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戦国の鈴木さん  作者: capellini
第4章 西三河編「三河の一向宗」
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第47話 1523年「吉良」◆

 矢作川以東の一向一揆がおおよそ鎮定されたころ、大林勘助は、主君・小笠原長高の同席のうえで、鈴木重勝にいくつかの報告をしていた。


「我が主君のお方様のご実家、吉良家の調略が上首尾に運びましてござる。」

「そうであった。今川のお屋形様にそれがしから一筆書いたのだったな。そのほかは任せきりであった。仔細を聞かせてくれ。」


 長高は吉良義元の娘を妻としていた。彼女は吉良家当主・左衛門佐義堯の姉にあたる。

 この吉良義堯は西尾城・西条吉良氏の当主で、在国して荘園管理をしていた東条城・東条吉良氏とは別の流れである。西条吉良義堯は、将軍・足利義(たね)に仕えて在京していたが、足利義稙が京を逃げ出して勢威を失ったことから先ごろ下向してきていた。

 一方の東条吉良氏は、先ごろ松平信定の妹を次期当主・持広の妻に迎えており、松平を中心とする織田・水野・吉良の同盟の一角を担っていた。東条吉良氏は在地領主としての立場を確立させており、西条吉良氏の下向を鬱陶しく思っていた。


 そのため重勝は、長高の妻の縁で、せめて西条吉良氏を松平同盟から引き剥がすなどできないか、大林勘助に探らせていたのだった。


「はい。そも両吉良家は一向衆の横暴で松平家に文句を言っておったようで、一向衆を抑え込む一点においては当家との協力に前向きでおられたため、その筋から話を進めることができ申した。

 どうも東条家が手をまわして門徒を西尾側に流しており、西条吉良様は門徒の掠奪による被害に苦しんでおられたようで。

 西条吉良としては暴徒を討つことができないわけではないものの、東条が松平方なのに対して、西条は今川方にござれば、下手に敵対して松平家と東条家に攻め込まれてはひとたまりもなく、身動きが取れなくなっており申した。」


 もともとは浜松・引馬の戦いで今川家と西条吉良家は一戦交えた間柄だった。

 浜松は、今川氏親が攻め獲るまでは、尾張斯波方の西条吉良家の所領であり、今川に対して蜂起した頭目の大河内氏も元は吉良家の被官だった。

 しかし、浜松は完全に失われて回復も望めない状況であったため、下向した吉良義堯は浜松奪還を諦め、すぐに今川との和睦を目指した。その結果が、吉良義堯と今川氏親の娘との結婚だった。

 今川も今川で、吉良は今川の本家筋で家格として上位にあり、実力は逆転していても滅ぼすのは外聞が悪いため、婚姻から進んでいずれは穏便に家臣化してしまおうと考えたのである。


 つまり、西条吉良家は親今川であり、同じく親今川の鈴木家を主敵とする松平・織田・水野・東条吉良の同盟にとっては、敵対勢力だった。

 義堯が在国した当初は、西条吉良家を囲む東条吉良家・松平家・水野家は同盟しておらず、彼は今川家の力を借りて東条吉良家と戦おうと思っていた。

 しかし、西三河情勢が混乱してくると、西条吉良家は完全に敵対勢力に囲まれて孤立してしまい、その状況ではもはや独立の維持すら困難であり、かといってただの国人の松平家や鈴木家に服属するのも名門の矜持として受け容れられず、再び在京することも考え始めていたのだ。


「東条吉良様は、西条吉良家が敵方の今川と結んでおることを口実に攻めようとしており申したが、本家筋を力で滅ぼすのも外聞が悪く、今川様の勘気をこうむってしまっても厄介であり、門徒をけしかけて困窮したところを呑み込むつもりだったようでござりまする。」


