第57話 1525年「松本七郎次郎」◇◆
三河の大部分を平定した鈴木重勝は、伊勢神宮からの使者を迎えていた。
鈴木家は神宮との結びつきを強めて御師の移動を保護する代わりに、彼らから各地の情勢について情報を仕入れており、御師は御用商の三河屋と並んで重要な諜報機関となっていた。
その神宮が連絡してきたのは、表向きは重勝の三河国主としての立場をいち早く認めて祝いの言葉を伝えるためだった。
とはいえ、それは本題ではなかった。
「長門様、伊勢の祭主様はどうしても三河の神宮領の復旧をお望みでござって、拙僧ひとりにどうこうできる話ではござりませぬゆえ、お時間頂戴いたしたく。」
重勝にこのように切り出したのは永山道損という人物だった。
彼はもとは下野国の宇都宮忠綱の家臣で、神宮との取次を務めてきたが、大永3 (1523)年に戦に敗れて落ち延びた。懇意の伊勢御師・佐八美濃守が、彼を庇って海に出て伊勢を目指したのだ。そして、遠江で乗り換えた船が三河屋の船だったため、三河に寄ったのである。
重勝は遠路はるばる来た永山をよく労って休ませ、その気ならば伊勢に送ることを提案したが、三河で出家して心機一転した永山はこの地に留まることを選び、鈴木家の伊勢神宮取次として働くことになっていた。
「お話をお聞きくださいますれば、ありがたく存じまする。」
永山に重ねて言うのは、神宮の使いの松本七郎次郎元吉である。
彼は伊勢国山田の御師で、伊勢神宮祭主・藤波朝忠の手紙を届けて、重勝が征服した碧海郡(西三河安祥を含むあたり)の押領されていた神宮領を返還してほしいという交渉を担当していた。
神宮はしばらく前に先の禰宜・荒木田守晨の尽力で仮殿遷宮(修理のために仮殿に移ること)が行われ、地震や大火で倒壊寸前だった社殿の修理が始まっており、資金難だった。そのため、三河からの収入を欲していたのだ。
「道損、取次ご苦労である。確かにこれはそれがしが考えねばならぬ事柄なり。しかしなあ、おぬしはどう思うのだ、七郎次郎。『頼む』と言われて『おう』と答える間柄なのか、我らは?」
「……祭主様は、鈴木様を高く評価されておられまする。御師も保護したてまつり、毎年の奉献も欠かさぬ篤信のお方、と。」
「それはおぬしが話をまとめようとしてそのような形にもっていったからであろう。」
松本は神宮の交渉担当者の案内人として伊勢と三河を行き来していた。
神宮の担当者は何度か交代したが、自前の船でその担当者を運び続けた松本は一貫してやり取りを見聞きしていた。そのため、交渉担当者に助言を求められるようになり、結局は彼が直接交渉することになったのである。
そうして松本は、かつて三河絹布の奉納に関する鈴木家と神宮の間の約定を取りまとめた。その際に、彼は鈴木家が求める即物的な要求をうまくゆがめて神宮に聞こえのいいように伝えていた。
そうすることで鈴木家に十分な実利をもたらしつつ、神宮側の感情を好意的なものに保ったのだ。しかし、今回の交渉が難航しているのは、前回のやり取りで鈴木家に対する神宮側の認識が歪んでしまっていたことに原因があった。
三河屋の商人を「伊勢神人」として登録させると、商人は諸国を移動するときに関銭免除の特権を利用することができる。前回の交渉では、鈴木家が絹布奉納に対する対価としてこの特権を得ることができた。
これは、宗長から伊勢の沿岸部の荒廃ぶりを伝えられた重勝が、生糸の奉納の話を神宮に持ちかけたのがきっかけだった。
この打診のすぐ後に、神宮からは「正しい儀式を伝えて相応しい絹布を作らせねばならない」と息巻く者たちが三河にやって来た。
彼らを船で運んだ松本は、出迎えた重勝が面倒くさそうにしていたのを機敏に察知していた。その後も、神宮から来た者たちはあれこれ指図するばかりで、重勝の態度は硬化していった。それを見てとった松本は、交渉の権限が自分に回ってきた頃合いで、「神人」の特権について切り出した。
つまり、この関係を提案したのは、三河から寄進を得たい神宮の意向を汲んだ松本七郎次郎だったのだ。
「先の取り決めにつきては、おぬしの尽力には感謝しておるが、このまま『あれもくれ、これもくれ』と言われるようになってはなぁ。我らは奉献し御師を保護して、神宮は三河屋の商人に『神人』の身分を与える。それと同じように今回もうまくできぬか?」
