第44話 1523年「本宗寺」
「鈴木殿は少し血に酔っておられたように見えまするが。」
「ううむ、怖気づくよりはよいとしても、気がかりではある。」
酒井氏救出の帰り道、結果的に一隊の中心人物となった宇津忠茂は、実質の大将として一団を先導した小笠原長高の側に馬を寄せ、余人に聞こえないようこそこそと言った。
長高も心当たりがあり、続けて言った。
「己が欲のために人を切り殺すような性質ではなかろうが、とはいえ松平が宇利を攻めた際には、手負いの者だろうが寸分のためらいもなく切って捨てたそうだ。そして、その面は心の波立つさまをいささかも映し出さずと聞く。」
「ふうむ、……とはいえ、ここぞという場において肝の据わりたるは頼もしきかな。」
近くの武者たちには聞こえていないだろうが、宇津は安祥で告げ口が横行して辟易していたことから、周囲の耳を気にして、重勝を褒めるようなことを言って話を切り上げた。
しかし、宇津の懸念は的外れではなかった。
重勝は夢の中の世知辛い未来の世界で一生を過ごした後に、無常な戦国の世に戻ってきたため、心には両方の価値観が併存していて、その人格は複雑で不安定な構造を持っていた。
生まれてから年齢とともに育ってきた若い感情と、夢で見た一生分の経験に根差した理性は、しばしば彼の中で対立し、精神に負担をかけた。
普通に物事を考えるだけで、夢の中で知った常識や感性が無自覚に判断基準となってしまうし、生まれながらの感情が拒否していても理性でそれを押さえつけ、「やるべきこと」を実行してしまうのだ。
夢での一生は重勝には他人事であったが、彼の脳にはその記憶が確かに刻まれており、人並みに成長していく精神に影響を及ぼしていたのである。
昔から近くにいた小弓衆・鳥居父子・鷹見修理亮らは、重勝のそうした厄介な部分も幸いなことに主君の個性として受け入れてくれていたが、新参者や重勝をよく知らない者には、彼の人柄はいまいち掴み切れないものだった。
◇
岡崎に帰った重勝は、人殺しの感触が手に残っていて青白い顔で息を切らせていたが、安堵もしていた。戦場ではすっかり我を忘れて手勢の損耗を把握していなかったが、帰って来てみるとけが人だけで脱落者はいなかったからだ。孤立せず下馬もしないで戦ったおかげである。
「討たれた者もなしに酒井のお稚児殿を救うことができた。それのみならず、帰りしなに明眼寺にて宗誉殿のお骨を取り戻すこともできた。これでかの入道を正しく弔い少しでも無念を晴らすことができよう。」
「いかにもその通りにござる。心よりこたびの加勢に感謝いたし申す。このご恩に報いるべく、それがしはこれよりは長門殿、いや殿の御為に戦働きいたしたく存ずる。」
どうも感激屋らしい青山徳三郎がこう宣言して涙ながらに臣従を誓うと、酒井氏救出隊の面々は感化されて続々と鈴木家への臣従を申し出た。鈴木家中の者らも遺恨なく彼らを受け容れた。
裏事情を知る重勝は「これでは悪人が被害者に感謝され、そのうえ友になるようなものだ」と複雑な気持ちを抱えており、「ああ、その、貴殿らがそれがしに心を寄せてくれるのは、まことにありがたく……、いや、この上なくありがたきこと。感謝する。」と歯切れ悪く答えた。
重勝は気まずさを吹き飛ばすべく、そしてなによりも、門徒の勢いを目の当たりにして恐怖のような感情に囚われていたため、急いで次の手を打つことにした。
「一向宗との戦はこれにて終わりにあらず、むしろこれより始まる。ひとまずは矢作川のこちら側から凶賊どもを駆逐せん。次なる敵は本宗寺ぞ!」
◇
本宗寺は、酒井家の騒動の前からすでに鈴木家の軍勢に圧迫されていた。東海道を西進してきた増援部隊が坂崎城に集まって、矢作川以東の鎮撫に動いていたのだった。
