第45話 1523年「物の怪の宗門」
「なんということか。」
「面目次第もございませぬ。」
坂崎城の救援に駆け付けた鈴木重勝は、近藤乗直のボロボロの亡骸を前にかすれた声で嘆いた。
鳥居源右衛門が代表して答えたが、彼としてもこの現状は不本意だった。
長篠下野守と近藤乗直はそれぞれ兵を率いて矢作川以東の一向宗の村に降伏を呼び掛けたが、長篠隊は村に近づくなり決死の農民兵らに襲われて、意表を突かれたためそのまま逃げ帰った。
一方の近藤隊は悲惨だった。彼らは長篠隊とは別の村に入り、その村の長老に降伏を求める交渉をしていたが、その最中に近くから来た門徒の軍勢に背後を襲われた。
近藤とその供の者たちは、敵を迎え撃つべく長老の家を慌てて出ようとしたところ、背後からたった今まで交渉していた老人とその仲間に殴られたり斬りつけられたりして、殺されてしまったのである。
この変事を知らされた鳥居は、坂崎城を守っていた四番隊の松平信長・板倉頼重の主従に出動を要請し、四番隊は一・三番隊の生き残りを救出した。
彼らは勢いに乗った門徒衆に追いかけられて坂崎城に逃げ帰り、続々と集まって1000を超えた門徒に城を包囲されてしまった。
坂崎城は天野氏の居城だった頃よりも防備を強化されており、籠って守るだけならば、貧弱な武装しかない門徒兵を相手に当分は戦えるに違いなかった。
しかし、重勝は、酒井氏救出の遠征から帰った直後で気が立っていたのもあり、矢作川以東の情勢急変を聞いて過度に焦り、後先考えずに急いで岡崎の軍勢を南下させた。そして、自ら坂崎城を包囲する門徒と交戦し、犠牲をいとわぬ猛攻で100余りを討ち取って敵の戦列を崩壊させた。
彼は集まった諸将に次のように言い聞かせた。
「一向門徒を同じ人と思うてはならぬぞ。いや、そうではないな。思い浮かべるべきは、追い詰められて死を覚悟した武者の最期よ。やつばらの有様は、それが最期ではなく、最初からそうなのだ。つまりはすこぶる強兵ということだ。武技や武装ではなく、心のありようが恐ろしいのである。
それだけではなく、一人見つけてすぐさま滅ぼさねば、続々と集まりて、やがてその群れに押しつぶされておのれが死ぬことになろう。」
重勝がこのように訓示すると、すでに彼らの薄気味悪さを身を以て体感している松平からの転向組は「全くその通り」とばかりに大きく頷いた。今回のしくじりでそのことをよく理解した東三河勢も大いに気を引き締めた。
重勝は続けてすべての将兵らに向けて大音声で問いかけた。
「『念仏はすでに定まりし極楽行きへの感謝』というのは、信じる者にあってはそうなのであろう。されど、身を慎みもせず、善なるを第一とすることもない者の口からただ出てくるだけの感謝には、はたして実はあるのか?すでに往生が定まるからといって、現世の悪事は些事にして忌むべきものにあらずというのか?
宗門は、はかなく無常なる現世において、それを憂う者の心を救い、日々を生きる道標を与えんとするものなれば、死後の世界に囚われて自らその苦しき現世に災いをまき散らすは本末転倒なり。
『教団のため』を掲げて現世の悪事を敢えてなすなど以ての外にて、かくのごとく死に搦めとられて現世に厄を振りまくは、もはや物の怪の類なり。」
門徒の現世での有様を「物の怪」と表現することは、人々の間で共感をもって受け止められた。一向門徒の信仰心に漠然とした忌避感を覚えていた人々は、「物の怪」という言葉で自らの感覚に輪郭を与え、思いを端的に述べるようになった。
◇
重勝は酒井氏と坂崎城を救援した勢いのまま、本宗寺を焼き討ちした。寺に詰めていた兵をほとんど滅ぼし、周囲に潜んでいた門徒兵も追い散らし、そして住持・実円を捕えた。
重勝は、実円を解放する代わりに、彼から門徒に呼びかけて武装蜂起をやめさせるよう頼んだが、実円は頑なに拒否したため、呆れて処刑してしまった。
しかしこれは悪手だった。というのも、その後、矢作川以東での門徒の活動は沈静化するどころかかえって活発になっていったからだ。しかも、彼らは無秩序に村を襲うため、防御もしにくかったのだ。
「川のこちら側でも門徒の動きがさらに盛んになっておるとな?すでに本宗寺は滅ぼしたゆえ、やつらの拠り所も指導する者もおらぬであろう。なぜ降らぬのだ?いま降れば扱いは考慮すると伝えておるであろうな。」
「はい、そのように呼びかけておりまする。されども村を襲うのをやめぬのでございまする。」
重勝の困惑に、答える鳥居源右衛門も困惑で返した。
そこへ慌てた様子の使者が来て、鳥居伊賀守の伝言を伝えた。
「伊賀守様よりご伝言!捕らえた真宗の僧を問い詰め、ようやく口を割らせたところ、実円殿は西三河の一揆に与しておられなかったとの由!」
