お待ちくだされ」と2人の会話を遮って、彼らの推測を否定するような感じで口を挟んだ。
「それがしの調べたところによると、確かに噂は岡崎の町にも城の台所にも広まっておったようにござるが、台所の方で噂を伝えた出入りの者は1人きりのようにて。」
「なに?つまり、その者1人がわざと噂を広めたということか?」
「しかも岡崎城中に噂が広まるのは、どうも宿場で噂が出回るよりも早かったようにござる。そはすなわち、城中に噂を流す企みがあったということ。噂を伝えた者は間者にて、どこぞの家が当家の中で不和を生むために流言の策を用いたということにござる。」
重勝の問いに、熊蔵は自信をもって答えた。
普通、噂の出回り始めた時期などは簡単にはわからないが、今回は噂に関する範囲で目安となる日付があったのだ。
城の台所の帳面には、その出入りの者が初めて岡崎城の台所を訪れた日付が記録されていた。
一方で、鈴木家に雇われた者から集めた「町でこの噂を聞いた」という証言のうち、かなり初期の例が確かな日付を伴っていたのだ。情けないことに、宿場の女郎屋で寝物語に噂を聞いた小者が、その2日後に借金をこさえて書かされた借財手形に日付が残っていたのだ。
もちろん宿場ではこの小者がバカをするより前に噂が出回っていたかもしれないが、それでも町中でたいして広まってもいない噂が早期に城まで伝わるのはおかしなことだった。
「間者による流言か。思い当たるのは……尾張か。さすがに今川方の諸将は、いくら当家を気に入らぬとても、そこまではしないであろう。」
「そうなりますな。最初に噂が広まったのも西三河でござれば、尾張から入ってきた者がしでかしたと考えておかしくないかと。」
「よくやってくれた、熊蔵。」
そして、重勝はしみじみと、やや意気消沈したような声音で言った。
「それにしても、いくら流言とはいえ、噂が広まるのが早すぎる。民や奉公人が当家に隔意を抱くことになってしまった。
いやむしろ、我らはこうまで地を豊かにせんと心を配っておるのに、西三河では諸家においても民においても、なお当家に対して含むところがあったということなのやもしれぬな……。」
重勝のその言葉に、三河を豊かにするべく「国づくり」に骨身を惜しまず取り組んできていた鷹見修理亮と伊奈熊蔵の両奉行は、悲しげな表情を浮かべた。
鈴木家が松平宗家一族を暗殺させたのは公然の秘密となっており、また、彼らが一向衆の村を焼き討ちしたこともあって、旧松平系・旧門徒系の者と鈴木家の間にはしこりがあったのだ。
今回の騒動で心の中のそうした苦い部分が刺激されていたのである。
「いかん、つい悪い方へ考えてしまう。この話はやめて、尾張のどこがこの策を弄してきたのか考えよう。次を防ぐのだ。悪口の禁令も徹底せねば。」
「いかにも。源七郎殿がご存命ならば、きっとそのようにおっしゃったことでしょう。」
「修理亮の言う通りだ。ふむ、尾張というとまず織田が思い浮かぶが、あの守護代殿がこのようなことをするだろうか。」
重勝の問いに、修理亮と熊蔵はそろって首をかしげた。
松平との和議を仲介した際に特段の敵意も見せなかった守護代・織田達勝が、鈴木家に対してこのようなことを仕掛けるとは思えなかったのだ。
修理亮が口を開いた。
「織田といえば、勝幡の一族が守護代に反抗しておるとか。」
「確か当主は信定といったな。」
「いえ、こたびの調査で聞こえたところによれば、つい先ごろ信定が隠居して元服したばかりの嫡男に代替わりしたとのことにござる。新たな当主は三郎信秀とかいう――」
「信秀!!」
重勝は驚いて、熊蔵の発言に被せて大声を上げた。
突然の大声で熊蔵も修理亮もおおいに驚いた。
「殿はこの三郎なる者にお心当たりでも?」
「え、いや、ううむ……。」
修理亮が尋ねたが、重勝は答えに詰まってしまった。
彼が信秀を知っているのは未来の夢で見たからだ。信秀が織田信長の父で優れた武将であるのは間違いなく、その彼が謀をめぐらしたというのは重勝の中で確定したも同然だった。
しかし、修理亮と熊蔵には夢の話をしたことはなく、説明に窮したのだ。
「うむ、勝幡織田家は津島に続き長島をも押さえ、勢いづいておる。水軍衆からも織田方の海賊や商人がよく動いておると聞く。出奔した戸田兄弟を加えたとなれば三河のことも多少は知っておろう。これらは全て最近のことゆえ、その嫡男が元服して建策するようになったとすれば、筋も通ると思うたのだ。」
重勝が早口に言い訳のように述べた言葉には一定の説得力があり、修理亮と熊蔵はわかったようなわからないような顔で「なるほど」と頷いた。
一方の重勝は難しい顔をしていた。
彼は三河を押さえたことで「家の存続はまず大丈夫だろう」と内心満足していた。松平とのことで「もう大戦はこりごり」と思っており、「織田信長を味方にできれば」と夢想することすらあった。
しかし今回、勝幡織田家からの直接的な敵意をその身に受けると、「甘いことを考えていては家を滅ぼすことになる」と気を引き締めた。
そして、主君・今川氏親の体調不良も不安要素であることから、そちらに頼りきりになるのではなく、自力でも何とか織田信秀に対抗できるようにするしかないと決心したのだった。
【注意】織田敏宗は信秀には仕えましたが、それ以前に信定に仕えていたかは不明です。物語上の創作となります。




