第40話 1523年「願証寺実恵」◇◆
大永3 (1523)年。
西三河は異様な雰囲気に包まれていた。
家督を奪い取ってわずか1年少々で、松平信定は安祥城を中心に勢力を固めつつあった。
彼の支配を支えたのは織田・吉良・水野との婚姻同盟と、なによりも本願寺派・浄土真宗の宗門の力だった。この浄土真宗の力というのは、つまるところ一向門徒が持つ武力だった。
碧海郡の松平領には4万の領民がいるが、そのうちの浄土教系の男手が3000人も集まってきており、その数はまだ増え続けている。松平の武士団と他宗門の兵も合わせて兵数は4000を数えた。
それらを背景に家中の統制を強化した信定は、いまや鈴木氏に対して岡崎城の返還を要求したり、「松平家は関係ない」と言いながら一向門徒をけしかけて紛争を起こしたりするようになっていた。
「殿、なかなか鈴木家は我慢強いですな。」
「うむ、これだけ挑発して仕掛けてこぬとは、鈴木長門(重勝)も鈴木越後(重直)も腰抜けに違いない。しかし、そろそろ戦を始めねば、兵糧がな……。教団は動かせぬか?」
松平信定の腹心となっている石川左近大夫が主君に話しかけた。
これだけの兵数を長く食わせていくのは負担が大きいため、信定は兵糧の心配から早く戦端を開きたかった。それゆえ、挑発して攻め込ませようとしていたのである。
一方の鈴木家は度重なる松平家からの挑発を無視して、城の防備を強化し、周囲の村々に兵を巡回させて一向門徒による略奪に対抗していた。それによって新たに支配した土地の住民の信頼を得ようとしていたのだ。
「実恵様がいらしてからは伊勢長島の坊官の声が大きくなっており、三河の者を動かすにもそれがしや平八郎殿(本多助豊)だけでは難しくてござる。」
信定によって寺が保護され、領境では一向門徒の無法が黙認され、さらには本願寺教団の坊官がやってきて、西三河では一向門徒がずいぶんと大きな顔をするようになっていた。
三河で一向宗が大いに盛んであるという話は上方に伝わり、尾張と伊勢の境にある長島の願証寺からは1000の僧兵が三河安祥城に送られてきていた。
それを率いるのは願証寺住持の実恵だった。彼は本願寺教団の実質の指導者である蓮淳の次男で、蓮淳は高齢の教団宗主で兄である実如の代行だった。
実恵は矢作川西岸の門徒の監督を買って出て、彼を支える伊勢の坊官が門徒を教導しつつあり、三河の門徒に対してであっても指揮権が松平家の手を離れつつあったのである。
「水野様からまたも書状が……。」
信定と石川の主従が話していると、榊原七郎右衛門が書状を持ってきた。
石川とともにいち早く信定側に寝返った榊原は、いまや旧主君の酒井家から独立して、信定から諸勢力との取次を任されていた。
「ううむ、領境を門徒が荒らしたことであろう。さすがにそれがしもまずいとは思うのであるが。」
信定に差し出されたのは、水野家からの苦情の手紙だった。
門徒は、鈴木家との領境を荒らすことを許可されていたが、鈴木家の防衛体制が整うと満足に成果が得られなくなってきたため、尾張や水野領、吉良領との境まで勝手に荒らすようになってきていた。
末端の門徒は「領境では不法がまかり通る」という程度の認識であり、しかも一部の一向門徒は「信仰のためであれば現世での悪事は厭わない」という危険思想を持っており、このような無秩序を宗教的に正当化していたのである。
被害に遭った尾張の国人たちは、直接松平に文句を言うのではなく、織田家に苦情を入れているのも厄介だった。このままでは同盟関係にひびが入りかねない。
さすがに信定も同盟勢力から苦情が入ってくる状況はよくないと思っていた。しかし、自分から始めておいて、統制ができないからといって強く譴責したり教団に指導をするよう頼むこともできなかった。
門徒は松平家のみの兵力の4倍であるため、強く締め付ければ反発して、完全に教団の言うことしか聞かなくなるかもしれない。あるいは、教団に注意するよう頼むことは、指揮権の譲渡を既成事実にしてしまうため、それもできなかったのだ。
「おお、これは次郎三郎殿(松平信定)。ちょうど話がござった。先ごろ弥八郎ら本多の者から聞き申したが、なにやら兵糧に不安あるとのこと。伊勢より多少ならば運び入れることもできようが、いかがであろう。」
