第58話 1525年「的矢湊」◇◆
伊勢神宮との連携の強化は、重勝の商業振興と海上進出の目的に適っていた。
今の鈴木家には軍事的にも財政的にも土地を拡げる余力がなかった。仮に余力があっても、今川との約定を考えれば、余計な軋轢を生まないためにも、尾張の土地は今川方の国人のために残しておいた方が無難だろう。
そのため、海上進出は今川家への2000貫文の上納を賄うための方策として重要だった。
「伊勢神宮のおかげで、まずは志摩に足がかりができた。ここを守るには、なまなかな者を置いては不足なり。先の水軍頭領の摂津守殿に入ってもらおう。」
重勝は、志摩国的矢湊に、小笠原水軍の頭領・定政(客将・小笠原長高の弟)の義父である摂津守長房を置いた。
小笠原摂津守のもとには、十分な数の関船のみならず、積載量500石を超える大型の伊勢船も2隻配備された。志摩方面の分遣船団は、以前から半ば同盟関係にある熊野の海賊堀内党と小笠原水軍の本船団の間で航路をよく守り、志摩海賊のちょっかいにも力負けすることはなかった。
その様子を見た志摩の者からは、鈴木家を頼ろうとする者もでてきた。
志摩海賊の向井忠綱という者がいち早く鈴木家に服属し、摂津守によって志摩の情勢に関する助言者として取り立てられた。
また、的矢湊を管理する御浦総検校の職にあった的屋美作守も、湊に拠点を建築して防備まで整え始めている小笠原水軍に接触してきた。
「ようやくお目通りがかないましたな、小笠原摂津守殿。もうお忘れかも知れませぬが、それがしは伊雑宮より湊を任されておる的屋美作と申す。」
「覚えておりますとも。初めに挨拶し申してより、長らく会うことすらできず、まことにかたじけない。」
小笠原摂津守は、志摩分遣船団長として的矢に移ってすぐに湊の管理人である美作守と挨拶したが、両者の会談はそれ以来しばらくぶりだった。
その間に何度も面会を申し入れていた美作守としては、一言嫌味を言ってやらねば気が済まなかったのである。
摂津守はあたかも「すまぬ、すまぬ」と口で言うかのような態度を見せながら、事情を述べた。
「我が主君より『三河と紀伊の間は任せた』と突然言いつけられて東西に奔走しておって、なかなか的矢にとどまっておられなんだ。しかも遠江であぶれた者を拾ってきたとかで、新参者の扱いも厄介でござって……。いや失礼、貴殿には関わりない話でござった。」
重勝は母の再婚相手である興津氏の伝手を辿るなどして、西郷氏・高橋氏・長谷川氏など遠江沿岸部の者たちと知り合い、余っている人手がいれば送ってもらうよう頼んでいた。
こうして集めた人手は急激に拡大する小笠原水軍に組み込まれ、小笠原摂津守の指揮下で訓練をしていた。彼らは海沿いの出身で、三河内陸の者よりよほど使いやすかったとはいえ、摂津守は彼らの配置を決めつつ的矢を守るための船団を組織せねばならず、多忙を極めていたのである。
「そうでござったか。ずいぶんと忙しないようで。本日の用向きというか、かねてより一言申さねばと思うており申したが、この砦のことでござる。」
的屋美作守が言う砦とは、いま両者が会談しているまさにこの場所のことである。
小笠原水軍が湊を拡築するとともに自らの駐屯地に防備を施して要塞としつつあったのだった。
「神宮より鈴木のお家が湊を自由に使うお許しが出たことは知っており申すが、砦まで作るのはさすがにいかがなものかと思うのでござるが……。」
「まあまあ、そう言われまするが、いまの志摩は海賊衆の動きが盛んにて、『湊を自由に使う』と簡単に申しても、こうまでせねば危ういとそれがしは見ており申す。それは美作殿もそうではござらぬか?」
「ううむ、それはそうやもしれませぬが……。」
伊勢南部と志摩内陸部は、伊勢国司の北畠家の勢力下にあった。
とはいえ、北畠が伊勢南部を安定して掌握するようになったのはここ50年ほどのことであり、志摩までは直接的な支配は及んでいなかった。
当主・北畠晴具は、伊勢湾の周りの海運において存在感を増す三河鈴木家に警戒を強めており、これに対抗して志摩の海賊衆を配下に組み込もうと動いていた。
すでに彼の父・材親に従属していた鳥羽取手山砦の橘忠宗は、晴具の支援を受けて、これを機に他の海賊衆を滅ぼして勢力を拡大しようとした。波切城・九鬼泰隆も北畠家にすり寄って同じことをし始めたため、反橘・反九鬼で志摩海賊は連合を組んだ。
一方で北畠家は前々から伊勢神宮の御師の町である山田とも争っていた。神宮寄りの者たちは、北畠家が志摩の海賊を束ねて海上交易で幅を利かすようになる未来を嫌って、反北畠の海賊連合と同盟し、仲が良い鈴木家の武力を勝手に笠に着て北畠家に対抗した。
とはいえ、敵味方の別は流動的だった。
橘忠宗は志摩北部を東進して小浜氏・安楽島氏を降して急成長し、志摩半島の南西の九鬼泰隆も近くの和具氏や越賀氏に服属を要求した。
しかし、橘と九鬼はともに北畠家の後援を受けていながら対立し始めた。「志摩の旗頭は2家もいらない」というわけである。
