第60話 1525年「戸田政光」
「牧野が鈴木に屈したか。これはいよいよ当家も動かねばならぬか。しかし、同じ従うでも鈴木なぞ以ての外、今川でなくば到底認められぬ。誰があんな若造の号令を受け容れるというのだ。」
渥美半島の田原城主・戸田政光は苛々と居室を歩き回りながら呟いた。
戸田政光は、一代で三河に大勢力を築いた戸田宗光の孫であり、偉大な祖父に倣って勢力拡大の機会をうかがってきた。
戸田氏は源氏の血筋であるが、宗光の一族は、今川氏親と同じ正親町三条家の流れから養子に入ったと主張しており、今川を相手にしようとも屈しないという気概を示していた。
しかし、永正年間に父・憲光が今川に攻められて渥美半島から追い出されてしまうと、その後を継いだ政光は、父の尻拭いをするのがやっとだった。
自分はようやく知多南部と渥美半島の支配を回復したばかりというのに、鈴木重勝は祖父と同じように一代で大勢力を築いたのみならず、祖父・宗光も認められなかった「三河の旗頭」なる地位を今川家から認められた。
戸田政光にはそれが歯がゆくて仕方なく、彼は鈴木家に対して並々ならぬ敵対心を持っていた。
そんな彼のもとに、鈴木家から書状が届いた。
書状は締めの言葉に「恐々謹言」を用いて対等な関係を示しつつ、「殿」の字をやや崩し、日付欄よりも受取人の戸田政光の名前をやや下にし、どちらかと言えば戸田家を下位に置く書き方だった。
使者の口上は丁寧で、ささやかながら贈物も差し出されたことから、鈴木家の態度に瑕疵はなかったが、まさにこうした事柄に極めて敏感になっていた政光は、普通ならば気にならない程度のことであるにもかかわらず怒りを覚え、使者を冷たくあしらって追い返した。
さすがに罵声を使者に浴びせかけるほど無分別ではなかったが、政光はひとりになるとあたりを憚らずに怒鳴り散らした。
「なぁにが『戸田海賊はそのままに、鈴木家の海での商いに加わるのを歓迎する』だ!当家の振る舞いを己がどうこうできると思うておるその心こそ不遜!」
有力な海賊衆を抱える戸田氏に対し、重勝は自家の優位を認識しつつも対等に近い扱いをして、下手に出たつもりだった。
そのうえで「家をそのまま残して鈴木家の海上交易に加わらないか?」と提案したのであるが、政光は重勝のその配慮を「下手に出た」とは全く受け取らなかった。
政光は重勝からのこの書状を黙殺したが、さすがに三河一国のほとんどを領している鈴木家に単独で対抗できるとは思っておらず、鵜殿氏のように今川直属の海賊となる道を模索し始めた。そうすれば家格としては鈴木家とほとんど対等になると考えたのだ。
◇
そうこうするうちに、知多半島廻りの海運に財源の多くを依存していた佐治氏が、鈴木家と小笠原水軍のいわば「海上封鎖」に堪えかねて、鈴木家に従属を志願した。
この海上封鎖は、親鈴木の諸勢力の船以外に圧力を加えて伊勢湾水運を麻痺させるというものであり、鈴木家の次なる主敵である勝幡織田家を狙ったものだったが、その周囲の水野氏や久松氏、佐治氏も影響を受けていたのである。
東国の船荷は伊勢湾に入らずに三河船が紀伊沖を回って堺に売ってしまい、そのおこぼれに与ることができるのは伊勢神宮の勢力下の大湊だけだった。
伊勢湾内の商業は熱田・津島・桑名などの間で尾張や美濃の産物を取引する分にはどうにかなったが、しばしば小笠原水軍が無差別に船を襲って略奪するため、伊勢湾内に面する諸勢力はこれまでに比べて収益をだいぶ落としていた。
戸田政光は、牧野氏に続いて知多の海賊・佐治氏までもが鈴木家に従属したのを聞いて、脳が沸騰するほど怒り、そして同時に悲しんだ。
牧野氏は今橋城のあたりをめぐって、佐治氏は知多半島の覇権をめぐって長年抗争してきた競合相手であり、それがこうもあっけなく鈴木家に呑みこまれてしまったのが無性に悲しかったのだ。
段々と正常な判断ができなくなってきている戸田政光は、鈴木家に対して「佐治の羽豆崎は本来当家のものであるゆえ、今後その差配は当家に任せたまえ」と要求した。
戸田氏は佐治氏と知多半島の先端部・羽豆崎(師崎)を共同管理する約定を結んでおり、「佐治氏が落ちぶれたからには、知多南端の佐治領は戸田のものだ」と主張したのである。
重勝が戸田の使者を出迎えたのは岡崎城だった。
彼は、西と海への進出を見据えて形原の湊とも接続しやすい岡崎城に移っていた。西三河の再開発の音頭をとっている鷹見修理亮が相談役としてそのそばについていた。
「戸田はなにやら心得違いをしておるようだ。」
「今川のお屋形様より『三河旗頭』と認められた当家にあのような振る舞いは、さすがに……。大人しくなるかはわかり申さぬが、ひとまず叩いておいた方がよいかと。」
