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戦国の鈴木さん  作者: capellini
第4章 西三河編「三河の一向宗」
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第52話 1524年「和議」◆

「――かくのごとく尾張守護・斯波武衛様よりすべてを任されし大和守様のお執り成しもちて、こたび和議の席整うは重畳。和睦のなった暁には、長らく騒乱に苦しんだ三河の諸氏・人民に、必ずや平安もたらさるることでしょう。」


 尾張方を代表して織田藤左衛門が音頭をとって発言した。

 和議の開催にあたっては尾張守護・斯波義統の書状が読み上げられたが、実際はすべて守護代・織田大和守達勝が段取りしたものだった。

 すでに鈴木・松平の上層部は、事前交渉で和睦の案はおおよそ固めていたが、それぞれの配下の者たちの説得は万全ではないため、和議の場は緊張感に包まれていた。


 口火を切ったのは本多平八郎だった。


「松平は太雲様(松平信忠)に合流する。鈴木家に降伏し従うのだけは認められぬ。もはや拠って立つ城もないとはいえ、我らは鈴木に敗れたにはあらず。こたびの和議もあくまで織田様の顔を立ててのこと。最後の一人まで戦おうと思えば戦うことができるのを忘れないでもらおう。」


 信定の遺児・松平孝定の隣に座る本多は、松平家を代表して降伏の意向を述べた。幼い当主、宗門対立の遺恨、土豪の離散、農村の荒廃。これらを抱えた松平家は降伏するほかなかった。


 ◇


 松平勢は、戦場に現れた吉良氏と織田氏の軍勢が期待した援軍ではなかったことから、士気を維持できず、退却して安祥城に籠城した。援軍の見通しもなく糧食にも乏しく、籠城を続けるのは困難だった。

 しかも、ばらばらに逃散した者も多かったとはいえ、3000の兵が城を目指して逃げたため、松平家の諸将はその数で籠城するのではすぐに食料が尽きてしまうと考え、途中で城門を閉ざし門徒を締め出した。

 城に入ることのできなかった門徒は混乱してあちこちに逃げ、尾張に逃げ込もうとした者は織田軍の捕虜になった。


 それでも1500を超える兵で長期の籠城をするには食糧が足らず、実恵が期待していた伊勢の教団からの援軍もなく、1ヶ月で開城の交渉が始まった。

 伊勢の援軍がなかったのは、勝幡城の織田弾正忠信定が長島を占拠し、真宗高田派の応真と組んで暴れているからだったが、それに加えて、いよいよ教団宗主で高齢の実如が倒れ、畿内の教団本体が動けなくなってしまったからだった。


 鈴木方は包囲のために2線級の兵を中心に5000を用意した。

 包囲は輪番制のため、交代要員に鈴木と松平の領境の焦土と化している農地を復旧させ、長期の包囲を見据えて食糧の現地供給を準備しつつ、動員兵力を無駄にしないようにしていた。

 また、一部の門徒は安祥城の後背にある桜井城にも逃げており、鈴木家は新規補充兵の訓練のために吉良家と合同でこれを攻めた。

 留守居の渡辺源太左衛門範綱は自害して果て、門徒の身柄はこれまでの掠奪の賠償金代わりに吉良家が引き取った。


 交渉は難航しさらに1ヶ月かかった。

 松平家は「家の独立、3年の和平、安祥城の安堵」を要求した。残存兵力や鈴木家に与えた損害の大きさを踏まえての強気の主張だった。

 これでも取次同士の準備交渉で条件は調整されていたが、この案を聞いた重勝は過大な要求と感じて態度を硬化させ、松平家が三河から退去することを条件に挙げ、以降、絶対に譲らなかった。

 重勝は、この条件から「松平勢が将来絶対に敵対する」と悟って、三河に置いておくことはできなくなったのだ。また、彼らの存在が身近にあっては、自家に属する旧松平家臣がよからぬ考えを持つかもしれないことをも危惧していた。


