第46話 1523年「検断」
「本願寺の宗主様より、お叱りのお便りござったわ。」
重勝は後ろめたさを隠すように書状をひらひらさせながら言った。
本願寺の宗主・実如から、その四男・実円を処刑したことを強く非難する文が届いたのだった。
それを聞いて、諸将を代表して鳥居源右衛門が問うた。
「それでいかがなさるので?大方『これ以上の狼藉はやめよ』などと書いてあると思い申すが。」
「そんなところよ。あとは実円殿のことだ。真宗は妻を娶り子をなすもよしとされておるゆえ、『坊主とはいえ我らと変わらぬな』と思わされる心のこもった文であった。隠れてどころか大っぴらに女色にふける坊主はどの宗門でも当たり前におるのだがな。
……まあ、丁寧に返事しておくことにする。」
重勝は苦笑して軽口をたたいたが、内心には実円の処刑も矢作川以東の門徒の虐殺も失敗だったという後悔の念が渦巻いていた。
本願寺教団との仲が悪化して彼らが本気で増援を決定すれば自家の存続すら危ういということに、実如からの手紙を受け取った今になってようやく気付き、ぞっとしたのである。
いまのところ矢作川以西では、小笠原水軍の妨害が功を奏して物資不足から兵の動員に歯止めがかかっており、松平領内からも他国からも門徒が参集する様子はあまり見られない。
しかし、松平領の門徒の人口は老若男女を問わなければ幾万を数えるだろうから、もし彼ら全員が蜂起すれば厳しいどころではなく、そのうえ教団が本腰を入れて介入するとなれば破滅しかない。
恐ろしい未来を幻視して、重勝は物理的に頭を振って無理やり気を取り直し、矢作川以東の仕置について述べた。
「門徒たちはだいぶ大人しくなったな。降伏を認めてよかった。そなたたちの助言のおかげだ。」
「矢作のこちら側だけでもなんとかなって一安心でございまする。」
鳥居源右衛門は心からそう思っていた。
ここのところ一向門徒鎮圧のために尽力してきた重勝は、心労で目に見えて調子が悪そうになってきていた。そのため、見かねた諸将は門徒の降伏を受け容れるよう助言し、重勝もそれを認めたのだった。
一向門徒は、重勝の執拗な焼き討ちを目の当たりにして「絶対に降伏が認められない」と思って徹底抗戦していたが、すでに心はすっかり折れており、「降伏が許されるならば」と雪崩を打って服従を申し出てきた。
「しかし、どうもやつらは心得違いをしておるようだ。普通に降伏すればよいものを、坊主どもを打擲するなど狼藉が行われておると聞く。」
多くの者が改宗を申し出たが、重勝は「宗門の自由は認められている。正しき真宗教徒として生きよ」と通達し、改宗は降伏の条件にはならないとした。
しかし、門徒は「改宗だけでは降伏は認められない」と勘違いをして「正しい真宗教徒であること」を証明しなければならないと焦った。
どうしたらいいかと考えた末、彼らは各地に隠れ潜む門徒連中を密告したり、降伏の証として僧侶を引きずり出して私刑に処したりするようになった。
しかし、他にもやるべきことが山積みの重勝は「あさまし」と言ったきり放置して、大きな被害をこうむった自軍勢を再編成し、一部は東三河に帰して休ませるなどしていた。
ここまでの延べ動員兵力は自領から5000、西の鈴木家やその他の諸家の軍が3000を超えており、死傷者はそれぞれ600と200を数えた。
次こそ松平家や一向宗勢力を三河から叩き出すならば、少なくとも今回と同じくらいの軍事行動ができるように万全の準備が必要だったのだ。
そうこうするうちに、門徒の狼藉にたまりかねた真宗の僧侶たちは、むしろ鈴木家に直接詫びを入れた方が助かると考えて、岡崎城や坂崎城に押しかけて保護を頼み込んできていた。
彼らはボロボロの装いで、「宗門の自由なる約束を反故にするというのか!」「これよりはさらに信心を篤くし人心を安んじるよう努めるゆえ、我らを守りたまえ!」などと主張しているという。
その憐れな様を見かねて、本願寺派でない浄土真宗の僧侶たち、特に岡崎から少し東に行ったところにある真宗高田派の満性寺からは、重勝に対して怒りを鎮めるよう嘆願もあった。
「門徒の乱暴が過ぎるとはいえ、一向宗の坊主どもが当家に保護を求めてくるというのは、いったいどういう了見なのであろうか。当家をさんざん苦しめておいてどの口が言うのか理解できぬ。」
「まあまあ、殿。満性寺の者らからも『助けてやってくれ』と口添えが来ており申すゆえ、なにとぞ寛大に。」
「寛大にと言うても、降伏した者らに沙汰は下さねばならぬし、甘さは見せられぬ。ともかく満性寺にて門徒・僧どもの検断をいたそう。全ての坊主と主だった門徒の頭を集め、手配せよ。」
◇