「な、なんと!では、本宗寺に兵が集まっておったのは何だったのだ!なぜ実円は『蜂起をやめるよう門徒を宥めよ』と言っても断ったのだ!」
「口を割らせた僧は本宗寺におったわけではないため、何とも要領を得ませぬが、伊賀守殿のおっしゃるところでは、『門徒が実円殿に決起を促していたのでは』とのことにございまする。実円殿の末期の思いにつきては実円殿のみぞ知るということでございましょうか……。」
「……。」
重勝は絶句して言葉が出なかった。
本宗寺の実円は実如の四男で、父の教えに忠実だった。
彼は普段は山科の本願寺にいたが、今は三河の門徒の指導のために下向してきていた。
三河に入ってからは、父が永正年間に発した命令を守って、蓮淳が許しているような過度な暴力行使や武家との不必要な対立には反対し、農民の無秩序な蜂起を抑制していた。
過激化する門徒の暴発はしばしばおこるものの、鈴木家との決定的な衝突はギリギリで回避されていた。矢作川以東で兵の集まりが悪く、西側とも連携が取れていないように見えたのも、実円が配下の門徒を何とか統制しようと頑張っていたからだった。
しかし、西側の熱気が伝わって実円でも門徒の抑制ができなくなってきたころ、鈴木家は兵を起こして村々を説得に行かせてしまった。
その行動は、事情をよく知らない各村に住む門徒たちには、村を襲撃しに来たようにしか見えず、ついに矢作川以東の門徒は蜂起したのだった。
重勝は、他国のように一揆が拡大することを警戒して早期鎮圧のために動いていた。しかし、矢作川以西に注力するためにも、まずは東側を安定して支配下に置きたいという気持ちが先走り、教団内部の意見対立や、実円がどのような思惑で行動しているかは把握できていなかった。
実円は実円で、門徒が近藤を討ち取り、坂崎を襲ったというのを聞いて、決定的に鈴木家と対立してしまったことを悔やんでいた。
しかしこうなっては、伊勢から来た者たちは勝手にやってもらうとしても、三河の教団を守るために、門徒には決死で戦ってもらわねばならないため、門徒を宥めて退かせるという重勝の要請を拒み続けたのだった。
◇
統制を失った矢作川以東の門徒は無秩序に村々を略奪するようになり、三隊の騎馬隊が賊の出るたびに出動してその鎮圧に向かった。これらを率いるのは、小笠原長高とその弟子・熊谷次郎左衛門直安、そして長高の家臣で真宗から浄土宗に改宗して忠誠を示した柴田政忠だった。
重勝は、熊谷直安にはまっとうな戦をする武者になってほしかったため、このような穢れのたまる不浄の戦いに参加させるのをよしとしなかった。
「次郎左衛門、そなたにはこたびの戦に深入りしてほしくないのであるが……。」
「殿、そのようなことはおっしゃいますな。戦のすべてが誉れ高きものなどとは思うておりませぬ。それがしとて武士の端くれ。お家のため、勝たねばならぬならば何をもいたしましょう。」
おのれの所業を振り返ってみれば、直安に再考を促しうるような言葉を全く持ち合わせていない重勝は、説得を諦めた。そして、直安を小笠原長高につけて、長高とその軍師・大林勘助の助言に従って、くれぐれも無茶をしないよう言い含めた。
騎馬隊はよく働いたが、しかし誰に指図されるでもなくあちこちで蜂起する門徒たちは神出鬼没で、乱は一向に収まる気配がなかった。
そうこうするうちに、高田派の明眼寺が焼かれたと聞いて憤慨した高田派の一向門徒が武装して蜂起し、自衛し始めた。
にわかに宗教戦争じみてきた様相に、重勝は、しかしながら味方を得て頼もしさを覚えるどころか、むしろ恐怖と焦燥を強めた。
松平家が統制に失敗して門徒が暴走するのを間近で見ており、いくら味方が増えるとはいっても鈴木家の支配地域で一向宗が力を増すのを危険視したからだ。
「味方が増えるのはありがたいが、この三河で本願寺と高田専修寺の争いをやられても困る……。」
「さすればなんとか満性寺の和尚に頼んで、門徒に落ち着くよう呼びかけてもらいましょう。」
「うむ、頼む。戦うのはあくまで鈴木家であることを示さねば、あとで厄介なことになりかねぬでな。」
真宗教徒である鳥居源右衛門の必死の説得で、満性寺の監督する門徒たちは鈴木家の指揮権に服するように手配できた。「これでは本願寺と同じでござるぞ!」という文句が効いたようだった。
彼らは鈴木家が宗門の自由を認めて真宗の者も保護したことに「正道」を見ていた。それに従う自らは「正道」陣営であり、「邪宗門たる本願寺派を三河から駆逐する正義の戦に参加するのだ!」という自己理解である。この「聖戦」に参加することで極楽往生に対する感謝を示そうというのだ。