 次の1ヶ月の間は双方ともに歩み寄りを見せず、城兵はますます飢えて死者も出始めていた。

 これを見かねた織田家と今川家がいよいよ間を取り持ち、今川家が松平家を引き取ることを提案して、ようやく交渉は進展を見せた。

 松平家の諸将は「安祥を鈴木に預けるは一時のこと。やつばらがせっせと地を富ませる間に、我らは幼い当主を盛り立て、主君が成長した暁には捲土重来を期すのだ」と涙をのんで耐えたのである。


 ◇


「今川家にて松平家の方々を受け容れましょう。移りて後は、『ひとまず深沢の城を任せる』とお屋形様より言付かっており申す。」


 今川家からは重臣の三浦次郎左衛門尉と葛山八郎氏広が和睦の見届け人として来ていた。


 今川は松平勢に深沢城の守備を委ねるという好待遇で受け入れを了承していた。

 深沢城は駿河・相模・甲斐国郡内の境のあたりにある。甲斐攻めが不完全燃焼に終わった今川家では再戦を期しており、松平の強兵をそのために使おうと考えたのである。

 和睦がなれば、松平家諸将と一族郎党200余名での大移動となる。一方で土豪たちは、身分や財産の保障があるならば鈴木に降ることも構わなかったため、多くが三河に残ることになった。


 ここまでは鈴木家と松平家で基本の合意はなっていた。なんとしても彼らに三河から出て行ってほしい鈴木家の方から、移動などにかかる費用を受け持ってもよいと譲歩したこともよかった。


 拗れたのは一向門徒と本願寺教団の扱いについてだった。

 代表者の実恵がほとんど対話できないほど意見を曲げなかったからだ。


「鈴木家としては、松平に与した者で三河に留まらんとする者ありても粗略に扱わぬこと誓おう。しかし、一揆をわざわざ引き起こしたは(いたずら)に平和を乱す行いにて、悪しき例に倣う者が出づるを防ぐべく『こたびの一揆が道理に(もと)るものである』と世に示すべきなり。」


 鈴木家からは鳥居伊賀守が代表として発言していた。

 その両隣には熊谷備中守と小笠原右馬助が座っており、重勝は暗殺の報復を警戒して伊庭の率いる阿寺衆に守られて後ろに控えていた。

 鈴木家は、今回の一向一揆が鈴木家に落ち度があって起こったものではないことを内外に周知しておきたかった。求めるのはこの1点だけで、教団関係者にはそれを認めてさっさと伊勢に帰ってほしかったのだ。


 一方、本願寺教団の代表は長島願証寺・実恵が務め、そのそばには三河本證寺の源正と、出家して完全に教団の坊官となった阿部大蔵あらため常基入道の姿もあった。

 実恵が言う。


「かかる不当な物言いは受け入れがたし。わが教団は民の声に応えて鈴木の抑圧に抗するべく立ち上がり、三河を加賀と越中に同じく現世の楽土とすべく松平家に力を貸したのだ。」

「では、門徒を教え導く貴僧ら教団は、法に照らして明らかなる門徒の悪事につきては、門徒に命じてその分の贖い金を鈴木・吉良・水野・織田の諸家に支払わせるべきでござる。」

「……。」


 似たようなやり取りは幾度となく繰り返されてきた。

 鈴木家の「一向一揆が正当なものではなかったと認めること」という唯一の要求は、実のところ本願寺教団には最も受け入れがたかったからだ。

 それは当然である。「一揆が教団の私利私欲で始まった」などということになれば、これ以降の教団の民に対する求心力や諸大名に対する権威に影響が出るからだ。

 とはいえ、一揆が教団の都合で生じることなど、少しでも世の中を知る者であれば承知しており、さして気にするほどではない。


 実恵が要求を吞まないのは別に理由があった。教団の実質的指導者・蓮淳の指示である。

 実恵の父である蓮淳は、和議にあたって各方面に何通も手紙を送っており、今回の三河の騒動を「一向一揆の弾圧」として印象付けようとしていた。

 「三河の騒動が宗教的に正しくない行いだった」と周知されてしまっては、彼の指導者としての資質を批判されかねないため、彼個人の都合から、鈴木家の主張を受け容れないよう実恵に伝えていたのだ。