「実恵殿、いや、当家の者が失礼をいたし申した。確かにこれだけの兵ともなれば、食わせていくのも大変でござる。さすればお頼みしても?」
本多弥八郎らというのは、重臣・本多平八郎の分家の正定とその兄弟たち、はとこの清重のことで、当然松平家の家臣である。しかし、実恵は彼らをあたかも家臣のように名指しして言ったのだった。
信定はそれに顔を引きつらせかけたが、無理やり心を落ち着かせ、食糧供出の申し出を受けることにした。
「よいでしょう。これも三河に楽土を打ち立てるがため。船で知多を回ってくればさほど時もかからぬことでしょう。」
「さても御身はあまり伊勢を離れておってはよろしくなかろうと思うが、どうでござろう、ここらで鈴木を打ち払うというのは?」
信定が早く軍事行動を起こしたいのは、食糧が理由だけではなかった。
鈴木家さえ潰してしまえば三河統一はなったも同然であり、そうなれば一向宗の力は不要であるから、彼らの力が制御できないほどになる前に、動きたかったのである。
そして信定は、門徒を戦場ですり潰しつつ、戦勝の暁にはさっさと実恵を追い出そうと思っていた。
「いやいや次郎三郎殿。待てば待つほど我らの勢力は増すのです。ご心配召されるな。必ずや鈴木なる教団の敵を滅ぼし、三河を我らが門徒と次郎三郎殿の治むる国へ作り替えましょうぞ。ここで確かに足場を得れば、我が父も本腰を入れて三河の平定に乗り出すことでしょう。」
「そんな未来は望んでいないがな」と信定は内心で鬱陶しく思ったが、実恵は信定の様子を気にかけることもなく、三河を本願寺の領国にするという夢を見始めていた。
実恵は父・蓮淳から三河の掌握を求められていたが、それは蓮淳の権力欲に基づいていた。
今の宗主で、蓮淳にとっては兄でもある実如はすでに高齢で、しかし後継者である孫の証如はまだ幼く、しばらくは蓮淳が教団の最高指導者となることは確定していた。証如の父は実如の子・円如で、母は蓮淳の娘であり、蓮淳もまた証如の祖父であるため、後見人として十分な資格があった。
彼は、実如が目指した宗主一門による一元的な教団指導体制を推し進めるというお題目のもと、近畿を支配する教団本部の首位性を確立しようとしていた。
そして、ひいては首位の本部教団の指導者である自らを教団の最高位に置くために、北陸の一揆を指導する兄弟たちより上位に立とうとして、無理な行動をとることが多くなっていた。
三河進出はその一環だった。大永2 (1522)年に管領・細川高国の調停で越中の一向一揆と長尾氏が和睦したのを見て、北陸の後詰はしばらく必要ないと判断し、蓮淳は東海に自身の領国を得ようと次男の実恵を三河に差し向けたのだった。
◇
一向門徒の活性化で、松平領では他宗門の者はよそ者扱いを受け、様々な方面で不利な条件を押し付けられつつあった。ひどいところでは改宗を迫られ、改宗しなければ村を追い出されることもあった。
こうして路頭に迷うことになった者は、鈴木家の所領に逃げ込んでいた。鈴木家ではその者たちの伝手を辿って松平領から逃げる者を手引して、少しでも敵方の力を削ぐための努力を重ねた。
「──かくも恐ろしき末法の世がまかり通っておる次第にてございます。」
「それは難儀であったな。西三河の有様はもはや一向一揆と呼んでも差し支えなかろう。そなたは宇利の真言宗の寺である冨賀寺に身を寄せるがよかろう。また、当家にて物頭として働くべし。」
「ははっ!支度金まで賜り誠かたじけなく。これにてせがれを飢えさせずに済み申す。このご恩、戦場にて必ずお返しいたし申す。」
鈴木重勝は西三河の情報を共有するべく、諸将を集めた評定で状況の報告をさせた。
報告したのは真言宗の松下長尹なる牢人だった。彼も松平領での居心地が悪くて逃げてきた者の一人だった。その報告は事細かく、諸将は聞いただけでもその雰囲気を肌で感じたかのようだった。
松下は先の上野上村城をめぐる松平家中の内戦では宗家の側に陣借りしたが、松平清孝(清定に改名)の失脚で素寒貧になり、やがて西三河の空気に耐えられなくて鈴木家に仕官してきたのだった。
「いでや、越中の一向宗が長尾と和睦するは困った。管領様も余計なことをしたものよ。一年間に合わなんだか。小姓らに『何事も一年早く』と説いておったおのれが恥ずかしくあることよ。」