どちらかと言えば温厚な部類の鷹見ですら、戸田が送ってきた使者の無礼な口上と書状の薄礼なさまには不満を隠せず、強硬手段をとることを勧めた。
重勝も一国を得て傲慢になったのか、「下手に出れば付け上がりおって」と苛立ちを覚えており、この要求を開戦通知とみなして、返事もせずに嵩山城の南にある二連木城を急襲した。
対一向宗戦の間は岡崎に詰めていた小笠原長高は、今や嵩山城に戻って相変わらず将兵の訓練をしていた。重勝はその訓練兵を差し向けて戸田氏が兵を集める前に城を攻めさせたのだった。
二連木城を守っていたのは戸田政光の弟・宣成である。彼は、嵩山の日常的な訓練風景に慣れ過ぎて警戒心が薄れており、虚を突かれてまともに防戦できずに降伏した。
二連木陥落の報せを受けて、渥美半島の田原城では、宣成の兄で当主の政光が憤っていた。
「なにが三河の旗頭だ、畜生め!騙し討ちなぞしおって!そのようなことを平気で仕出かす下劣さこそ、『名』に不相応なることの証ぞ!」
政光は口汚く罵りながら、抗議の使者を出し、それと同時にともかく防衛の準備を始めた。
しかし政光が城の最上階から外を見やると、海原に小笠原水軍の船団が掲げる白い帆が浮かび上がるようにして見えた。
「うぬぅ、兵のみならず船まで差し向けておるとは!これでは防げぬ。金七郎(弟・戸田宣成)には悪いがここは一旦落ち延びて再起を図るしかないか。」
戸田政光は鈴木方の関船8隻と小早15艘が接近しているとの報告に、抗しきれないとはわかっていたが、海戦の準備をさせた。海戦のどさくさに紛れて船で知多の河和城に退こうと考えたのだ。
取る物も取りあえずといった様子でわらわらと集まった戸田の関船5隻に対し、鈴木方の関船は敵の攻撃が届くぎりぎりまで帆走して速度をつけていたことで、戸田方が思っていたよりも数段の素早さで接近し、戸田方の船がひとまとまりになる前に攻撃を仕掛けた。
小笠原水軍は、頭領の定政が兄・長高から軍略の手ほどきを受けており、数の優位を作ることを常に心がけていた。
それには素早く動いてよい位置を取ることが重要であり、一般的に使われている筵帆を高級な綿布帆に換えていた。密度が高い綿布帆は風をよく受けるため、速度が出るのだ。
もっとも、都合のよい向きに風が吹き変わることはないため、綿布帆の効果は、小刻みに動かねばならない戦場よりも、平時、つまり戦場に駆け付けるまでや長距離移動の場面で発揮された。
鈴木方からは火矢が放たれた。
火矢で船体を焼くのはなかなか難しいが、畳んだ帆にでも引火すれば延焼するだろうし、小火を消すのに人手を拘束するだけでも行動を阻害することができる。
戸田方の船は櫂を漕いで必死に逃げるも、鈴木方は用心深くも関船・小早をまとめて陣形を組むかのように一団で進んできて、敵方の関船1隻に群がってたくさんの兵で制圧してくるため、進路に残ってしまうと抗すすべがなかった。
その中には政光の乗船も含まれており、戸田氏は降伏するしかなかった。
◇
捕縛されて重勝の前にひざまずく政光は、全く無言で不気味なほどだった。
「戸田氏は知多の河和城のみとし、水野氏・久松氏の城を攻め獲れば、これを与える。」
牧野氏の居城・今橋城を借りて戸田氏に沙汰を下した重勝は、田原城を小笠原水軍に委ね、渥美半島の漁民の掌握と水軍拠点としての整備を急がせた。
しかしその後、戸田政光・宣成兄弟は出奔して勝幡織田氏に仕えた。
調略されたのか、自分から落ち延びたのかは定かではないが、捕縛された時点ですでに鈴木家の下で生きるつもりが全くなかったのだけは確かだろう。
もともと河和城を任されていた二人の下の弟・戸田親光は兄たちに同心せず、河和の安堵を条件に臣従を誓って小笠原水軍に組み込まれることになった。
◇
思いもよらず三河国内の諸国人の統制が進んだが、重勝はそれがすべて牧野氏が鈴木の傘下に収まることを受け容れたことに端を発すると思っていた。
そのため、今橋に来たついでに牧野氏とより関係を深めるべく、商人の取り締まりなどについて協議した。そして、父の薫陶を受けて商いに詳しくなっていた鳥居源右衛門を貸し出し、三河湾の海運や商人の出入りを監督する方法を共有するということになった。
重勝は今橋城主・牧野田蔵信成に話しかけた。
「田蔵殿、こたびは当家と合力していただく運びとなり、改めて礼を申す。」
「いや、長門殿。時流とはかくなるものよ。そも当家は今川家に属しておるところ、お屋形様がお認めになった旗頭ともなれば、力を合わせるは当然のこと。」
