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戦国の鈴木さん  作者: capellini
第4章 西三河編「三河の一向宗」
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第54話 1524年「悩みの種」◆

 鈴木重勝は久しぶりに庭野政庁に戻ってきて、熊谷備中守実長と鳥居伊賀守忠明とともに、諸事を処理することになった。


「上方は中条殿、今川方は神谷喜左衛門と、任せられる御仁が見つかってよかったですな。」

「うむ。あとは知多との取次も考えるべきであろうか。松平を追い出したというのはやはり大きなことにて、先ごろまで当家の呼びかけにうんともすんとも言わなかった知多の土豪も、今やいつぞやの文に丁寧に返事を寄こしよる。」


 手の空いた時間に熊谷備中守が感想を述べると、重勝もそれに応じた。

 重勝は松平の同盟勢力の力を削ぐべく、水野の支配圏の土豪の調略を手配していたが、対松平戦の間は手ごたえが全くなかった。それが今や現金なことに向こうから誼を求めてきていた。


 鳥居伊賀守は暢気な2人に「やれやれ」といった様子で言った。


「戦没者に新参者、家中を不和なく整えるのは大変なのですがな。」

「伊賀には助けられてばかりよ。もちろん策を授けた勘助にも感謝しておるが、織田の守護代を松平より引き剥がしたは、何にも代えがたき大功。いかに報いようかと思うも、釣り合いとれる物を持ち合わせず。もしそれがしに今川様のように遠駿の二国あれば、そなたに遠江を任せようと思えるほどよ。」


 重勝は松平との戦の終わらせ方がわからなくなって苦しんでいた時に、鳥居伊賀守に支えられて持ち直すことができた。

 鳥居は知恵者の大林勘助に相談して策を授けられ、自身は織田家に松平に味方しないよう直訴に向かい、大林は以前の伝手を利用して東条吉良家に援軍を要請したのだった。


「これよりさらに勤めが増えてはかないませぬ。将来、殿が二国の太守となりましたら、せがれに一国を与えていただけますれば。」


 鳥居伊賀守は冗談めかして答えた。

 三河一国を実質的に支配している鈴木重勝は、鳥居に比べて遜色なく忙しく働いている。

 三河内外の諸勢力との調整や、家中の各部署への方針の通達、従属家の所領開発のための奉行衆の編成や交流の場の設定、こじれた不和相論の裁定、商人や寺社の要望の審議、新たに臣従した家臣の扱いなど、重勝は毎日毎日あちこちに気を遣いながら決め事をしていた。

 鳥居には、重勝にとっての自分のような補佐役もなしには、重勝の立場になりたいとは決して思えなかった。


 これに対して熊谷備中守は2人が平気で「二国太守」という言葉を出したことに内心で驚いていた。彼らは無自覚に三河を越えて鈴木家を大きくするつもりがあるとわかったからだ。

 実長はそのことに内心で感心しながら、西方の情勢について触れた。


「さても西の越後殿(重直)は活力に満ち満ちておられますな。」

「うむ、その熱が三宅の家にも伝わりて、尾張に攻め入ることになるとは思うておらなんだ。」


 足助鈴木家のさらに西に位置する三宅氏は、一族の中で惣領らしき惣領もおらず、近隣の土豪も家臣化しきれていなかった。それでいて、支配地域の南側には、重勝に臣従したも同然の中条常隆領があって拡大の余地がなかった。

