第51話 1524年「織田達勝」◆
「弾正忠(織田信定)はあれだけ『出兵せん』と騒ぎよったのに、己は長島攻めとは……。」
尾張守護代の織田大和守達勝は愚痴を言った。
彼は尾張と三河の境で三河側にある知立城に兵を寄せ、城主の永見氏の従属志願を受け容れて入城したところだった。
達勝は、少し前に先代守護代の兄が守護の斯波氏と対立して殺害されたことで、跡を継いだ自らの立場も盤石でないと感じていたため、この出兵に乗り気ではなかった。国人に負荷をかけて支持を落としたくなかったのである。
しかしそれでも出兵したのは、勝幡城を拠点とする織田弾正忠信定の進言を認めたからだった。織田弾正忠家は、達勝の守護代大和守家に仕える奉行の家である。
「とはいえ、水野の従属を取り付けてきよったは弾正忠殿の功。その代わりに『伊勢よりの門徒の流れを絶ち、尾勢(尾張と伊勢)の商いを織田の手に収めたし』と言って戦を願い出られては、無下に断るわけにもまいりませぬゆえ。」
達勝の愚痴に応えたのは、織田藤左衛門寛故だった。
彼も守護代に仕える奉行の一人で、今回の副将として従軍していた。
一向門徒の狼藉と小笠原水軍の沿岸部劫掠に閉口した水野忠政は、当主が暗殺された松平を見限り、松平氏の生まれの妻を離縁して、継室に織田敏信の娘を迎え、織田家に従属していた。
これを仲介したのは、松平信定が結んだ婚姻同盟にともに加わっていた織田弾正忠信定だった。彼は松平家が乱れたのを好機と見てとり、飢えた三河の一向門徒が尾張国境を掠奪したことと、それに苦しんだ水野氏の救援要請を口実に、一向衆を排除するべく三河に兵を送ることを主張した。
しかし、織田弾正忠家は途中で自分の主張を翻して「長島願証寺からの援軍を絶つ」と宣言し、三河攻めは主家に任せて自身は伊勢国長島に出兵していた。
織田藤左衛門寛故は、妹が織田信定に嫁いで信秀を産んでおり、そのよしみで弾正忠家を度々執り成してきたが、近頃は内心でそれを面倒に思うようになってきていた。
特に今回の二転三転した振る舞いに対しては、「妹婿の信定が三河攻めを求めるから口添えをしてやったというのに」と、藤左衛門は自分が蔑ろにされたように感じていた。
「それもそうだが、鈴木家の鳥居という家老が曲者であった。まさか守護殿(斯波義統)が絆されてしまうとは。」
達勝は勝手に勢力を強める弾正忠家に警戒心を持っていたため、その進言を拒否しようとしたが、しかしそこに鳥居伊賀守が直談判にやって来てしまい、事情が変わった。
鳥居はまず、このままならばいくらか時はかかっても鈴木家が松平家を削りきることは明らかであると訴えた。そしてその上で今松平と手を切らねば、織田家にも危険が降りかかることを示唆した。
「今や今川家も甲斐より軍勢を戻しており、当家は遠駿の後詰を受けられまする。三河でもすでに吉良家が当家に味方いたし申した。なおも松平家と結ぼうとも織田家に益はなく、松平が敗れた後には、今川のお屋形様のお下知で三河以東が一丸となって尾張に攻め込みましょう。」
前々から今川家は斯波家と敵対しており、駿河・遠江・三河がまとまれば尾張に攻めてくるというのは確かに自明のことだった。まだ少年の守護・斯波義統は、鳥居の鋭い視線に気圧された。
「されども斯波武衛様と織田大和守様の御賢慮によりて今こそ松平と手を切り、当家と不戦の約定を結んでくだされば、我らはその信に応えて少なくとも5年は今川家が攻め来るのを防ぐ壁となりましょう。当家と今川様はお味方同士なればこそ、内々より尾張攻めをお止めすること叶うのでございまする。」
