第61話 1525年「叙位任官」◆
東海地方から関東南部の海沿いまでは、今川家を中心に西の鈴木家と東の北条家が連合する一大勢力が支配するところとなった。
この連合は、東側では長らく扇谷上杉氏・山内上杉氏・甲斐武田氏と対立しており、西側では尾張斯波氏との対立を引きずっていた。これらの諸家は否が応でも今川連合との戦を意識せざるを得ず、緊張が高まっている。
とはいえ今川家からすれば、隣接する敵は武田だけである。武田を黙らせねば、西に進むにしろ東をうかがうにしろ、話は始まらないのだ。
今川氏親は自身の病により失敗した甲斐遠征を次こそは成功させたいと考えて、三家合同での甲斐攻めのための準備を始めていた。とはいえ、氏親自身はほとんど寝たきりのため、彼の意を汲んで動くのは妻と駿府の重臣である。
「尾張より先に甲斐攻めとなりましょうな。神谷喜左衛門も『尾張の話は聞かず』と文に書いて寄こしており申す。」
茶をすすりながら、熊谷実長が重勝に話しかけた。
神谷とは、駿府駐在の対今川・交渉窓口となっている者である。
重勝は、土瓶に炒った茶葉を入れて囲炉裏に掛けると、土瓶の模様をぼうっと眺めながら言った。
「お屋形様の目から見ればいかにもそうだろう。甲斐よりも尾張の方がうまみのある土地なれど、今川がそこまで出るには後ろの甲斐を片付けねばならぬ。
しかし、尾張を放っておきたくはないのだがなあ。織田弾正忠の勢威はとどまるところを知らず、長島をよく押さえつつ熱田にまで手を出しておる。それがしとしては、なんとかして10年かけずにこれを押し込めてしまいたい。」
重勝は応仁の乱からの経年数でほぼ正確に現在の西暦を把握していた。
しかも、特に印象的な語呂合わせにより本能寺の変が1582年であるのを知っており、そのときに織田信長が「人生50年」と舞ったという創作話から、信長の生年(1534年)もおおよそ把握していた。
尾張を主敵と定める重勝は、できれば信長が生まれる前、遅くとも彼が元服する前に織田家を抑え込みたかった。しかし、対松平戦の記憶が尾を引いて戦に対する忌避感も強く、「伊勢湾封鎖によって音を上げて従属してくれれば」とも思わないでもなかった。
「とはいえ、伊賀(鳥居源七郎)が交わした織田守護代殿との5年の不戦も守りたい。伊賀の名誉にかかわるゆえな。困ったことだ。」
重勝は、鳥居伊賀守が昨年、織田守護代家と結んだ「今川家に5年間は尾張を攻めさせない」という約束は、鳥居の名誉にかけて守るつもりだった。
野心を隠さない織田弾正忠家に対抗するには、この約束をきっかけに対勝幡で守護代と連携するのもいいだろう。しかしその場合、守護代家が担ぐ守護・斯波家は今川家の宿敵であり、それも無理筋だった。
言うなれば、重勝は様々なしがらみにより自分では身動きが取れなかったのだ。
「ほう、10年で。」
実長は以前にも似たようなことで驚いた気がしたが、今回も、この主君の無自覚な野心に驚いた。
主君が問題としているのは、「織田を押し込められるかどうか」ではなく「10年内にそれが可能かどうか」であり、尾張を攻め獲ること自体は「できる」と思っている口ぶりだったからだ。
彼は「なるほど……」と気もそぞろに二言目を続けながら、囲炉裏にかかっている土瓶を眺めていた。この土瓶は実長が瀬戸で作らせ、重勝に贈ったものだった。
尾張国北東部の瀬戸は陶器の産地であるが、この頃は陶工が美濃などに離散していた。
それゆえ鈴木家は桑下や品野のあたりの窯を復興させて、周囲で作られている日用雑器の「山茶碗」と差別化するために、富裕層向けに灰釉・鉄釉陶器を作らせ、その見た目の改善を命じていた。
その支援者の中心は熊谷家だった。熊谷家は家臣が少ないため禄を持て余しており、陶工を支援したり外から買い付けたりと文化方面に手を出すようになっていたのだ。
実長は他の者にも茶器をおすそ分けすることがあったが、どうも趣味が合う者が少ないらしく、いちいち喜んでくれる重勝に見せるのが好きだった。
「それにしても、伊勢の国司殿と争わずに済んだは何よりだった。こればかりは管領殿に感謝せねばならぬ。国司殿と争っておる神宮や御師がそれで怒るのは致し方ないとはいえ、どうしたら宥められるのか……。」