「門徒の狼藉は我ら真宗の僧も由々しき事と思うており申す。鈴木家がこたびの一揆が正しくないと思うのならば、それは蜂起を呼び掛けた拙僧の不明と、かの者らの悪事によるもの。本願寺が正義の心で門徒の救援に出向いたのは確かなことにございまする。

 門徒の現世の罪は領主の扱うべき事柄なれば、彼らを捕えた諸家の裁きを否定は致しかねまする。さりとて、彼らとともに捕らえられたる僧は不届きな行いに加担しておらぬゆえ、その身柄を疾く返すよう切に願う次第。」


 こう言ったのは、禿頭に脂汗を浮かべた源正だった。ずいぶん体調が悪そうである。

 実恵は突然の同朋の発言に驚いた。


「何を言う、源正。」

「実恵様、すべての門徒を救わんとするそのお心はまことに尊きものにございますが、まずは教団の方々を確かに長島に連れて戻るこそ大事。三河に残る門徒は、たとい時間がかかろうとも、拙僧がこの命を懸けて救い出して見せましょう。」

「源正、おぬし……。」


 汗を垂らして主張する源正の必死の面持ちと物言いに、実恵は心を打たれたようだったが、それは彼の勘違いである。


 実恵は、父・蓮淳の強硬姿勢を受けて、準備段階では強気の発言ばかりで交渉相手にならなかったため、最終的に鈴木と松平は本願寺抜きで秘密交渉を行って基本合意に至った。

 その合意は門徒の処分についても及んでおり、実は源正もこの秘密交渉にかかわっていた。

 彼は鈴木家から「教団を三河から追い払うのに協力すれば、お咎めなしで本證寺と寺領の復興を許し、その住持に源正を復帰させる」という密約を提示されていた。

 そして、彼のもとには松平領にもともと住んでいた真宗教徒の一部が帰参することが許されていた。とはいえ、源正の預かりとなる以外の多くの門徒は、和解金代わりに諸家で分配され、労働力にするもよし売り払うもよしという形で合意がなっていた。

 腹芸に慣れていなかった源正は、秘密が教団にばれてしまうことを恐れており、不安からここのところずっと体調が悪かっただけだったのだ。


 一方の実恵は松平家と鈴木家の密約を知らなかった。

 この秘密交渉に関与していた石川左近大夫は、手の者を実恵の周りに置いて身辺警護を理由に彼を実質的に隔離していたからだ。

 石川は、門徒総代の責も主家への忠節も全うできなかったことを悔いており、せめて教団・松平家の両者が互いを敵視することなく穏便に別れ、将来の発展のための余力を残すことを願って、和睦の成立に向けて協力していたのである。


 実恵が源正の渾身の訴えに心を動かされているのを見て、織田達勝は奉行の織田藤左衛門の口から言わせるのではなく、自ら発言して誠意ある姿勢を見せ、実恵の説得を手伝った。


「実恵殿。源正殿のお心意気は見事にて三河のことはお任せになり、御身は長島にお帰りいただくがよいと思う。

 行き違いから我が家臣が長島に攻め入ったは不徳の致すところ。まことかたじけない。されども、織田には本願寺に敵意はなく、すでに御父上の蓮淳殿と話し合うところなれば、ご安心召されよ。この織田、門徒の伊勢へのお帰りの面倒をみましょう。」


 織田達勝と蓮淳はすでに交渉を開始しており、守護代家によるネコババを前提に、「教団から達勝を通して勝幡織田家に和解金を支払い、達勝は長島を返還するよう勝幡織田家に命じる」という大筋が合意されていた。

 というのも、奉行・織田藤左衛門の調べによって、伊勢の織田信秀が主家に断りなく勝手しているのを知った達勝は激怒しており、蓮淳との和解を急ぎ結んで信秀を叱責したかったのだ。


 一方の蓮淳は、これ以上三河のことに首を突っ込んでいては、近畿や北陸の教団の支配に支障が出かねないことを気にしていた。

 本願寺宗主・実如が倒れたことで、蓮淳は自己の権力を誰憚りなく拡大することができるようになっていた。彼は近いうちに次代の幼い証如に代わって畿内の教団を導くことになるだろう。