鳥居は斯波義統の心が揺れ動くのを見て取ると、この幼き君主に狙いを絞って一向宗と本願寺教団の危険性を熱心に説いた。門徒がはびこる西三河がいかに乱れた状況だったか、門徒の反乱を収めるのに鈴木家がどれほど苦労したかを滔々と語ったのだ。
その説得は達勝の心を動かすに至らなかったが、その主君であり形だけとはいえ尾張守護の斯波少年の心に響いてしまった。
主君と家臣の両方の意向となれば無視するわけにもいかず、達勝は仕方なく出兵を決めたのだ。
「あのようなよく心得た家老を持つは、鈴木長門守は恵まれておることよ。いや、存外、主君が頼りないがゆえに家老がしっかりしておるのやもしれぬな。」
織田達勝は感心しつつ「弾正忠がもっと忠誠心を持っていてくれたらなあ」と内心で嘆いた。
それを聞く織田藤左衛門も、主君の内心を正しく推し量っていたが口には出さず、織田弾正忠信定の功績を申し添えて君臣関係の悪化を避けようとした。
「弾正忠殿も早馬にて『長島を掌握した』と早くも伝えてき申したゆえ、奉行としてはよく働いたのではござりませぬか?」
妹婿・信定に不満のある藤左衛門だったが、織田家の団結を願う気持ちは揺らいでいなかった。
今の尾張は、守護代家の先代が殺された上に、守護・斯波家が浜松攻めに失敗して権威を失墜させたことで、支配者が共倒れした状態だった。藤左衛門は、それゆえに領国支配のタガが外れかけていることを感じ取っており、ぼんやりとした危機感を覚えていたのだ。
一方の守護代・達勝が抱く不満は、弾正忠家が持つ実力と当主父子の才覚に対する期待の裏返しであり、「その力を守護代家を盛り立てるのに使ってくれれば」というものだった。
その複雑な心境は達勝の言葉にも表れた。
「それよ。いかなる小細工を弄したやら。まあ、織田家が労せずして治むる地を増やしたとあらば……褒めてつかわそう。」
伊勢と尾張の間の木曽三川沿いには、商業拠点として、中流には津島があり、下流には長島がある。津島を支配下に置く織田弾正忠は、これを機に本願寺教団の一拠点である長島を占拠して、木曽三川の流通を独占しようと考えたのだ。
弾正忠信定が長島城を占領したのは偽計を用いてのことだった。
彼は一向門徒のために何度か三河への兵糧運搬に協力しているのを利用して、人足に偽装した兵を送り込んだのだ。発案は若き嫡男・信秀というから末恐ろしいものである。
当然これに怒った伊勢の本願寺派の僧侶は織田弾正忠家に対する大規模な蜂起を呼び掛けた。
信定は気後れしたが、嫡男の信秀は自ら伊勢に入って一身田専修寺の住持・応真と結び、本願寺派に対抗した。一身田専修寺は伊勢における真宗高田派の中心で、応真は高田派教団の指導者である。高田派と本願寺派は同じ浄土真宗でも争い続けており、高田派としては当然の動きだった。
応真の決起は、下野の高田専修寺住持で教団指導者のひとり真智の要請も受けたものだった。
本願寺派によって焼かれた三河の明眼寺は真智の支持母体であり、彼は激怒していたのだ。しかし、下野では宇都宮家を中心に騒乱が相次いで自らは動けなかったため、応真に強く協力要請をしていたのである。
それゆえ、織田弾正忠家の長島進出は尋常であれば些細な不和の種に過ぎなかったかもしれないが、大騒動をもたらすことになった。
これは間違いなく織田守護代家の一家臣の分を超えた行動であり、本願寺からの文句を聞いて初めて実情を知った達勝は後に激怒することになる。
それはともかく、奉行の織田藤左衛門は主君の大和守達勝に今後のことを問いかけた。