この寺は真宗本願寺派の重要な拠点で、本願寺教団を一大勢力に育て上げた蓮如によって建立された。今の教団宗主である実如の四男・実円が詰めており、矢作川以東の門徒をまとめ上げていた。
寺は西側を川によって守られた丘の上にあり、壁と土塁で砦に匹敵する防御力を持っていた。
敷地内には300人の門徒が詰めており、あたりには入りきらなかった武装した門徒が隠れ潜んでいたり、村々に集まって軍勢を組織したりしている。
矢作川以東の門徒の3分の1は鈴木家の支配を受け容れていたが、3分の2は拒否して本宗寺を担いで反抗しており、近頃は川向かいの教団と門徒連中の過激な様子にあてられて、矢作以東も落ち着きがなくなっていた。
そのことに危機感を強めた重勝は、今のところは矢作川の東と西で連携が取れていない様子を見て、今のうちに川の東側を鎮圧したいと考えて、将兵に命令を出した。
「寺のみならず村々も焼き討ちせよとは、いかに殿の命といえども、いささか……。」
一番隊を任されている菅沼氏の長篠下野守は、ためらいを口にした。彼に従う島田孫大夫と設楽貞重も腕を組んで頷いた。
このような過激な命令が出されたのは、重勝が宗教に対する拒絶反応ともいうべき感覚を持っていたせいである。重勝は神も仏も敬っているし、極楽や地獄のほか霊や呪い、まじないといったものも素朴に信じているが、それと同時に、現代日本人がなんとなく抱えている宗教を忌避する気持ちに囚われていたのである。
東三河の諸将は、松下長尹から躍動感たっぷりに西三河の一向門徒の振る舞いを聞いていて、門徒が凶暴な排除すべき敵であるということは理解していた。しかしそうはいっても、いざ「農民を虐殺してでも一揆を鎮圧しろ」と言われると、忌避感が強かったのだ。
「やつばらめは、他宗門の者らを見つけては、改宗せねば身ぐるみを剥ぎ女子供を奪い、その様あたかも盗賊のごとくなり。門主らは『不顧身命』と言って『教団のために死を恐れずに戦え』とけしかけておるゆえ、この者らは死兵なり。死兵は死なせてようやく鎮まるものなり。」
これに対して松下長尹が、怪談をするかのような口ぶりで言った。彼は二番隊に組み込まれており、鳥居源右衛門を支える物頭のひとりである。
二番隊では行軍中ずっとこの調子で松下が脅かすものだから、林光衡や竹本政成ら、東西三河を結ぶ回廊付近の土豪で鈴木家に組み入れられた者らは、すっかり一向門徒が嫌いになっていた。
「とにもかくにも、このまま見ておるだけでは、ますます門徒が集まり、我らだけでは抑えることができなくなろう。」
「左様。門徒は村や寺に拠っておるゆえ、これらを滅ぼさねば、話は先へ進まぬぞ。殿の仰せのように、村も攻めるべきであろう。」
鳥居源右衛門が懸念を示すと、長山・佐竹・印具などを従えた三番隊の近藤乗直がそれに同意した。佐竹と印具も東西三河回廊部の土豪である。
鳥居の言うように、最初は兵を集めていなかった矢作川以東の地域でも、最近は西側と同じように武装した門徒の姿が目立つようになっており、その数は1000とも2000とも言われていて、人々は不安を募らせていた。
「さすれば、ひとまず坂崎城近くの村々を回りて降伏を説いてみよう。」
「うむ、兵を損ねるを避けられればそれに越したことはなく、素直に降ればなにより。とはいえ、さにあらずばためらわずに滅ぼさん。」
「ううむ、殿はすでに『宗門の自由を認めるゆえ降れ』とあたりの村々に触れを出しておるゆえ、それでもなお従わぬ者しか残っておらぬと思うが。」
長篠下野守の提案に近藤は同意したが、鳥居はそれでもなお疑義を呈した。とはいえ、「それで納得するのであれば」と鳥居は引き下がり、彼の隊が寺の包囲を引き受ける間に、一番隊と三番隊を村々に派遣したのだった。