「先の起請文で怒りを収めてくれればよいですがなあ。」
甲斐攻めの下準備として、手始めに氏親は西側の安定のために、鈴木家と伊勢国司・北畠家とを和解させることを目指した。そのために接触したのが、管領・細川高国だった。
高国はまだ年若い将軍・足利義晴を擁して幕政を牛耳っており、上方との連絡を欠かさなかった今川家とも付き合いがあった。高国の娘が北畠晴具に嫁いでいることから、その縁で和解の斡旋を頼んだのだ。
そのおかげで、北畠家と鈴木家は不戦の約定を交わすこととなったが、これに失望した伊勢神宮や御師の町・山田は、鈴木家に対する態度を急に硬化させた。
急な情勢の変化に鈴木家は混乱したが、神宮に対し「御師と碧海郡神宮領の保護や、絹布奉献を変わらずに継続する」との誓いを起請文に書き起こして送っていたのだ。
「ところで殿は管領様と親しむつもりはないので?確かに管領様の執り成した一向宗と長尾家の和睦のせいで三河は一向一揆に苦しみ申したが、それを理由に付き合いをしないというのは……。」
三河の一向一揆に本願寺教団が介入しようと踏み切ったのは、管領の細川高国が越中の一向一揆と長尾為景を和睦させたことで、東海に目を向ける余裕ができたからだった。
実長はそのことを重勝が不満に思っていると考え、やんわりと苦言を呈したのである。
「ううむ、親しまぬというのではないのだが、正直申せば、細川の方々は御家内々の争いに近くの大名たちを巻き込んでおるだけに見ゆれば、深入りしても益はなく、できれば関わりたくないのだ。」
「……まあ、お気持ちはわかりまするが。」
「いまですら、伊勢・志摩をめぐってややこしくなっておる。上方の様子はそれどころでないだろう。それがしには己がそれをうまく捌けるとは思えぬのだ。しばらくは慣れておられる今川のお屋形様にお任せしておきたい。」
「殿、そのようなことは人前で言ってはなりませぬぞ!ただでさえ今川家の重臣連中は三河を下に見て我らの粗を探しており申すし、下手をすれば内外で殿ご自身のご器量をどうこう言いだす者も出てきかねませぬ。」
「……息苦しいのう。」
重勝は鼻白んだ様子で、茶を煮だしてある土瓶の中を覗き込みながら言った。
その横を飼っている亀がのそのそと歩いていた。
◇
幕府や朝廷とのやり取りを面倒くさがるのも無理はない。
熊谷実長にもそう思わせるだけの出来事が、その後すぐに起こった。
事は今川氏親(の意を汲んだ妻や側近)が幕府とのやり取りに手応えを感じ、上方との連携をさらに強化しようとしたことに始まる。そうすることで自らの権威を一段と高め、鈴木家と北条家に対して優位性を示そうと考えたのだ。
今川家は(彼らの目から見れば)自家に従属しているこの両家を誘って、幕府と朝廷に献金をした。3家合わせて1000貫文の献金は、主導した今川家の評判を高めることになる。
今川家は高貴なる中御門や正親町三条との縁を駆使しつつ、幕府を通して北条氏綱に正式に「相模守」を与えるよう朝廷に求めた。北条氏綱が執権北条氏の末裔・横井氏の娘を正室に迎えていることが請求の根拠だった。
問題だったのは、鈴木家の扱いだった。
親鈴木派としては、三河統治の正当化のために鈴木家に三河ゆかりの何らかの官職が与えられることを期待したが、多くの重臣は猛反対した。朝廷も「三河守」を与えることについては、鈴木氏に三河国司任官の先例がないため否定的だった。
親鈴木派は、重勝を妻のつねと離縁させて、どこか高貴な血筋の姫か、あるいは氏親の庶出の娘を娶せることで状況を打開しようとしたが、当の重勝も離縁を謝絶したため、行き詰まってしまった。
このやり取りを仲介した在駿雑掌の神谷は精神をすり減らすことになった。
一方の反鈴木の今川重臣は、むしろ氏親にこそ「三河守護」が与えられるべきだと主張していたが、これにも横槍が入った。
管領・細川高国が自身の嫡男・稙国に家督を譲ると同時に、三河守護職を与えようとしたのだ。高国は、政権を確立する際に、最後の三河守護・細川成之の系統である阿波守護系の細川氏を打ち破っており、彼らの権威をさらに削ごうと、ここぞとばかりに主張したのだ。
