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戦国の鈴木さん  作者: capellini
第1章 自立編「東三河の鈴木家」
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第4話 1514年「宇利の熊谷」◆

 甚三郎ら一行は松平氏の支配する西三河の南側を避け、山方の菅沼氏の勢力範囲を経由して吉田郷に入った。吉田郷といっても甚三郎が治めるのは北の山方で開けている南半分は熊谷領。

 黄柳(つげ)川のさらに上流の小阿寺(あてら)川沿いの集落、山に囲まれた谷に開けた小さな平地。それが甚三郎の所領であった。


「なかなかによい土地よな。どことなく足助に似ておる。かかさまに文を出そう。『よき地なり』とな。」


 甚三郎は落ち着くまでは母のお秋を足助に置いておくことにしていた。

 それもそのはず。小阿寺の集落には元々甚三郎一党が滞在できるような数の家すらなかったのであり、出立の準備を進める間に、甚三郎は予め鳥居源右衛門忠吉と農民を送って、今後の拠点となる家屋を作らせていたのだった。

 おそらくは今後も問題は山積みであろうし、引っ越しが落ち着いてから母を呼ぶことを考えていたのである。


「しばらくは山菜と(しし)を食うしかあるまい。材木は乾くに時がかかるゆえ、さっさと切り出さねば。急がねばならぬし、小屋を建てていぶすがよかろうか。」


 甚三郎はいよいよ自分の土地を持つということではしゃいでおり、鷹見弥次郎や鳥居源右衛門にあれやこれやと話しかけた。

 二人は「まあそう()かずとも」とこれをなだめた。

 甚三郎は内心では任された地が思ったより小領であったのを残念がったが、文句は言っていられない。山から得られるものもあるため、見た目以上の収入が望めるだろう。そう思うことにした。


 甚三郎は自らの目で諸々の確認を済ませ、地元の者らと挨拶をすると、集落の管理や紙の生産は鷹見弥次郎に任せ、平七・平八らには弓の訓練がてら地形把握と狩りに励むよう言い置いた。

 一方で、鳥居源七郎には守るに適した地を探させ、気の早いことに城の縄張りまで済ませるよう命じた。本人としては「人に任せた方が当主らしき重みも出てくる」と思ったようだが、口出ししたそうなのは源七郎には筒抜けであった。


 ◇


 こうしていったん落ち着くと、甚三郎は鳥居源右衛門忠吉を連れて黄柳川を下り、宇利の町に出た。

 町とはいってもさほどの規模ではなく、東西を繫ぐ街道と矢作川や三河湾を介した流通の交わる岡崎などとは比べようもない。

 甚三郎は、松平氏に対抗するという目標に照らして、どうしたら勢力を拡大できるか思案した。

 物思いにふけって歩みが遅くなりながら、鳥居源右衛門にせっつかれて山道を登り、宇利城の門にたどり着いた。


 熊谷氏は熊谷直実の末裔であるが、甚三郎にとっては「あの『敦盛』の」というくらいの印象しかなかった。

 熊谷氏から土地を分与させることになったわけだが、家中でどのようなやり取りがあったか知るわけではないので、「ことによるとよく思われていないのではないか」という不安があり、甚三郎はそわそわと落ち着かなかった。


「鈴木甚三郎重勝殿にござりまする。」

「うむ。ようこそ参られた。」


 案内役の言上に当主の備中守実長が答え、甚三郎と源右衛門は胡坐(あぐら)で前ににじり出ると頭を下げた。


「鈴木甚三郎にござりまする。こたびは父・忠親と中条様のご縁で吉田は阿寺の地をお任せいただくことになり、心より感謝申し上げまする。」


 通された部屋には熊谷の家臣が勢ぞろいしていたが、厳しい視線はさほど感じなかった。

 ひとり老境の武者から鋭い視線を感じたが、この人物が隠居した先代の兵庫頭重実であった。


「うむ、かの地には満光寺の寺領もあったのだが、管理ができておらなんで、もとより人を送ってくれと言われておったのよ。その方、農才があるとの由、うまく開いてくれればと思うた次第よ。

 さて、こたびの同盟は我らにとっては菅沼を抑えるためのもの。その方の治める地も、やつらの出張ってきよった長篠に近くあるほどに、合力してこれに当たらん。」

「ははっ!これより、熊谷家の寄騎と思うて励み申す。よしなにお頼み申す。」

「うむ。」


 それ以外で甚三郎に気になるところはなく、やり取りは実長が一人で行い、挨拶は拍子抜けするくらい簡単に終わることとなった。

 しかし、部屋から出て帰途につこうとしていたところで小姓に声をかけられた。


「先代の兵庫頭様よりお話ししたき儀ありて居室に寄ってほしいとのことにございます。」

「なに?うむ、わかった。案内を頼む。」


 甚三郎と源右衛門は互いを見やって首をかしげながらも、小姓についていった。


【注意】熊谷重実は文明年間(1469-87)に宇利を築城し、子の実長は1530年に松平清康に滅ぼされるようです。実長の子は1530年に落ち延びるので、その頃には少なくとも幼児ではないと思われます。

 熊谷氏は移住後に「高力」に苗字を改め、高力清長が出ますが、彼は1530年に生まれるようです。一方で清長の父・祖父は1530年代に没したとあり、熊谷氏の移住前に高力氏は存在するともあったので、このあたりよくわかりませんでした。

 そこで本作では、①重実(1460頃生)→②備中守実長=備中守重長(高力清長祖父、1485頃生)→③正直/直長=安長(清長父、1510頃生)→④高力清長(1530生)という風につじつま合わせしました。

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