検断とは裁判・処罰のことである。重勝がこのような状況において検断を実施するというので、門徒たちは満性寺の周りに続々と集まってきた。この者たちは完全武装の1000の兵に見張られて極度の緊張状態にあった。
いよいよ門徒の頭目たちと保護されていた僧侶たちは寺の敷地内に招き入れられ、重勝が護衛の兵に囲まれて現れると、平伏して沙汰を待った。
この護衛の兵たちは、小弓衆から改組された者たちだった。
これまで偵察や使番などの仕事を担当してきた小弓衆は、同じような役目を得意とする伊庭貞説の一党に吸収され、重勝らの身辺警護も担うようになっていた。貞説自身はいまは西の鈴木家の援軍として上野上村城攻略に参加しているが、彼がおらずとも護衛たちに抜かりはなかった。
改組に当たって小弓衆の頭目である平七と平八の兄弟は、重勝の最初の知行地「阿寺」を苗字として与えられ、兄貴分の鈴木重勝・鳥居忠吉・鷹見久政から1字ずつ取って、阿寺平七郎勝吉、平八郎勝政と名を改めた。
また、兄弟は「仲間と苗字を分け合いたい」と願い出たため、この護衛たちは「阿寺衆」と呼ばれている。
「これよりまずは在俗の門徒について沙汰を申し渡す。
以前に我は『一向門徒が死後にしか目を向けず、現世を軽んじて厄災をまき散らしておる』と述べた。今も我はその思いを変えてはおらぬが、とはいえ領内にては宗門の自由は揺るがぬ掟なり。ゆえにその方らは改宗の必要はない。
しかし、その方らの降伏を受け容れることは、そのまま罪を許すということにあらず、いわば停戦の合意にすぎぬ。つまり、その方らは罪を償わねばならない。」
重勝のこの発言で門徒たちの緊張は一気に高まり、空気は張り詰めた。
「そはいかなる罪か。すでに鈴木家より村々には宗門の自由の代わりに当家の検断権に服するよう触れを出しておった。それを知って武器をとったは反逆の罪、本願寺教団なる他国の大名に通ずるは内通の罪。その罰は族滅以外にない。
とはいえ、それはあまりに無体。降伏の意を汲んで、門徒は乱の前から本願寺なる他国大名の民であったとし、反逆・内通の罪を免じ、殺人・強盗・強姦・乱暴の罪にて裁くべきなり。
されど、もはや何者がどの罪を犯したか証を立てることはできぬゆえ、おしなべて男は労役5年、女子供老人は労役2年の刑を申し渡す。また、他領の者が抗戦した後に降伏したとみなし、全ての財を没収する。ただし、親族の財にて労役を買い請け減刑するは可能である。」
この沙汰を聞いた境内の門徒の頭目たちは、処罰が思いの外穏当であることに安堵し、中には一気に緊張が解けて平伏したまま気絶する者もいた。
また、門徒の沙汰が重くないことに気を良くした本願寺教団の僧侶たちは、「この程度の処罰ならば教団に銭を出させれば身請けしてもらえるだろう」と、緩んだ空気を出し始めた。
重勝は続けて僧侶に対する沙汰を告げた。
「次に僧侶の処罰を申し渡す。
一向宗は親鸞上人の浄土真宗とは似て非なるものなり。また、おぬしらは、『人を殺さず物を盗まず』など『五戒』のひとつふたつでも人々に説いておったならまだしも、かえって騒乱を唆しておった。そは仏僧のあるべき姿から離れて著しい。ゆえに、一向宗の僧は仏僧にあらずして他国大名・本願寺の武将として処断する。
降伏した武将の処断は村の掟に拠らず、鈴木家当主の判断ひとつに拠るべし。この一向宗の諸将は家臣・領民たる門徒に三河での乱暴狼藉を唆して当家領内を荒廃させた。ゆえに尋常の武将を遇するとは異なり、罪多き者に対すると同じく斬首が相当である――」
「おのれぃ!!この仏敵めがぁああ!!!」
「――これは宗門の自由とは別の話にて、道理の領分なり。」
重勝が沙汰を申し伝える間に、我慢しきれなくなって、いくらかの僧侶が起き上がって重勝の首を狙って最後の抵抗を試みた。
しかし、護衛の兵が討ち取るまでもなく、周囲の門徒が群がって押さえつけた。変な姿勢で数人にのしかかられた僧侶は、背骨や首の骨が折れて死ぬか、窒息して死んだ。
在俗の門徒からすれば、せっかく温情ある沙汰が下ったのに、余計なことをして連座で処罰されたくなかったのだ。
その後、沙汰を伝えられた寺の外の一般門徒たちは安堵して喜び、そろって念仏を唱え始めた。
鈴木家の兵は、念仏を唱えることに集中して足元も定まらない者らを、決められたとおりに収容先の廃村に振り分け、鈴木家の奉行たちは労役集団を使役して各地で荒れ果てた土地の再開発を進めた。
重勝は実如に宛てた返書において、今回の処罰の正当性を淡々と主張する一方で、実円の死については、父子の間柄にある実如の怒りを受け止め、詫びの言葉を綴った。そして、実円の亡骸も丁重に清めて化粧を施し、絹の布で包んで安祥城に返書とともに送り届けた。