そう言って永山道損の方を見るも、彼も難しい顔である。
支配する土地に神宮領があることの面倒くささは、まさに宇都宮氏配下の神宮領である栗嶋を扱ってきた彼にはよくわかることであり、できれば神宮領の復旧はなしにしたいと思っていたのだ。
一方、重勝としては「神人」の件はあくまで取引であり、しかも「神人」に登録してもらうために絹布に加えて毎年ある程度の金品も上納していることから、絹布奉納も含めて特権の利用料を支払っている感覚だった。
伊勢で賞賛されているという三河での御師の保護というのも、本願寺系の寺を全て焼き出した西三河において民のために寺社を招致する際に、伊勢御師にも布教活動を許しているだけだった。現に、曹洞宗・臨済宗・真言宗のほか、伊勢御師と対抗関係にある熊野御師の活動も許されている。
三河と良好な関係を保って神宮の収入源を確保するために、松本がそれらを脚色して、重勝の側から願い出て神宮に敬意を払っているという風に神宮上層部に伝えていたのだった。
「……せめて1ヶ村だけでもお返しいただくわけには?」
「心得違いをしてくれるな。それがしは『いや』とは言うておらぬ。復するというならば、まとめて復さねばみっともない。ただ、当家も余裕があるわけではない。おぬしは商いに通じておるゆえ敢えて言えば、我らが『よし』と思える対価があればよいのだ。」
重勝は神宮との関係を損ねるつもりはないため、神宮領の保護そのものは拒否していなかった。
実際、この後には、神宮領から想定される収益から管理費を引いた純益を毎年の上納に上乗せすることで新たな約定が交わされている。飛び地を管理する手間を嫌った神宮が、重勝の提案を了承した形だった。
対価を求める重勝に対して、松本は考えるそぶりをした後、口を開いた。
「……鈴木様は西方の湊を探しておられましたな。伊勢の安濃津であれば神宮より便宜を図るよう手配できるやもしれませぬが。」
伊勢国中部で伊勢湾内に接続する安濃津は、伊勢国司の北畠家と対立する長野氏の勢力圏にあるが、古来より神宮と関係が深く、この湊の使用権を融通するくらいならば神宮には造作もなかった。
「おぬしは抜け目ないな。知っておるぞ、安濃津はかつての大波で傷ついたままであろう。柴屋軒殿(宗長)が前に教えてくれたわ。おぬし、湊を直すのを我らに押し付けようとしたな。危ない危ない。」
「いえいえ、とんでもございませぬ。しかし、安濃津がお嫌となりますと……。それでは、志摩はいかがでしょうか?」
神宮といえば伊勢大湊である。神宮門前町の宇治と山田は主に御師らが集まって作る会合衆によって自治されており、大湊といえばその外港として大いに栄えていた。
三河に大湊の使用権を提案しないあたりには、よそ者に近くに来てほしくないという神宮の内心が透けていた。
とはいえ、重勝はそのことには気づかずに、単純に志摩の湊に興味を持って尋ねた。
「志摩とな?神宮は志摩に湊を持っておるのか?」
「伊雑宮という別院ありて、そのそばに御厨(神宮領)の的矢の湊があり申す。鈴木様の故地、熊野に出るにもよい位置にございまする。」
「……おぬし、最初から用意しておったな。あな恐ろしや。まあよい、その湊を自由に使わせるというので手を打とう。」
松本は「ははっ」と再び頭を下げた。彼はこの話を持ち帰って神宮の上層部を説得しなければならないわけであるが、事は別院のことであるし、神宮には何の不利益もないことから、「これであれば話はまとまるだろう」と安堵した。
しかし、そこで重勝が追加の一言を放った。
「それともうひとつ。」
「もうひとつ?」
松本は想定外のことで、思わずそのまま言葉を繰り返して問いかけた。
「七郎次郎よ、おぬしに当家に仕えてほしい。外とのやり取りや商いのことを任せられる者が足りぬのだ。おぬしが仕えぬというのならば、話は全てなしだ。」
「……そうまでそれがしのことを買っていただいたとなれば、この身をお売りするほかございませぬ。」
こうして松本七郎次郎元吉は鈴木家に仕えることになった。彼は浜嶋と並んで御用商である三河屋の大番頭となり、鈴木家の商い全般を監督することとなる。




