第41話 1523年「不品行」◆
鈴木重勝が西三河のありさまにいよいよ出兵を決めたその頃。
安祥城の松平家では、信定の支配は盤石だったが、宗門の力で固まる家臣の間では、急激な序列の変化や、宗門の絆が突然一番重要なものになるという歪さにより、混乱が見られた。
「阿部の行状、目に余るところあり。」
「そうは言うも、今や奴めは石川・本多に次ぐ席次にて、余計なことを申せば、我らの身こそが危うい。」
ひそひそと陰口を言うのは、青山善大夫と宇津左衛門五郎である。岡崎周辺に所領があって兵を集められずに肩身の狭い2人だった。
先ごろまで岡崎南の所領に引っ込んでいた宇津は、松平信定から「安祥に参上しなければ所領没収」との通達を受け、やむなく戻ってきていた。
もっとも、抜け目のない宇津は、戻るにあたって鈴木家と話をつけており、いざという時は相互不戦を約してあった。
彼らが眉をひそめる阿部大蔵の不品行とは、彼が一向門徒の女たちとふしだらな関係になっているという噂のことだった。まだ若い彼は坊主らに誑し込まれて教団に急接近し、浄土宗から改宗さえしていたのである。
阿部大蔵は信定に優遇されて上野上村城も任されており、気が大きくなっていた。上野上村城はかつて阿部氏の孫次郎なる者が領していたというのが、この抜擢の理由だった。安祥に門徒の情婦をこさえた大蔵は上野上村城に移るのを嫌がり、弟の定次に城番を任せていた。
宇津と青山はくっついて評定の間に入った。
服部宗政とかいう伊勢長島の者を筆頭に、本願寺系の坊官が上座を占拠する中で、2人はサササッと素早く動いて目立たぬ位置に座った。
彼らは評定の間は一言も発さず、話し合うべきことが過ぎていくのに任せていたが、いよいよお開きというところで、やおら阿部大蔵が進み出て主君・信定に言った。
「それがしより申し上げたき儀ございまする。」
「うむ、なんであろう。」
「門徒の噂にてご家中に内通する者ありと聞き申した。」
それを聞いた榊原七郎右衛門は、やましいところでもあるのか、ビクッと身を震わせたが、それに気づく者はいなかった。
「なに?その者の名なり人相なり、すでにわかっておるのか?」
「いかにも。それどころかその者、今まさにこの場に居並びておりまする。」
「なんだとっ!?何奴だっ!」
すると阿部大蔵はすっくと立ち上がって、はべらせていた門徒の兵の手から刀をひったくると、ドタタッと駆けだし、青山善大夫にいきなり切りかかった。
「すわやっ!うぬ、何をしよるかっ!」
青山はとっさに脇差の柄で阿部の刀を受けたが、その際に手を切られてしまった。
阿部は問答無用でさらに二度三度と切りかかり、隣の宇津も青山を助けようとしたが、座ったままではとっさに刀を振るえず、青山は防戦空しく切り殺されてしまった。
「うぬはおのれが何をしでかしたかわかっておるのかっ!!」
宇津は大音声で一喝した。勢いでひと一人を切り殺して少し呆けていた阿部はひるんだが、部屋には一向門徒の味方が大勢いることをすぐに思い出して、不遜な様子で答えた。
「当然なり。こやつこそが裏切者。己が所領ばかり守ろうとして鈴木に尻尾振った畜生よ。こんなやつを庇うとは、さては宇津殿、おぬしもこの畜生の仲間か?」
「そこまでにせい!主君のおわす前でいきなり刀を抜くとは、いかにもあさまし。青山が内通するとても、他にもやりようはあったはず。その方、近頃、落ち着きがないように見えるぞ。」
本多平八郎は、興奮している阿部に近づくと、目にもとまらぬ早業で刀を叩き落とし、叱った。