 おのれが北陸を含めた教団の最上位に立つには、今は足場固めが重要であり、畿内と特に織田信秀が介入している伊勢の掌握のため、三河に構っている暇はなかったのだ。


「源正に続いて守護代様までかくおっしゃるならば、拙僧も意地を張ってはおられぬ。相分かった。教団の者らの安全は譲れぬが、門徒の扱いにつきては後々話し合わん。」


 ◇


 和睦はなった。

 今川は一兵も出さずに吉良と松平の宗家を配下に収めた。

 敗北した松平は、鈴木から駿河行きの支度金を受け取ったが、全ての所領を失った。とはいえ、その先行きは絶望的なものではなく、一城が与えられることが約束されている。

 門徒総代の石川左近大夫は、教団も主家も守れなかったことを恥じて切腹し、その命と引き換えに教団と松平家が和睦を受け容れ、互いに隔意なく今後もつきあうよう願いの言葉を遺した。


 松平の一族や家臣のうちで、三河に残った者も少なくなかった。

 阿部大蔵(常基入道)の振る舞いについていけなかった別流の阿部忠正や、もとは足助の出身の成瀬氏の国重、松平庶流の大給の乗元と鴛鴨の親光は西の鈴木家に仕えた。

 東の鈴木家に仕えたのは、五井の松平信長、能見の松平重吉、碧海郡の土豪である高木宣光、安藤家重、米津勝政、長田広正、浅井道介などだった。

 鈴木家はこうして旧松平系の人材とその支配地を得たが、一揆の不当性を認めさせることは結局できなかった。仲介役の織田も今川もこれ以上本願寺の相手をするのを嫌がったのだ。

 

 本願寺教団の面々は無事に伊勢に帰還した。

 伊勢にたどり着いた者たちはすぐに高田派に対して逆攻勢を仕掛けたが、織田信秀は長島城を手放さなかった。

 主君としての面目を潰された守護代・織田達勝はさらに怒ったが、捕虜にした門徒を身代金と引き換えに解放し、本願寺と個別に和解した。


 一般の門徒の扱いはよくなかった。

 安祥の軍勢に加わった門徒は延べ1万人を超え、戦死者や餓死者は3000人か4000人を数えただろうが、一揆に勝手に加わった者も含めれば、実態はよくわからない。

 鈴木家からお縄につくよう呼びかけられて素直に戻ってきた1000人だけが本證寺・源正の預かりとなった。彼らとその家族は、西三河の復興のために鈴木家の定めた労役刑に服したが、衣食住を保障されており、戦の間よりはるかにましな生活ができた。


 逃散した門徒の中には、逃げ隠れするうちに衰弱死したか、他国の兵に捕らえられた者もいたが、少なくない者が改宗したり名を変えたりして、三河に隠れ住んだ。鈴木家はそれを知っていたが、藪蛇をつつくようなことはしなかった。

 あちこちへ逃げて捕らえられた3000人は、織田・水野・吉良・松平の間で分配されて、戦費や損害を補填するために売り飛ばされた。

 そのひどい扱いを見て、一揆に積極的に加担していた内藤氏・天野氏の残党は武家に失望し、常基入道(阿部大蔵)の一党に加わって、教団の僧兵として長島に同行した。


 かくして諸家は門徒の犠牲の上で平和を獲得したのだった。

【史実】徳川家(松平家)は本拠地を2度失い、今川家に従属しています。

 1度目は、家康の祖父・清康が1535年に暗殺されると幼い当主・広忠しかおらず、本拠地の岡崎を松平信定に奪われます。広忠は流浪して1540年代に岡崎を取り返しますが、今川家に従属して幼い家康を人質に出します(途中、家康は織田家の人質になります)。

 2度目は、三河を織田と今川が取り合う中で、広忠が1549年に急死し、旧松平領は今川の支配下になります。家康は1558年の三河国人の反今川一揆の鎮圧のために派遣され、褒賞として旧領を一部取り戻し、桶狭間のどさくさで1560年に岡崎を回復して自立していきます。

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[良い点] 面白くて一気読みしてしまった! 椎茸栽培に澄み酒に硝石丘ばかりの歴史ものに飽きていたところ、知識導入の塩梅や文体までしっかりした当作は、戦国の戦記ものとして純粋に楽しめてよかった。 [一言…
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