それでも勝手に武装して蜂起する者は後を絶たず、そうした者たちは村同士で抗争を始めていた。
彼らは宗門を理由に蜂起したが、その実、前々からの土地境や水利、共有地などをめぐる争いを続けているだけだった。時には富農の倉を暴くだけということもあった。
重勝は、こうした者らを宗門に関係なく「鈴木家の法に反した無法者」と宣告し、検断権を行使するという名目で、反抗しているか否かを問わず、武装した門徒を滅ぼし、彼らがよって立つ村々を焼いて回った。
時には村まるごとを焼き払うこともあり、人気のなくなった村で穴の中のむくろが燃えていくのを無表情に見つめている重勝の不気味な立ち姿を、将兵は遠巻きに見ながらめいめい念仏、真言、経文などを唱えた。
満性寺からは、常軌を逸した重勝の振る舞いに対し、刺激しないようやんわりと苦情を入れた。
「鈴木様、これでは高田派門徒まで巻き込まれておりますれば、いささかやりすぎではないかと……。」
「しかしこれはあくまで無法者の処罰なり。先に告げた掟に照らせば、高田派門徒とて悪事は認められぬ。本人が贖わぬならば、満性寺が賠償せねばならないが、いかがせん。」
そう言われては、「正道」に従っていると自負している高田派としては、重勝の主張に道理を認めざるを得ず、少々の門徒を守るために鈴木家からの敵意を買うのは損であると判断して、門徒に大人しくするよう呼びかけるにとどめた。
高田派の門徒が次第に落ち着きを見せると、重勝による暴徒の駆除は専ら本願寺派の門徒に限られるようになり、ますます高田派は静かになった。触らぬ神に祟りなしである。
重勝は一向宗の対処に失敗したのを非常に後悔しており、こうなっては門徒が音を上げるまで恐怖と苦痛を与え続けるしかないと思いつめていた。そのため、降伏を呼び掛けるのもそこそこに、自ら率先して諸将の嫌がる殲滅戦に身を捧げた。それはあたかも自己を罰するかのようだった。
一方、実円を失った門徒にも代表と呼べる者がいなくなり、鈴木家とまともな交渉ができなくなっていた。もうとっくに村を焼かれる恐怖に門徒たちの心は塗りつぶされていたが、降伏を総意として取りまとめて申し出ることのできる者がいなかったのである。
一向宗に対して、恐怖ともいうべき強烈な感情に支配された重勝は、矢作以西の門徒にも厳しく対応した。西三河に寄せてくる船団を執拗に襲わせ、兵糧攻めを徹底したのである。
しかしそれも必ずしもよい手立てではなかったかもしれない。確かに矢作川以西の門徒勢は物資不足に苦しんでいたが、そのせいで彼らはますます盛んに掠奪するようになったからだ。
西三河では鈴木重直が中心となって略奪に来た門徒を滅ぼして敵の数を減らしつつ、上野上村城の攻略の隙をうかがっていた。重勝の側からは1000の兵を援軍として送っていたが、門徒の数の多さゆえになかなか成果は上がっていなかった。
そうこうするうちに、いくら屠ってもなお勢力の衰えない一向衆の様子を聞いて、東三河で守備に就いていた伊庭貞説とその家臣・九里浄椿は、兵を率いて岡崎に駆け付けた。
この援軍の派遣は、後備の全権を委任されていた鳥居伊賀守・熊谷備中守・鷹見修理亮が話し合って決めたもので、徴兵も物資補給も彼らが手配したものである。
「増援を絶つ。」
「東三河勢1000が着陣いたしましたぞ。鈴木のご当主殿、我らが参ったからには万事解決にござる。ご安心召されよ。何といっても、我が殿はそのすぐれた頭脳を以て東三河の国人連中を遍く味方につけ、それどころか近隣の――」
伊庭は西三河の異常事態を東三河や近隣の国人たちに伝えて広く共闘を呼び掛け、彼らから援軍を得ることに成功していた。
ただし、戸田氏(曹洞宗)は、引馬攻めの頃に今川家に攻撃を受けて関係が悪化しており、今川方の鈴木家に協力するのを渋った。
むしろ戸田氏との差を見せつけようと牧野氏(曹洞宗)は兵を送ってきた。領民の引き抜きなどでしこりはあるものの、同じ今川方で戸田氏と対抗する間柄の牧野氏は、「三河が一向宗の国になるかどうかの瀬戸際である」という九里の弁舌に惑わされて合同出兵に同意した。鷹見修理亮が舅の牧野成種を動かして今橋城の牧野信成を説得したのも大きかった。
他にも、付き合いのある鵜殿氏(法華宗)や遠江の奥山氏(臨済宗)、信濃の下条氏(臨済宗)らが兵を送って寄越した。
彼らは矢作川沿いに布陣し、次から次へと川の向こうから渡河してくる門徒を見張って討ち取る警備任務を引き受けた。
酒井氏討伐の熱が冷めやらぬ矢作川以西の門徒たちは、一部が暴走して徒党を組んで川を越えて東側に攻め寄せてきていたが、次第に統制が回復されると、その数は減っていった。




