第38話 1522年「外記」◆
大永2 (1522)年は来客の年だった。
今度は堺の阿佐井野宗瑞から在国希望の公家がいるとの連絡が入った。
重勝は客人を迎えに船を出し、庭野政庁に招いた。
やってきたのはややくたびれた見た目の白髪の小柄な男だった。
「こたびは招いてくりゃりてありがたく。麿は正六位上権少外記の中原朝臣康友におじゃる。」
中原氏は代々外記を務める地下官人の家である。
地下官人とは、公卿・殿上人に対する下級身分の役人のことで、中原氏は外記すなわち書記業の専門家一族だった。
「朝廷の文官のお方にお越しいただくは望外の喜びにて、こちらこそ感謝申し上げる。」
「なんの。麿は先ごろ『十年労帳』に名を連ねたのでおじゃるが、ついぞ五位の話も権大外記の話も出なんだゆえ、どうしたものかと考えておじゃった。
麿には子がないゆえ代々の『隼人正』はすでに弟に譲っておじゃるし、家領は丹波にあるでおじゃるが守護様がのう……。」
十年労帳とは朝廷の昇進候補者の名簿であり、そこに名が載って選ばれると昇進できるというものである。
残念ながら康友は昇進できず、弟が代わりに隼人正中原家における所定の出世の階梯を上がっていったのだった。
彼らの家領のある丹波の守護は、永正年間から畿内に騒乱の種をまき散らしている細川氏である。
康友は中原家に養子に迎えられており、それ以前の当主は丹波の家領を自ら管理していたが、地縁のない康友にはそれも容易ではなかった。
朝廷での実務を担う外記史職は重要で、その知行は良く保護されているとはいえ、その防衛や経営まで手が回らず、康友は下向を希望したのだった。
「まあ、家領は弟の一家が差配するでおじゃろうし、麿がおっても邪魔じゃろうて……。」
そう語る中原康友のしょぼくれた感じを見て重勝は無性に悲しくなり、彼の手を取って「頼りにしている」としきりに励ました。そして、外記の仕事を長年続けてきたことを労わり、安心して暮らしてほしいと伝えた。
康友翁は「ほんにありがたいことじゃ」と涙ぐんでいた。
その後、康友はその技能を活かして、行政・裁判・外交のための文書を作成する仕事を担った。
また家中の者に対し、重勝が集めた漢籍を読んでは講義をし、宗長の連歌集の写しを教材に連歌の基礎を教えた。
彼は「外記先生」と慕われ、趣味として受講者から近隣の話を集めて風土記を書くなど、充実した日々を送った。
◇
来訪者は中原外記だけではなかった。
今度は美濃から、武者とその親族たちの一団が訪ねてきた。
重勝はその指導者らしき二人組と対面することとなった。
「近江の伊庭出羽。よしなに。」
「拙僧は伊庭家一の臣、九里浄椿と申しまする。さてもこちらにおわすは──」
異常に口数少なく挨拶した伊庭何某に続けて、浄椿を名乗る老僧が主君の分も含めてつらつらと家柄やら三河に至るまでの経緯やらを語った。
伊庭氏は近江守護代の家柄である。流れてきたのは、守護の六角高頼と争って敗れた伊庭貞隆の子・出羽守貞説だった。
九里の語りによれば、伊庭氏は永正17 (1520)年に六角氏に敗れ、それからは美濃に落ち延びていたそうだ。
美濃では三河鈴木家の噂が出回っていて、その栄え振りや「仕官先として魅力がある」という話の他にも、「兄を追放した不忠者だ」など様々な噂が飛び交っていたそうだ。
伊庭貞説は、噂が出回るほどの存在でありながら新興勢力であるということに注目し、人手を探しているに違いないと狙って訪ねてきたのだという。
「――かくして、出羽守様の御父君の見事な腹切りに、敵方の諸将もいたく感心し、これに免じて我らの退去を敬意を以て見送ったのでござる。
しばらく近江で粘るも、武略の優劣ではなく、兵の多寡によりて進退窮まり、美濃であれば再起も図れるかと思うて移ったのでござる。
されども美濃衆は、六角やら朝倉やらの顔色を窺ってばかり。我らに兵権を委ねる器量もなく、仕方なくこの三河の地に移ってまいったのでござる。
聞けば、信濃守護のお家柄の小笠原殿が客将として軍勢を任されているとの由。いずれは近江に帰る我ら伊庭の一党も同じく客将として戦働きを果たし、貴家にお力添えするのがよかろうと思うた次第にて。」