「それでも感謝いたす。戸田を見ておれば、なおのことにござる。
さても今日は商人の扱いについてご相談あり。いよいよ三河平らかになり、人も物も船も往来盛んになりてござる。これによくよく目付しておかねば間者入り込み、気づけばとんでもないことが起こりかねませぬ。当家よりこの源右衛門を遣わせまするゆえ、ともに気を配りましょうぞ。」
「その言や尤も。当家からは稲垣藤助を出して奉行としましょう。」
「かたじけない。」
重勝は礼を言ったが、少し考えて一つ要請をした。
「もひとり奉行出していただくことできまするか?当家は常に人手が足りず、やがて源右衛門を戻すことになり申す。もひとりおれば両家の間にあって橋渡しの役を頼むことできまするゆえ。」
「ふむ、貴家がずいぶんと忙しいのは見てのごとくなれば……、能勢丹波もつけましょう。」
「まことにかたじけない。」
稲垣藤助は重賢、能勢丹波守は信景といって、どちらも牧野氏の重臣である。
鳥居・稲垣・能勢はいくつかの中核拠点で交通と商業の管理の仕組みを整えていった。
本坂通の往来は嵩山で、東海道の往来は御油と岡崎で管理され、三河湾の通行は渥美半島の田原、湾内の今橋、知多半島の河和で監督された。
これらの場所では銭や現物と引き換えに鑑札が発行された。この鑑札は定期的に図柄が変更され、通行人はそれを関や湊で見せることで陸海での通行が許可された。それを持たない者や間違った図柄の鑑札を持つ者は取り調べを受けた。
関所を通らない者は当然管理できないが、山林や村落は農業共同経営体かつ徴兵単位である「講」が監視している。両方を合わせて、「しないよりはまし」ということで満足するしかなかった。
また、商人には割符型の鑑札が定期市の開催地ごとに発行された。奉行所が保管する割符と照合の上で、台帳に記された名や人相書きを基に本人確認が行われ、商いが許可され、運上が徴収された。
鑑札は大量に必要であり、それだけでなく商業や街道を管理する役人のための指南書も各所に配布されたので、それらを作成するために堺から職人が招かれて木版印刷の工房が整備された。
なお、牧野信成が協力的だったのは、同族の牧野成勝(元・成種)から「協力を惜しまなければ、重勝は牧野氏に大いに利益を配るだろう」と説得されていたからだった。
とはいえ、牧野領は三河湾に面し、東海道に沿っている。この立地では、三河の陸海の交通をほぼ独占する鈴木家と協力しなければ、やがて干上がってしまうため、選択肢はそもそもなかった。
重勝はすんなり話が通じたことで牧野氏に対する好意を強め、そうした友好的な態度を引き出した牧野成勝をねぎらい、東海道の宿場を守るべく大改修されていた御油城を任せて、その功に報いた。
しかし、成勝はすぐに胃潰瘍を再発して致仕し、子の貞成に家督を譲った。牧野家の子孫は、致仕にあたって重勝が渡した詫び状を丁重に保管している。
◇
佐治氏・牧野氏を傘下に加え、戸田氏を渥美半島から追い出した鈴木家に逆らえる勢力は、三河にはもはやなくなった。
今川直臣の鵜殿氏も、家格では上位の東条吉良氏も、鈴木家に従属こそしないものの、三河旗頭としての号令には合力すると約束した。
それに対して鈴木家は、鵜殿氏の今川直臣としての対等性、吉良氏の独立性を最大限尊重するとだけ連絡し、戸田氏との意思疎通の失敗に懲りたのか、その後は一切の干渉を避けた。
相論の種になりやすい船荷についても、吉良領を通る矢作川と鵜殿領沖をできるだけ避けてやり取りされ、西三河の東海道宿場である岡崎・知立のそれぞれ外港として形原・大浜の整備が進んだ。
西三河の山間部の諸家は、材木などの矢作川を使わねば海に運べないようなものを除いて、産物を岡崎・知立で東の鈴木家に売り、鈴木家はそれを尾張に睨みを利かせる常駐の兵団の補給に使い、形原・大浜の湊に近い土地から集めた物資を海路で運んで外地で換金した。
鈴木家は彼らと軋轢を生まないように大事に放置したのである。
こうして鈴木家による三河統一は完了した。
その所領は幡豆郡の一部を除く三河全域・知多半島南部・尾張国大森・志摩国的矢・紀伊国尾鷲に広がり、これからますます増えるだろう海上交易の利益を加えれば、自家単独の収益はすぐにも5万貫文(20万石)を超えるだろう。
戸田領を併合したことを理由に今川家は2200貫文相当の上納を要求したが、重勝は「今はまだそのときではない」と家中の不満分子に自ら声をかけて宥め、その要求を受け入れた。
しかし、これまでの上納ですら十分高額であると家中では思われており、この増額は「一国の主」という実感を得つつある鈴木家臣団の自負心を大いに刺激することになる。




