第42話 1523年「解釈」
岡崎に移ってきていた鈴木重勝は、信誉入道と面会した。酒井宗誉入道の長男である。
彼は少し前に酒井一族に対する松平信定の不信を払うために出家して、岡崎北の自領近くの信光明寺に移っていた。
その後に続く形で、一向門徒との対立で安祥城にいられなくなった宇津一族、青山一族、酒井宗誉の孫兄弟は岡崎周辺に逃げ込んだ。彼らの本領は岡崎の南北に広がっているからである。
しかし、これらの地はすでに鈴木家の勢力下にあるため、余計な騒動を生まないよう彼らの処遇について相談するべく、信誉入道は重勝に面会を申し込んだのだった。
話もそこそこに、重勝は旧松平家臣の帰郷を許可し、そればかりか岡崎城で彼らを饗応することを提案した。それを聞いた信誉はたいへん満足して、亡くなった父・酒井宗誉の思い出話に興じていた。
「父の残した『われてもすゑに』は愛慕の歌。我が父ながら末期によく洒落を利かせたものよと思われまする。おそらくはその『割れたる流れ』とは松平家と酒井家を言うておりましょう。
おのが首を孫の手を経て信定に捧げんとしたは、一族の未来を安んじ、松平と再び歩みを共にするがために、死を以て礎になろうという心の表れにござろう。時経るも忠節の変わらぬことを願っておられたのでしょうなあ。」
重勝は手元の宗誉入道の書き残した短冊をじっと見つめながら信誉の話を聞いていた。
「われても末に」というのは、崇徳院の「瀬をはやみ」から始まる和歌の一節で、「速水が岩に当たって別れてもやがては一緒になるように、また会いましょう」という熱烈な恋の歌である。
信誉はそこから、2つの家が別れてもやがては和合してほしいという父の願いを読みとったのだ。
とはいえ、この歌を詠んだ崇徳院は、生前から虐げられ続けて罪人として配流され、死後は祟りをまき散らした人物である。
そのことを知っていた重勝には、あたかもこの歌が「生前のみならずおのれの死後にも一族を虐げるならば、化けて出るぞ」という酒井の恨みの籠った脅迫であるかのように思われた。
おのれの肩に何かひんやりとした重たいものがのしかかったような錯覚に襲われた重勝は、背筋がぞくぞくし一人で勝手に震えていたが、その重勝を放ったまま信誉はしみじみと言葉を続けた。
「されど、せがれらの駆け付けたときにはすでに寺は燃え盛り、これを囲みて騒ぐ者どもはいかにも見苦しかったそうにござる。せがれらは我が父の末期を見て、『忠節の何たるか』について信じる拠り所を失いて惑乱し、暴徒をなぶり殺して一路、拙僧のもとに逃れてき申した。」
そして、信誉は最後に彼の子らの様子を言い添えた。
「父は最期は門徒の手にかかったとはいえ、そこに至るまでの主家からのむごき扱いを知るせがれらは、寺が焼け落ちる光景を夢に見て、そのたびに主家から己が祖父への心無い仕打ちを重ねて思い出し、ひどく苦しむようなり。」
それゆえに宗誉の遺言があっても、酒井の者たちはもはや松平とともに歩むことはできないと判断したそうだ。
重勝は言葉もなく沈痛な面持ちで死者を悼み、遺族たちの苦しみを思った。それはなによりも罪悪感からくるものだった。口が裂けても彼らに言うことはできないが、彼は宗誉の死に対する責任を自覚していたのだ。
酒井氏の没落は、松平信定の個人的な恨みと一向衆の暴走の結果ではあったが、一番のきっかけは榊原氏が酒井氏を裏切ったことにあった。その榊原氏の裏切りを誘導した者こそ鈴木重勝と伊庭貞説だったのだ。
もちろん一から十まで計画通りというわけでは全くない。基本的に重勝と貞説は疑心暗鬼の種をひたすら播いただけであり、具体的な行いには関与していなかった。
焚きつけられた門徒の持つ集団的な暴力性が周囲に伝播し、歯止めが効かなくなって、青山氏の事件や明眼寺襲撃という結果に結びついたのである。
しかし、榊原七郎右衛門の裏切りは重勝が直接手をまわしたものだった。
榊原は伊勢から移って松平家に仕えるようになったが、酒井氏の陪臣のように扱われていることに不満があり、もともと独立志向があった。
それゆえに取り入りやすく、重勝は信定の間者を装った「偽間者」を送った。この者は岩津松平氏に仕えた山田一族の者だった。