北畠側の海賊が一枚岩ではないように、反北畠の諸海賊も連合を維持できず、北畠・橘・九鬼・神宮・鈴木のあちこちと結んだり離反したりした。
鈴木家の押さえる的矢湊は、志摩に切り込みのように開いている伊雑浦の内側にあって、外海に出るのは簡単ではなかった。途中には千賀氏・三浦氏といった地頭がいて、的矢湊に出入りする三河船にちょっかいをかけてくるからだ。
そのため、鈴木家は彼らと対立する九鬼氏と結んだ。
しかし、九鬼氏が北畠系の海賊からますます敵視されるようになると、鈴木家は北畠家との対立を避けるために、九鬼氏からも距離を取って、半島西部の五ヶ所浦を押さえる愛洲氏と同盟を結んだ。
愛洲氏はかつて北畠家の守護代相当の地位にあったため、鈴木家はその縁でなんとか中立を保とうとしたのだ。とはいえ、その愛洲氏も北畠家と対立している神宮と近い関係であり、情勢は混沌を極めた。
そのような状況を踏まえて要点だけ言えば、鈴木家はなりふり構わずに北畠家との対立を避けつつ、航路の保全に努めていたということになる。
「いっそ美作殿もこの砦に移られてはいかがか?伊雑宮に仕えるとはいえ、身を守らねばならぬは同じこと。ひとつの湊にふたつも砦を築くのはいかにも愚か。遠慮はご無用にござるぞ。」
「いやそういう話ではないのでござるが……。」
なんだかんだするうちに、結局、的屋美作守はこの砦に居住するようになり、その後はこの湊ごと鈴木・小笠原の傘下に収まった。
◇
こうして鈴木家は、北畠家と伊勢国山田の対立と、それに絡んだ志摩の混乱に、否応なく巻き込まれてしまった。
志摩海賊は三河船に過大な関銭を要求し、襲撃さえした。そのため、稲生重勝の指揮下に新たに小船団が編成され、商船護衛の任に当たった。稲生は、知多半島の付け根の亀崎を本拠地とする海賊だったが、松平氏の没落を間近で見て、鈴木家に臣従していた。
鈴木重勝は、英邁と名高い北畠晴具と敵対することを嫌って、なんとか中立を保とうとし、北畠家に手紙を送ったり、伊勢御師に動きを控えるように言ってみたりしたが、結局は無駄な努力だった。
重勝は、伊勢志摩ではこれ以上の深入りを避け、紀伊から三河までの航路を安定させるために、的矢湊を紀伊の側からも守ることができるよう、さらに西に進出した。
鈴木の兵は小笠原の船に乗って移動し、志摩南端の尾鷲に上陸した。
志摩国はこの尾鷲のあたりまでの沿岸部を占めているが、このあたりなら北畠家の直接の支配も及んでいないだろうから、余計な軋轢も生じないだろうと踏んでのことである。
派遣されたのは、長篠左馬允元直を惣領とする菅沼一党である。彼は三河の一揆鎮定で一番隊を率いた下野守俊則の嫡男で、戦のあとに俊則の世代は軒並み嫡男に家督を譲っていた。
重勝は、一族を多く喪ってもよく働いてくれた彼らに報いるべく、元直に大きな裁量権を認めて紀伊に送り出した。
菅沼氏の長篠・島田の地は、家中でも運営方法が安定してきた「官衙講」に任せれば十分なため、人材をだぶつかせないようにしつつ、世代交代を機に彼らを土地から引き剥がすのも、この措置の目的だった。
「ここが尾鷲か。特段に砦もなく、容易く押さえられよう。とはいえ、次に攻め来る者あるとも限らぬ。まずは砦を構えねばならぬな。」
この地は土豪の仲氏などが支配していたが、かつて鈴木家は尾鷲からも大波の被害により困窮した者を引き取っていて縁があったことから、抵抗少なく矢濱村・林浦・堀北浦・野地浦の漁民を従属させた。
「平野は狭隘なるも、海と山の恵みを得られるよい土地にござる。穀類はどうにかせねばならぬが、こればかりは三河を頼るしかあるまい。」
住民は主に林業と漁業で生計を立てて、平地が少ないため穀物は一部を外から買うなどしていた。そこで、鈴木家では尾鷲で干物や干鰯を作らせ、代わりに三河から雑穀を輸送することにした。
海運や勘定方の業務を担うために、酒造が軌道に乗って手持無沙汰だった岩瀬造酒佑氏安が送られ、その寄騎に旧松平系土豪の浅井道介が付けられた。
さらに西では、折しも東紀伊の海賊・有馬氏がお家騒動で没落していたため、長篠元直が兵を送って恫喝すると、有馬の地も容易に支配下に収めることができた。
有馬家の騒動はよくある家督争いだった。老いた当主に実子が生まれると、後継者として迎えられていた養子が自害させられた。養子の親族は決起し、内紛に陥って一族全体が弱体化していたのだ。
この地には島田伊賀守定盛が配置された。菅沼党は一族の家臣化に成功しており、島田氏は元直の家老職に収まっていたのである。
これにより鈴木家は、熊野新宮の社家であり有力な海賊である堀内党と隣接することになり、より緊密に連携が取れるようになった。
菅沼党は重勝から「切り取り勝手」の許可を得ており、堀内党と連携して機を見ては南志摩から東紀伊にかけて所領を拡大し、鈴木家はこれらの地に大きな影響力を持つに至った。