美濃では、守護の土岐家・守護代の斎藤家が分裂して相争い、朝倉や六角の援軍を呼び込むのが常態化しており、六角に排除された伊庭を匿うことは危険を伴った。
さらに伊庭勢は一族に加え、陪臣の九里家も伴うため、一牢人の家族を召し抱えるのとはわけが違い、簡単ではなかった。そのため仕官先を見つけられなかったのである。
重勝は浄椿入道のもったいぶった説明を胡散臭そうに聞いていた。
入道が説明した伊庭氏が没落した理由は、持って回った言い回しのみならず、そもそも関係者の人間関係がややこしすぎて、重勝にはよく理解できなかったが、将軍・管領・守護のごたごたで苦労したらしいということには同情した。
九里の何かと上から目線の物言いには苛ついたものの、鈴木重勝家の将は大きな戦の経験が少ないため、大規模な兵を率いた経験もあり籠城戦なども経験した武士団の参入は極めて魅力的だった。
「六角家とやりあって数年ということは、伊庭殿も九里殿も、大軍勢の采配や過酷な籠城戦も手慣れた戦巧者なのでござろうな。」
重勝の感想のような問いに対して、九里は自信満々に答えた。
「いかにも!野においても、山においても、城においても、我らの巧みな用兵を前にしては、いかな守護軍といえども攻めあぐねざるをえず――」
それからしばらく九里の演説が続いたが、程よいところで遮って、重勝は彼らを客将として迎えることにした。
◇
なお、伊庭と九里の一団には、武者修行の旅に出た多田何某という武辺者が同行していた。
「それがし、多田三八郎と言いまする。九里殿から『三河はこれより戦おきるゆえ仕官の口があるだろう』と聞き申した。武者修行のため、少しの間で構いませぬゆえ、それがしを貴家に置いてくだされ。」
多田は、美濃守護・土岐氏の内紛がいったん落ち着いて武芸の磨きどころがなくなったため、きな臭い三河に遊びに来たのだという。
武芸者に乏しい鈴木家には得難い人材となると思われたため、重勝は「少しと言わず、ずっといてくれ」と頼んで引き留めた。
多田は弓に長けているというので、小弓衆と一緒にしたり、小笠原家に仕えた弓上手の平岩と一緒にしてみたりして、様子を見ることとなった。
一方で移住先が見つかってほっとした伊庭氏の一党には、宇利でしばし休息をとらせた後に、野田城を丸ごと任せた。野田の内政官である老齢の塩瀬甚兵衛も目付としてそのまま在城している。
重勝がそのように伝えた際には、どうやら無口な性質である伊庭貞説は、じっと目を見つめ返し、一言「かたじけない」と礼を言った。
近江守護代という家柄でしかも口下手であるにもかかわらず、格下の重勝にきちんと礼を述べたところに、重勝は貞説の人柄を感じ、この者を信頼してもよさそうだと直感した。
そこで、もののついでに重勝は厄介な松平家の扱いについて助言を求めてみようと思い立ち、浄椿入道には適当な理由をつけて席を外させ、伊庭貞説に直接現状を詳しく話した。
彼は長らく沈黙した後に、藪から棒にぽつぽつと方策を列挙した。
「家中の讒言。別宗門の煽動。門徒の間者。さてもまずは不遇の者と渡りをつけるべし。」
言葉が少なく具体的な部分は不明だったが、重勝は貞説が謀略に通じていると見てとり、自分ですでに準備している部分を追加して伝えた。
それを聞いた貞説はもの言いたげな視線を向けた。
「何やら存念おありの様子。ここはひとつ、お任せしても?」
貞説はこくりと頷いた。
【史実】応仁の乱から1510年代まで足利将軍家内の派閥争いが続きますが、伊庭貞説の父・貞隆は六角高頼と対立する派閥についたことから度々争いました。
九里氏は伊庭氏の陪臣ですが、11代将軍・足利義澄を居城・水茎岡山城に匿うなどして抵抗し、岡山城は1520年に落とされます。九里氏の系譜は不明瞭ですが、浄椿は子供のころに応仁の乱を経験し、またの名を伊賀入道や宗忍ともいい、1525年に滅ぼされるようです。
【史実】多田三八郎は美濃出身で、弓の修行に出て武田信虎に仕えた足軽大将です。足軽大将は組頭を数人束ねる指揮官です。