 結局のところ、西条吉良家は東条吉良家にも今川家にも邪魔な存在であり、どう転んでもろくな未来がないことは明らかだった。

 大林は西条吉良家にこのような状況を説明して、三河以外の地に移ることこそがお家にとって一番良いことであると説いたのだった。


「このままでは西条の吉良様はどうあっても滅ぼされてしまうように思われましたゆえ、ご動座いただきますようお願い申し上げました。」

「それで今川様に引き取っていただくよう、それがしから文を出すのが必要だったというわけか。」

「左様にございまする。吉良様は京に戻ることを諦めきれずになかなか説得に難儀し申したが、思いの外、今川様が吉良様に熱心にお呼びかけくださりまして、駿府で高家(こうけ)としておもてなしいただくことになり申した。」


 今川家が吉良義堯の招致に協力的だったのは、本家筋を保護して手元に置いてしまえば、いくら吉良家が礼法上は上位にあるとしても、いかようにも操ることができるという打算があったからだ。


 とはいえ本当は、なによりも氏親の甲斐攻めがうまくいかなかったことが背景にあった。

 今川方の福島左衛門尉助春は大永元 (1521)年から甲斐国河内を領する穴山信風のもとにとどまって2年以上粘っていた。その間に、武田信直(信虎)の猛将・原虎胤によって福島家の武将が多数討ち取られるなど苦戦を強いられたが、このままいけば、穴山家は今川家に従属する形で和睦に至るだろうと思われていた。


 しかしその矢先に突如、今川氏親が卒中で倒れてしまった。

 その結果、福島の軍勢は撤退せざるを得ず、穴山はかなりの勢力を保っていたが、結局は武田と和睦して従属した。

 福島勢が撤兵したのは、当主の氏親が病に臥せっている中で家臣や国衆に配るべき十分な土地も確保できていない現状では、内乱や武田の逆侵攻の可能性があったからだ。

 実際、2年にも及ぶ軍役に家中では不満の声が大きくなってきており、その上で恩賞を十分に配れないとなれば、福島の軍勢はそうした不満の声を封じるのに必要だったのだ。


 ここで厄介なのは、三河の鈴木家だった。

 氏親は、鈴木重勝の忠義を試すつもりで、値切られることを前提に大量の物資の供出を命じたが、なぜか従順な重勝は馬鹿正直に引き受けてしまったのだ。

 おかげで福島勢は甲斐に長く駐留して準備を重ねることができており、将がいくらか戦死しても、増援の到着まで持ちこたえることができたが、つまりは、三河鈴木家は一国人にしては破格の貢献をしてしまったわけである。


 その功に報いるものが用意できそうもない駿府の今川首脳部は、「もし三河が蜂起すれば、今川の支配に服して日が浅い西遠江の国衆もそれに連合するだろうから、厄介なことになる」と考えた。それゆえ、懐の痛まない厚意を返すことで、鈴木家の歓心を買っておこうという算段をしていたのだ。

 しかしそれでいて一揆鎮定に協力しようとしないあたりには、彼らの間に蔓延る根本的な三河鈴木家への隔意や、利用するだけしてやろうという内心が透けて見えるのだった。


「でかした。実にうまくやったな。」


 小笠原長高が口を挟んだ。

 信濃守護家の名門である小笠原としては思うところがないではなかったが、名門がそれぞれの立場を尊重して流血沙汰なしに落ち着くところに落ち着いたように見えるため、満足だった。


「ありがたきお言葉にございまする。それから大浜の称名寺に松平の前当主、いや前々当主にござるか、太雲入道殿がおり、今川様がその身柄を欲しがりましたゆえ、ついでに駿府に送っておき申した。」


 信定の前の当主を清孝(清定)とすれば前々当主となる松平信忠は、出家して太雲を名乗り、知多半島の付け根の大浜で隠居していた。

 大林勘助はそれを知って何かの切り札になるかもしれないと、その身柄を確保したのであるが、吉良とのやり取りで松平信忠のことを知った今川家は、義堯とともに信忠をも駿府に送るよう求めてきた。松平の元当主を手元に置いておけば、今後の三河介入に役に立つと考えたからだ。