青山の内通の真偽は結局わからずじまいだったが、すでに彼はこと切れており、信定はともかくこの場を収めるのが先だと判断して言った。
「大蔵がここまでするからには確たる証があったのであろう。内通の罪であれば、死を以て贖うのは致し方なし。各々も身辺に気を付け、不可解な動きする者あらば、これを見逃すべからず。
大蔵は平八郎の言うように、いかにもやり方がまずかった。しばらく出仕には及ばず。頭を冷やせぃ。」
その後、阿部や石川に親しい門徒が暴走して青山と宇津の屋敷に踏み入ったが、両家の屋敷はすでにもぬけの殻だった。
宇津は本多平八郎の手引きで青山の遺児・藤八郎らを連れて、騒動の直後に出奔していたのだった。
◇
「安祥がそのようなことになっておるとは……。」
高齢の酒井左衛門尉忠勝は、諸々の騒動ですっかり気力を失って枯れ木のようになっていた。彼は剃髪して得度し、今は「宗誉」を名乗って、真宗高田派の明眼寺で余生を過ごすつもりだった。
明眼寺には彼を慕って少なくない者が集まっていた。その中には、安祥城の様子を知らせる酒井一族からの手紙を運んだ者も含まれていた。そうした情報源から宗誉は城の不穏な様子を聞き知り、嘆いていたのだった。
なお、彼の嫡男の康忠も、酒井氏に対する主君・信定の不信を晴らすために剃髪して「信誉」を名乗り、没収された家領にほど近い岡崎北の信光明寺に移っていた。
その子の忠親・忠尚兄弟と、別家の酒井雅楽助家は信定に詫びを入れ、信定はその様子と宗誉・信誉の出家を以て酒井氏の誠意を認め、安祥近くの彼らの所領を一部回復して、酒井家の者たちを家臣の列に復帰させていた。
「宗誉殿!」
寺の奥でたそがれていた宗誉のもとに、小坊主が慌ただしく駆け寄ってきた。
「何事か、さまで足音を立てて。」
「宗誉殿を討伐せんとする兵、迫りてございまする!」
「なに?この宗誉すでに入道し、あとは死を待つのみというのに、この皺首欲するか。」
「どうやらこの寺に宗誉殿を慕って方々が集まることをもって、謀反と騒ぎ立てておるようにございまする。」
「ふむ、攻め手には誰ぞある?」
「はて、拙僧の知る限り松平ご家中の方々の御旗は見えませなんだ。」
「なれば一向宗の暴徒にござろう。さだめし、本願寺方になびかぬこの寺を攻め取りに来たに相違なかろう。」
「そ、そんなあ。」
「まあ待て若いの。これより一筆認むるゆえ、それを持って我が孫か酒井雅楽助のもとへ届けよ。この首、腐れ門徒の雑兵にくれてやるには惜しい。せめて我が一門に討ち取らせ、忠誠の証として信定に届けさせよう。」
「そ、宗誉殿……。」
「儂はずいぶん長く生きた。そなたは酒井の者に文を渡した後は、そのまま寺の方々を連れて岡崎へ参られい。鈴木は真宗を禁じておらぬそうだ。」
宗誉は端切れの紙にさらりと「われてもすゑに」とだけ書いて血判を捺し、小坊主に持たせた。
「どうれ、孫どもの来るまでは死ぬわけに参らぬな。」
のそりと立ち上がった老人は、「捨てきれなかった未練が役に立つとは」と言って、古めかしい鎧兜をしげしげと眺めた。
そして慣れた様子で小坊主に指図してそれを着込むと、途端に枯れ木から若芽が萌え出づるように生気を取り戻した。
老将は僧兵から槍を受け取り、最期の戦に臨んだ。
【史実】阿部定吉は松平清康(作中の清孝)に仕えて、1535年に尾張攻めの最中に謀反を疑われました。その後、陣中で騒動があって阿部の息子・弥七郎は父親が誅殺されたと勘違いして清康を殺してしまいます。弥七郎はすぐに成敗されましたが、定吉は寿命まで清康の子・広忠に仕えました。