「して、大和守様。我らはさらに攻め込むことなしに、この知立の城に籠っておってよいのですか?」
「兵を動かすにしても、松平と鈴木の双方がくたびれてからがよかろう。それに、こたびの出兵は一向門徒が尾張に入って悪事をなすのを防ぐためなれば、国境を見張るこそ本意なり。」
「それはそうですが……。まあ、さらに進みても、この知立より他に得られる城や土地もさほどありますまいし、他所の戦にわざわざ出張って兵を損ねるもおかしな話にござるか。」
松平にしろ鈴木にしろ、どちらが勝っても勝ち馬に乗るだけであれば一番損がない。織田藤左衛門がそのように思ってひとりで勝手に納得していると、使いの者が報告を述べに来た。
「松平と鈴木の戦につきまして、お報せござり申す!」
「述べるがよい。」
「鈴木家は吉良家の援軍を得て優勢に戦いてございまする。松平勢は吉良勢と我ら織田勢が味方でないと知って大いに士気を落とし、鈴木家の勢いを支えきれずに安祥城に退却し申した。」
織田達勝はそれを聞いて思案し、藤左衛門に問いかけた。
「ふうむ、松平は糧食に乏しいのだったか。」
「左様にございまする。籠城は厳しかろうと思い申す。」
「そなた、松平の兵はいかほど城に逃げ込んだのだ?」
達勝が使者に尋ねると、使者は知る限りの情報を基に推測を述べた。
「門徒はあちこちへ走り、判然としないとのこと。なれど、松平勢は元は1000はおったと聞いており申すゆえ、少なくともそのくらいはおるのではないかと。」
達勝はそれを聞いて今後の方針を決め、使者を下げさせると藤左衛門に告げた。
「門徒の逃げ散った者が尾張で野盗となっては厄介。これは我らで討ち取る――否、捕らえるべし。むやみに討っては一向衆どもが何をしでかすかわからぬゆえな。
野盗退治が済んでもなお松平が籠城しておったら、我らは松平と鈴木の間を取り持って和議を勧めるがよかろう。」
「よきお考えにござり申す。とはいえ鈴木の肩を持って戦うのにあらずして和議を執り成すならば、弾正忠殿の長島攻めは松平に与する本願寺には許せるはずはなく、障りとなりましょう。本願寺とは当家だけでも早目に和睦しておいた方がよさそうですな。」
「……弾正忠め、勝手をしよってからに。儂はそもそも本願寺と事を構えとうはなかったのだ。」
さっきのすぐで二枚舌を使う主君に対して、藤左衛門は無言で頭を下げてその前を辞すると、伊勢長島への連絡と敗残兵狩りの準備を始めた。
◇
なお、水野忠政の離縁された元妻は、元岡崎城主の松平信貞の娘だった。
この信貞は小笠原氏と西郷氏が岡崎城を制圧した際に、西郷信員に殺されていて、彼女は岡崎に戻るわけにもいかず、路頭に迷ってしまった。
わずかな御供と廃寺に逃げ込んだ彼女は盗賊の影に怯えて隠れ暮らした。近くの農民は不憫に思ってわずかばかり食い物を分けたが、戦乱の中でのことであり、それも十分ではなく、彼女らは飢えにも苦しんだ。
西郷信員は、鈴木家が聞き集めた噂から放逐された彼女の落ちぶれようを聞いて心苦しくなり、出家して「得全」という法号を名乗って、その父を殺した罪滅ぼしに彼女を探して引き取り、詫びた。
彼女は得全を大いに詰ったが、嫡男・正員は彼女のことを憐れに思って慈しみ、やがて互いに慕情が芽生え結婚した。
【史実】織田信秀は1526/7年に家督を相続して、1532年に織田達勝に反抗して軍事衝突しますが、和睦して翌年には山科言継らを迎えて蹴鞠大会をしています。一応、信秀は山科を迎えて数日のうちに達勝に連絡しに行って、達勝系の人々も合流しています。