 重勝は今川の思惑が透けて見えることからやや警戒心を覚えた。

 とはいえ、大林がこの要請に従ったのは、重勝が今川家との関係を重視しているのに歩調を合わせたからであるし、三河に信忠がとどまっているのもそれはそれで問題の種になりそうであるから、よしとせざるを得なかった。


「東条様は太雲殿(信忠)の移送について松平に黙っておくとのことで、かのお家は松平とは手切れと見ても良いかと。」


 東条吉良家は労せず西条吉良家の所領を獲得できて不満の種がなくなったため、一向門徒を三河に引き込んで迷惑をまき散らしている松平家にこれ以上協力する旨味がなくなり、一気に松平家から心理的な距離が開いた。

 また、東条吉良家は矢作川の東側にあり、周囲が鈴木家の下にまとまりつつあることを受けて、また、その際に気がふれたように鈴木重勝が門徒を虐殺して回ったことに恐怖を覚え、敵対しないよう振る舞ったのだ。


「うむ、実によくやってくれた。働きに感謝する。ご主君の右馬助殿より何かあるやもしれぬが、ここは当家より小笠原家のお働きとして後ほど評定にて右馬助殿に礼物を送りたく思う。」

「かたじけない。」


 重勝は大林の功に報いるうえで、彼の直接の主君である小笠原長高(右馬助)の顔を立てるように配慮した。そのため、長高は二重の意味で礼を言った。


「さて、他には何かあるか?」

「西の鈴木家より使者の訪れがあり申した。」

「一向衆相手に忙しなかった中であろうか。もてなしできず、すまなんだ。」

「それについては先方も承知ゆえ、当家でもてなしておいたぞ。」


 長高が「任せておけ」という口ぶりで言った。


「助かり申した。して、西の様子は。」


 大林が報告したところをまとめると、矢作川以西は次のような情勢だった。

 松平領内には教団の支配を受け容れない他宗門の者らはもはや残っていないため、他宗門狩りはなくなっていたが、代わりに教団内での「内通者狩り」が横行していた。

 つまり、川の向こうの惨状を聞いて怖気づいた者を「内通者」としてつるし上げ、その財産や生命を脅かし、その他の門徒たちを督戦したのだった。


 長島願証寺の実恵や三河本證寺の源正らが指導する軍勢は6000ほどで、西三河鈴木家は果敢に上野上村城を攻めていたが、兵の質はともかく数に圧されて城外の野戦が長引き、疲弊して撤退するのを繰り返していた。

 西の鈴木家にとって辛いのは、明らかに自軍より敵軍の方が損害が大きいのに、数日もするとすっかり元の数に戻ってしまっているように見えることだった。

 東の鈴木家からは伊庭貞説に500の兵をつけて援軍として送ってあったが、死傷は少なくとも疲弊して大変だということだった。


「時間をかけて少しずつ兵数を削るは無理か。」

「そのようにて。」

「さすれば、決戦にて一気に除くほかないな。」


 重勝の問いに大林が答え、長高が結論を述べた。

 重勝はついに軍勢同士の正面衝突を覚悟した。

【史実】今川の甲斐攻めは1521年に大将の福島助春が戦死して失敗しています。本作では優勢に戦っていた中での撤退となり、未練は大きそうです。


【史実】1530年代に東条持広は西条吉良義郷の弟・義安を養子にし、持広が死ぬと義安は織田家を呼び込んで今川家と争って負けます。今川方の西条家では義郷が死んで末弟・義昭が跡を継いでおり、今川義元の命令で1549年に義昭のもと東西吉良氏は統一され今川家に臣従します。

 徳川家康が今川に反抗して優勢になると義昭は滅ぼされ、義安が復権して徳川家に臣従しました。

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[一言] 誤った誤字報告をしてしまいました。誠に申し訳ございません
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