偽間者は清孝(現・清定)でなく信定に協力するよう求めたが、その呼びかけはいかにも信定から来そうな誘いであり、それどころか本物の信定方の間者が接触して似たようなことを連絡してきたことすらあった。それゆえ、榊原はこの偽間者を完全に信定の手の者と信じていたのである。
そういう下準備があったため、石川氏が安祥城で清孝(清定)から離反して城を奪った際には、榊原は「こういうことか!」と勘違いして彼らに同調したのだった。
一方、家臣・榊原氏の離反によって、主君・清孝(清定)にその居城を失わせる羽目になった酒井氏は、清孝陣営でも立場がなく、その清孝が信定に降ることになると、彼らの立場は決定的に悪化した。
その後も重勝と貞説は、この偽間者・山田何某を通して榊原に「信定の意思(嘘)」や「噂」を吹き込み、混乱を巻き起こしたのだった。
だからこそ、酒井の辞世の言葉を見たときに、重勝は疚しさから酒井の恨みを読みとってしまったのである。彼は宗誉が末期に何を思ったにしろ、酒井の一族を粗略に扱うのだけはやめようと誓った。
◇
鈴木家の岡崎城には、落ち延びてきた宇津一族、青山一族、酒井宗誉の孫兄弟がやって来ていた。
普段は安祥城に滞在して主家を支えていた彼らは、かの地に様々なものを捨て置いて急に自領に逃げ帰ることになったことから、岡崎周辺の自領での生活環境を十分に整えられておらず、岡崎城で衣食住を保障されていったん落ち着くことができるというのは、たいへんありがたい提案だった。
「方々、ひどい目に遭ってさぞかし苦しまれたことであろう。城内の長屋をいくらか空けてあるゆえ、ひとまず身と心を労りたまえ。」
「まことにかたじけなく……。」
「先ごろまで敵であったにもかかわらず、我々に信を置き城内にひとまとまりにて住まわせなさるは格別のご配慮。『不安を覚えぬように』という思いやりとお見受けいたす。感謝この上あり申さぬ。」
疲れた顔の宇津忠茂が言葉少なに、そして、亡命者たちの受け入れを担当していた酒井信誉が丁寧に礼を述べた。宇津は不戦の密約を結んだ際に鈴木重勝と面会しており、顔見知りだった。
それを聞く重勝は、おのれの所業で酒井・青山・宇津の者らを苦しめているのに、その彼らから感謝の言葉を聞くのがたまらなく心苦しかった。
「それがし青山徳三郎(忠教)と申しまする。鈴木殿の御恩も、とりわけ宇津殿が兄の子らをお守りくださった御恩も、それがし生涯忘れますまい。」
わんわん泣きながら礼を言ったのは、青山徳三郎だった。宇津は徳三郎の豪快な泣きっぷりに不覚にももらい泣きした。
徳三郎は阿部に殺害された青山善大夫の弟で、岡崎北の百々村に住み不戦の密約を結んでいた青山の分家の者だった。この密約の際に鈴木家に出された人質・虎之助の父親でもある。重勝は彼らも岡崎城に呼び寄せ、虎之助を返していた。
一向門徒が暴走するように裏工作をしてきていた重勝は、そのせいで青山善大夫が亡くなったと思うと後ろめたかったが、内心を隠して徳三郎をねぎらった。
青山徳三郎は続けて願い出た。
「すでにずいぶんな御恩をたまわっておるところに厚かましくてござるが、鈴木殿におかれては、それがしに兵をお貸しくだされ。兄の弔い戦と酒井の残された者らの救出に参るをお認めいただきたい。なにとぞ!」
徳三郎はがばりと平伏した。その申し出に宇津も感じ入ったようで、並んで平伏した。後ろからは酒井の孫兄弟も駆け寄ってきてその並びに加わり、続々と武者たちが集まってきた。
いつの間にか小笠原長高と西郷信員も重勝のそばに寄ってきて「さもありなん」といった様子でしみじみと頷いている。
重勝はおのれの仕業のせいで彼らが悩み苦しんでいるのだと思うといたたまれず、徳三郎を立ちあがらせた。そして、彼らをこのような境遇に貶めた者として、これ以上彼らを不幸にしてはならないと思った。
それはひどい偽善であり、彼らが苦しむ姿を見て自らの心が罪悪感で苛まれるのから逃れたいというあさましい気持ちからくるものでしかなかった。しかしそれでも、彼らのために何かをしないよりはする方がましである。
そう考えた重勝は、力強く叫んだ。
「相分かった。それがしも同道いたす――」
彼はそこで言葉を切って大きく息を吸い込み、「さても各々方、お声を頂戴っ!えいえいっ!!」と大音声で人々に呼びかけた。
一同は即座に「おうっ!!」と呼応して、そのまま幾たびか掛け合いは続き、その声はだんだんと大きく、そして一つになっていった。