 それに焦った広瀬城・三宅高信と伊保城・三宅清貞は、それぞれ「自らが三宅氏の惣領である」と主張して、一族の統一と西進の支援を鈴木家に求めた。

 鈴木重勝が独立したばかりのころに鷹見修理亮を家臣に迎えた際に、父・忠親が「三宅氏の西進を支援する」と約束していたことから、両三宅氏はその履行を迫ったのである。


 困った重勝は「家中で話し合って惣領を決めた後には十分な支援をする」と約束した。

 こうして三宅一族は武器を手に取り話し合いを始めたが決着はすぐについた。

 三宅高信が西広瀬城の佐久間九郎左衛門重行と御船城の児島右京亮義高を味方につけて勝利し、敗れた三宅清貞や三宅師貞を家臣の列に加えたのだ。

 三宅高信はさっそく鈴木家から兵を借りて、三河・美濃と接する尾張北東部に攻め込んだ。


 この地には長江氏が住んでいた。

 その当主は民部景則で、彼の父は美濃斎藤家に仕えていたが、土岐氏のお家騒動に伴う混乱で落ち延びてきていた。景則は有力な三宅の軍勢を見るや臣従して、余勢をかって三宅勢を先導した。

 進軍先の志段味・新居・大森には、知多半島の水野氏の同族が住んでいた。しかし、その惣領・水野致泰は美濃に移って土岐氏に仕えてしまっていて、この地には原野と諸村が残るだけだった。

 そのため、三宅氏と鈴木氏は尾張北部を簡単に占領して、大森の地に共同で城を築いて防備を整えた。西郷の率いる「西備え」は、設立早々に大森に移転し、空いた国境防衛は酒井氏に一任された。


「しかしこうなると、さらに尾張に進むことになるのでしょうかなあ。」

「ううむ、那古野には駿府のお屋形様のお子が入られておる。ありそうなれど……。とはいえお屋形様は病が重いと聞き申すし、はたしてどうであろうか。」


 大森の地から南西に徒歩で1日の距離のところに、今川氏親が築かせて庶子の竹王丸を配置した那古野城がある。那古野城は鈴木領と接するようになったため、今川家は近場から後詰を期待できるようになった。それゆえ、今川家の意向次第で、尾張侵攻が決まってしまう可能性があったのである。


 熊谷と鳥居は尾張への進出を思ってその後もやり取りした。重勝はそれを聞きながら、「尾張は厄介だな」と今からすでに疲れた気分になっていた。

 

 ◇


 ところかわって、嵩山城の小笠原長高も悩みを抱えていた。


 先の大評定で伊庭貞説があっさり臣従を決めたのを見て(貞説の内心を知らない長高の目にはそのように映っていた)、信濃に帰るという思いに揺らぎが生じていたのである。

 それに加えて、弟の定政も水軍の頭領として楽しくやっているらしく、すっかり鈴木家と小笠原水軍に馴染んで信濃のことは忘れ去ったかのようだった。

 しかも、古参と言ってもよい大林勘助も吉良家出身の妻も、新たに加わった柴田丹後も平岩九郎右衛門も三河の人であり、信濃衆は伊奈熊蔵と自分の身の回りの世話係くらいしかいなかった。

 これでは帰国の決意が鈍るのも当然である。


「信濃に戻れば、このように『教練して書を読んで戦して』というだけではいかぬよな。ううむ、この立場を捨てるのはあまりに惜しい。」


 長高は、自分が鈴木家での生活を居心地よく感じていることに自覚があった。

 治めるべき領地がないことから、相論の裁定や村の管理、外交など面倒な仕事はほとんどなく、あってもすべて大林と熊蔵がやってくれていた。

 長高は自分が軍事に集中していられるのは、鈴木家に身を置いているからこそだと理解していたのである。


「こういう時は、書物を読むか鍛錬するかに限るな。」


 悩みつつも、長高は何かの指針を得られないかと『六韜』の続きを読んだ。「文韜」と次の「武韜」も途中まで読み終えたので、今はその続きである。


「……ふむ、『天下は一人の天下にあらず』は金言なり。狩りをして獲物を分け合い、舟に乗ってともに川を渡るがごとくか。主君は家中で富と志を分かち合うが吉ということであるな。それから、民を収奪せねば民は自ずと助ける、と。」