重勝は、前々から上方で細川氏が混乱の種になっているのをよく思っていなかったが、管領の細川高国が鈴木家にとっては大いに余計な和睦を斡旋したことから、ますます不快感を強くした。
とはいえ愚痴をこぼしていてもしょうがないため、ともかく彼らに対抗するための方策を思案した。
「伊勢より来たる本願寺の船を防いだは大きかったな。これで松平と門徒連中は兵糧攻めにあっているようなものよ。」
「まこと左様で。あとは、これまでにも増してやつばらの掠奪を防ぎ、尾張より商人の入り込むを堰き止めておれば、意気もくじけましょう。」
気を取り直した重勝がこのように述べると、熊谷備中守がさらに兵糧攻めを推し進めるよう進言した。
実恵が伊勢から知多に向けて送った船団は、有力な小笠原水軍によって殲滅された。熊野からどんどん船を買い入れ、ついでに一帯から移住を希望する漁民を募っている小笠原水軍はたいへんに規模を増しており、今や伊勢湾に面した海賊衆で単独で彼らに対抗できる家はもはやなかった。
兵力差は大きかったが、城を増修築し、東海道の補給路を整備し、海路を押さえ、西三河の村々もよく守備できており、鈴木家ではよく対処しているという自信が共有されていた。それゆえ、士気は高かった。
その中で浮かない顔をしている者らがいた。鳥居父子である。
父子は浄土真宗を信仰しているが、自分たちは鈴木家に不可欠の存在だという自負が勝り、宗門よりも主君への忠義が優っていた。
それはよいことなのであるが、かえってそのせいで、自分と同じ信心を持つはずの一向門徒が仕出かす無法や、それを黙認している本願寺教団のありさまを恥じていた。
そのため、父子はこの場で改宗を申し出た。
「殿、儂はせがれとともに改宗いたしたく思い申す。西三河に蔓延る諸悪は一向宗なる邪宗門のなしたることなれど、それを指導するは真宗の高僧。かような恥ずべき教えは親鸞上人の望むものにあらず。またなにより、鈴木家への忠節をご覧に入れたくてござる。」
「なんでふ!伊賀、源右衛門、それは違うぞ。そなたらは親鸞上人の教えを守るよき教徒、過つは本願寺の坊主どもにて、そなたらが改宗するなぞあってはならぬ。
ふむ、領内にも正しき真宗の者はおるゆえ、彼らの宗門を守るも我らの役目なり。これより宗門について触れを出そう。手伝え。」
重勝はこう言って鳥居父子の改宗に待ったをかけ、領内で信仰の自由を認める触れを出した。
一向宗と対立している長尾家は禁令を出して武力衝突に至ったそうであるから、できるだけそれを防ぐとともに、いざ衝突しても教団側の過失であると主張するためだった。
鈴木家で出された触れは、一向宗に対しても完全に信仰を否定せず、現世における悪事は現世の法で裁かれるという当たり前のものだった。
「宗門によりて人の扱いの良し悪しを変えるべからず。
寺領の外でおよそ考え得る悪事を行う者は、領主に裁かるるべし。
これを逃れて寺や寺領に隠れるときは、寺が代わりに贖うべし。」
悪事とは謀反・内通・殺人・暴行・強盗など当たり前のもので、この触れの末尾に列挙された。
この触れは道理にかなっており、一揆を主導する本願寺派と同一視されて迷惑をこうむっていた真宗高田派の寺も素直に受け容れた。
岡崎の近くでは高田派の満性寺がひときわ親鈴木家だった。矢作川以東の門徒たちの三分の一くらいは、本願寺派の勝鬘寺・本宗寺らから距離を取って満性寺を頼り、鈴木家もこの寺を彼らのまとめ役としてよく保護した。
岡崎周辺の門徒たちは、松平方の門徒による略奪から民を守る鈴木家に好感を持っていた。また、今川家への支援で身動きが取れなかった間も、鈴木家の奉行は西三河の村々を回ってよく慰撫に努めており、その効果が出ていたのである。
このように西三河でも矢作川以東の鈴木領は比較的安定していた。
とはいえ、西三河の諸家は、続々と集まる一向門徒の数に恐怖を覚えており、門徒たちの無秩序で乱暴な様子にも気味の悪さを覚えていた。それゆえ、彼らは重勝にしきりに出馬を要請した。
重勝も門徒が集まるのを座して見ているつもりはなく、兵糧攻めと並行して敵軍勢の数を削っていかねばならないと考えていた。
そこで自身は前線の岡崎に移り、東西三河を繫ぐ東海道沿いの長沢を策源地と定めて鳥居源七郎に任せ、侵攻軍の手配を始めた。