「200貫も銭を出してなぜ面倒事を抱えねばならぬのだ……。しかし、このままお屋形様の面目がつぶれては困る。致し方あるまい、ほどほどの官位を賜れるように手配して、駿府には仲介の労に感謝している風を装っておくか……。」
その混乱を他人事のように傍観していた鈴木重勝は、このままでは氏親の権威も損なわれて甲斐・尾張遠征に遅滞や支障が出かねないことを心配していた。
そこで朝廷か幕府から落としどころを提案してもらうよう独自に働きかけることにした。
「堺の中条殿に動いてもらうか。幕臣長老の大舘殿(尚氏)ならば、中条殿の祖父上と知己だったはずとのことだが。」
在堺雑掌の中条常隆は、祖父が奉公衆として将軍に近侍していた。すでに祖父の知人はみな物故しており、存命なのは大舘尚氏くらいしかいなかった。
しかし実は、中条は恥になるため隠していたが、挨拶のために書状と贈物を届けた使者によれば、先方はこちらを軽く見ているのか、親し気な対応ではなかったという。
「どうだろうか、伊賀(鳥居忠明)?」
「大舘殿といえば代々の公方様の信任厚いお方と名高くよいやもしれませぬ。しかし、管領様が三河守護のことで譲らぬ中、幕府は果たして頼れるものやら……。」
「そういえば殿、神宮は古くから皇家と深く結びついており申すぞ。せっかくの縁を途切れさせぬためにも、執り成しをお願いしてみては?」
「おお、思いも寄らなんだ。備中(熊谷実長)は気が回るのう!」
重勝は早速、堺の中条常隆を介して、京の神宮祭主に連絡を取った。
伊勢神宮祭主の藤波朝忠は、官位申請の見通しについて朝廷の武家伝奏に相談することを了承した。藤波朝忠のいとこは、年始に没した碩学で有名な高辻章長で、その妻が武家伝奏・広橋守光と姉弟だったのだ。
藤波は、鈴木家が北畠家と不戦を約したからといって縁を切ることは考えていなかった。
それどころか、鈴木家は「神を祀る神宮に起請文を出す」という振る舞いをしてみせた。
起請文は違反があれば神罰を受けると誓うもの。それを神のおわす伊勢神宮に送って寄越すのだから、よほどの覚悟である、と藤波は感心すらしていた。
一方で重勝はさらに、三河に下向している中原外記の伝手で、除目の業務を担当する部署である外記局で鈴木一族の任官の記録を調べてもらった。
それを基に先祖の任官例に即して、鈴木重勝には「従六位上・美濃介」、甥の鈴木重直には「従七位上・出羽掾」の官位が内諾された。
朝廷側は今川家の不興を買うことを危惧して、「三河一国の主に相当する官位を求めるにしては、不足ではないか?」と心配したが、重勝は「こたびはひとまず官位いただくだけでもありがたく、また、先祖の例に倣うは方々に角が立ちませぬゆえ」と回答した。
この成果は中条常隆から大舘尚氏に伝えられた。
大舘は「当事者の鈴木家が譲歩する姿勢を見せた」と受け取って謝意を示した。
彼は、せっかく将軍・義晴の政権が安定しつつあるのに、東海の雄・今川家と対立して反対勢力に付け入る隙を与えてしまうのを危惧していたのだ。
そのため大舘は、今川家の顔に泥を塗らないよう、氏親の要請に応えて幕府が朝廷に対し鈴木家のための官位を請求したという形をすぐさま整えた。
同じく混乱が長引くことを好まない朝廷も、すぐに陣儀を開いて、北条氏綱と鈴木重勝・重直のための叙位・受領任命が話し合われた。
こうして鈴木重勝・重直は「美濃介」「出羽掾」に任じられた。北条氏綱には「相模守」ではないものの、執権北条氏の先例に倣って「左京大夫」の職が与えられた。
また、幕府は氏親に気を遣って、嫡子・氏輝をしばらく前の先祖の例に倣って「民部大輔」に推薦し、これもその通りに任官された。
一方で三河守護に関しては、細川高国がその職を与えようとしていた嫡男・稙国が急逝してしまったため、結局うやむやになった。
細川稙国の命を奪った病魔は各地で猛威を振るい、上方から東国に至る陸海路を押さえる鈴木家にも人と物の往来に乗って入り込んでしまうことになる。
【史実】「美濃介」は平安期の鈴木重氏の官職で、その次男・鈴木重実が「出羽大掾」でした。北条氏綱の官位は、時期は違いますが史実通りです。