 読んで思ったことを口に出し、それを注釈として書物の余白に書きつけながら、長高はゆっくりと読み進めていく。

 そうするうちに悩みは心の片隅に消えていく。「重勝が漢籍にかぶれるのは、そういう気持ちもあるからなのか」と長高は見当違いな共感を覚えていた。


「『われ功を立てんと欲す』、うむ、このあたりは役立ちそうだ。

 なになに、敵が強大ならばより強めて綻びの出づるを待ち、密かな謀により君臣の間にくさび打ち込み、民を慈しめばよく働く、ということであろうか。なるほど、長門殿は『六韜』の武略を図らずもその身で行っておったわけか。」


 大林勘助が上方で軍略を学び、その書物を写して持ち帰ったことで、長高はその講釈を受け、やがて漢籍を自学するようになっていた。

 もともと、三河に来てから、長高は覚えている限りの小笠原流の武家故実・礼法の内容を書物に記録することを自らに課していた。信濃小笠原家の家督を手にした弟の長棟に書物をすべて持っていかれてしまったからだ。

 そして請われるままに鈴木家中の将兵の訓練を見るうちに、個人の武芸や礼法の域を超えて、実践的な戦略眼を持つに至っていた。人に教えることで知識が整理され、度々の実戦で経験が伴うようになっていたのである。


 ◇


 長高の悩みと似たようなものを伊奈熊蔵も共有していた。

 彼の場合は、このまま三河に残って働きたいという思いが強く、主君が信濃に帰ると言い出した場合に己はどうするべきなのか、という悩みだった。

 熊蔵は、叔父に押領された城を回復するという当初の目的を近頃は大事と思わなくなってきていた。むしろ、仲が良い鷹見修理亮とともに三河で「国づくり」をしていたいとまで思っていた。

 鷹見が作事惣奉行として三河の国土を開発することに心血を注ぎ、そしてそのことに誇りを持っているのを間近で見てきた熊蔵は、その生きざまに共感していたのである。


 熊蔵は、同僚である大林勘助に聞いてみた。

 彼は三河山本家の出身でありながら、もともと三河に思い入れがなく、上方での遊学を好んでおり、熊蔵は自分とは違う見地からの意見を聞いてみたかったのだ。


 なお、大林は先ごろ名をあらためて、「山本菅助」を名乗っていた。

 菅助は山本家から大林家に養子に入っていたが、養父に嫡男が生まれたため、苗字を「山本」に戻し、長高の家臣として実父とは別家を立てることになった。

 彼の「勘助貞幸」という名は、義父・勘左衛門の「勘」の字と父と義父で共通の通字「貞」をとって名乗ったものだった。そのため、「勘」を「菅」に改め、また主君・長高の一字「高」をもらい、「山本菅助高幸」を名乗って家督相続権の放棄を明確にしていたのである。


「いよいよ鈴木家は三河を平らげ申した。菅助殿はこれからどうなると思うか。」

「長門様が三河を制したことは驚くべきことと言ってもよいとそれがしは思う。憚りながらも敢えて申せば、松平と争うと長門様がお決めになった頃は、我が殿を除けば、鈴木のお家には見るべき将はおられなかった。伊庭殿や牢人衆が加わったとはいえ、勝てたのはよほどよく長門様が支度なさったがゆえと思う。」

「これ、滅多なことを言うな!」


 山本菅助はずいぶんと不遜な物言いで言った。

 しかし実際のところ、鈴木重勝の配下には、奉行職にある内政向けの者か、少数の兵を率いる程度の器量しかない土豪上がりの者くらいしかいなかった。

 一軍を任せられる将は、強いて言えば、家老の熊谷実長と鳥居忠明くらいであり、血で血を洗う様な激戦の経験があるのは宇利城の戦いを経験した熊谷だけだった。

 菅助は、築城を学びに小笠原長高に師事した後、重勝の支援を受けて畿内で遊学をする中で、書を集めて知を蓄え、あちこちの戦に陣借りして経験を積んできていた。

 そうした視点から見ると、先に述べたような率直な感想が生まれたのだ。


「長門様もそれをわかっておられるから新参の伊庭殿を重用し、外に広く人物を求め、農民の組頭を鍛えて将がなくとも戦える軍を整えておられるのだ。」

「……。」


 内政は心得たものだが軍事は得意でない伊奈熊蔵には反論できなかった。

 確かに重勝は菅助の言う通りのことをしており、ことによると自分より軍事に明るい彼の見立てが正しいのかもしれないと思ってしまったからだ。


「されどこれからを考えるならば、それは我が殿にとっては必ずしもよきことにあらず。」

「なにゆえぞ。」

「殿はいずれは信濃に帰るお方なれど、帰るには長門様の後詰がなければならぬ。その長門様は我が殿を片腕としておられる。はたしてこれを手放すや?否なり。後詰なしには自前の兵のない我が殿は信濃に帰れず。ゆえに『よきことにあらず』と言えよう。」

「ううむ……。」


 熊蔵はもっともだと思ってしまった。

 そうすると、軍事に明るい主君・長高もそれに気づいていないということはないだろう。それでも伊庭のように臣従しないとなると、長高は復帰を諦めてはいないのか。熊蔵は長高の内心を悟った。


 事実、長高は帰国を諦めていないからこそ悩んでいた。

 負けず嫌いの彼は「ここで諦めれば、父に贔屓されただけの弟が自分よりも優っていたということを認めてしまうことになる。それは嫌だ!」と思っていた。

 突き詰めれば、長高の帰国の願いは子供じみた頑固な思いによるものであるが、現状に全く不満がない中ではもはやそれくらいしか心の拠り所がなかったのである。


 菅助は長高の内心を慮って、彼は彼で最近はしきりに「信濃復帰の時期がいよいよ近づいてきている」というようなことを話題に出していた。長高が決心したときに「帰国する!」と言い出しやすいように、という配慮である。

 それを近くで聞かされる熊蔵は、自分の心変わりを批判されているようで、嫌な気持ちがしていた。しかし、菅助のその振る舞いが「現状が主君のためによくない」という認識によるものだとわかると、今や彼の忠義に感心した。


「ううむ、信濃か……。」

「長門様は今川家との友誼に重きを置いておられるゆえ、三河の外に討って出るならば、次は甲斐か尾張となるだろう。どちらも強国。これでは信濃はいったいいつになるのやら。」


 菅助が思案する横で、密かに熊蔵は隠し事をしていることに罪悪感を覚えた。

 実は、重勝はこれまで信濃出身の熊蔵に故郷の情報をしきりに求めていた。そして、彼は熊蔵が話した梓川に架かる安曇(あづみ)の「ぞうし橋」に喰いつき、近いうちに熊蔵は架橋の技術を学びに信濃入りすることが決まっていたのだ。


 熊蔵は、そのこと自体もまだ主君の長高に話せていなかったが、重勝が信濃の情勢をしきりに知りたがっているということも長高には話せていなかった。

 重勝が信濃に関心を寄せているということは、彼が片腕たる長高を失ってでも、信濃に復帰させるつもりがあるということだ。

 長高の腹心である菅助のこの様子からすれば、もし重勝がそのような腹案を持っていたとしても、この主従には何も伝えていないのは間違いない。

 余計な憶測でこの主従をぬか喜びさせてはいけないし、重勝もお家にとっての大事を安易に話題にされたくはないだろう。そうした建前を免罪符に、信濃に戻ることにいまいち魅力を感じていない熊蔵は、だんまりを決め込んだのだった。


【史実】宗長の日記によれば、大森の西の守山には松平信定の館があり、信定は清州の織田大和守家と接触があったようです(1526年)。信定はその後、品野の長江氏を家臣化します。1535年にはこの守山で松平清康が暗殺され、信定は松平宗家にたびたび反抗します。

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[一言] 三宅一族の武器を手に取っての話し合い(意味深)。
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