第37話 1522年「再婚」◆
鈴木重勝は、内部分裂で松平家の力を落とさせるという目論見が外れ、次なる策をあれこれ模索することにした。
ただし、鈴木家は直ちには再び軍事行動をとることはできそうになかったため、それ以外の手段で、という条件が付いた。
昨年・大永元(1521)年の西三河攻めは、今川家の甲斐攻めのための軍役と重なり、兵の捻出に無理が出た。しかも、永正の終わりごろは米が不作続きで兵糧の心配もあった。幸い昨年・大永元年は豊作だったが、今年の出来はよくなく収穫量は期待できそうになかった。
東の鈴木家は人口に比べて農地が広いためそもそも食糧不足ということはなかったし、出兵中の農地も鈴木家主導の共同管理で十分に作付けできていたから、深刻な不安はない。
しかし、長く続いた不作により、周りの国々で食い詰めた者たちが暴挙に出ないとも限らないし、しばらく軍事行動が続いていたから連続で本拠地を不在にするのは憚られたのだ。
◇
そのさなか、今川家の外交僧で著名な連歌師でもある柴屋軒宗長が領内を通りかかった。伊勢にて連歌会を行うためだという。
「お会いするのはお久しぶりでございますな。お方様から聞き申したが、相変わらず漢籍を集めておられるようで。拙僧としては連歌にも興味を持ってもらいたいものです。
さてと、拙僧、伊勢に所用ございまして、道中ご挨拶に参った次第。あまり長くはおられませんで、ここらでお暇いたしましょう。ときどきでもよいので駿河にお越しくだされ。語り合うこともございましょう。」
挨拶を受けた重勝は、遠回しに連歌会への出席を打診されたが、修練不足を理由に謝辞し、小笠原水軍に彼を伊勢まで安全に送り届けさせた。
重勝は宗長の「駿河にこい」という言葉が引っかかり、探らせたところ、氏親が元気だったころとは状況が変わってきているようだった。
氏親はしばらく前から軽い中風(卒中で倒れた後の後遺症)で政務や軍務に支障が出ており、上方より下ってきた才女の妻や、瀬名・三浦・朝比奈・葛山・庵原・由比ら駿河の近臣団が評定で政策を決めていた。その分、駿河を中心に物事を考える傾向が強まっているようだった。
三河に関わることでは、浜名湖西岸の宇津山に城が築かれ始めていた。おそらくは特に力を増しつつある鈴木氏に対して備えるための築城だった。
東三河から東海道や西三河に小笠原・近藤らを移してから見張りがおろそかになっており、見落としていたのだった。
これらは母・お秋の周囲の人間からの情報で判明した。
彼女自身は当初は読み書きができなかったため、駿府の人材で手紙のやり取りを助ける者がいた。
そこで重勝はその者を買収し、密書のやり取りをしていたのだが、近頃の忙しさでこの連絡も疎かになっていたのだった。
また、例年は年始の挨拶にときには重勝本人が出向くか、少なくとも贈物とともに目端の利く者を使者に送って情勢を探らせていたが、近頃は鈴木も今川も忙しなく、鈴木家からは使者なしに贈物を献上するだけで済ませていた。
◇
ところで、お秋はしばらく前から今川館で下女働きをしていたが、しばしば館に参上していた興津左衛門尉盛綱に見初められて懇ろになっていた。
そこそこ高齢の盛綱には嫡子がなく、すでに一族の彦九郎清房を養子にして後継ぎとしていたが、種無しというわけではなかったようで、お秋は大永元年に子を産んだ。子は紅葉丸と名付けられた。
2人の関係は内縁婚であり、この生まれた子に家を継がせることは難しかったが、それでもお家騒動になりかねないため、重勝は三河に引き取ることを打診する文を送った。
重勝は、母が読み書きができるようになってきていたので、読みやすいように文字の間隔をあけてひらがなを多くして文を書き、出産祝いや母子の扶養料とともに送った。
「心晴れやかに幸せなるさま、うれしくて候。
養子どのあれば、お子の扱い気がかりに候。
三河でやしなうはいかが候。
かしく、3日、
おかかさま、甚三郎。
(追筆)もろもろ送らせ候。
養生したまえ。」
「思いやりうれし。
左ヱ門さま、老いてえた子、
はぐくみたし。
かしく、25日、
なが門さま、あき。
(追筆)養いの銭、
かたじけなく候。
盛綱。」
しかし、盛綱もお秋もこの提案を謝辞したため、重勝は今後も稚児の養育費だけでもいくらか送ってやることにした。
その後、家督相続を混乱させないよう重勝は早めの隠居を助言し、それを聞き入れた盛綱は夫婦仲よく子育てに励んだ。
それとともに、重勝は妻つねの実家・朝比奈家にも様子伺いの書状と贈物を送り、駿府と三河の関係が悪化するような場合に備えて味方になってもらうべく、朝比奈・興津の両家と定期的にやり取りするようにした。
◇
重勝が駿府のことを気づかせてくれた宗長にも何か礼をしようと思っていたところ、しばらくして京に向かった宗長からは船賃代わりに連歌会で詠まれた「あさひかけ」から始まる最初の100句を書きつけたものが贈られてきた。
「これで学べということか。ふむ、文には伊勢の岸辺がしばらく昔の大波で荒れて以来ひどい有様だとあるな。安濃津も往年の賑わいなし、か。ううむ、わざわざ神宮の窮状も伝えるは、『神宮に寄進せよ』ということを言っておるのか。されど、さほどゆとりはないしなぁ。
柴屋軒殿には世話になっておるゆえ、できるだけのことはしたいが、せいぜい流民を引き受けて材木を寄進するくらいか。ああ、赤引糸は古来より神宮に送るものだとかいったな。これで誤魔化すか。」
重勝は、宗長には礼として「京での滞在費に充ててほしい」と銭を送った。
そして、伊勢神宮へは生活困窮者の引き取りを打診し、毎年いくらかの三河生糸を奉納すると約束した。
神宮からは「遠江の服部氏に織らせて云々」と奉納のしきたりを説明する者がやって来てあれこれ指示してきた。重勝は「面倒な……」と思ったが、「遠江とも伝手が増えるし」と考え、言われた通りにすることにした。
その甲斐あって、伊勢神宮は、絹布奉納の儀式の再興が鈴木家の篤信によるものと思って好意的になった。鈴木家が元々熊野社の禰宜の家であることも勘違いを手伝っただろう。
神宮との交流により、三河の開拓村では伊勢の御師が布教して道者(篤信家)が増えたが、鈴木家も特にそれを規制しなかった。御師の町である伊勢国山田では鈴木家の評判が高まり、山田の米座で米の取引がしやすくなった。
さらには交渉の末、三河の生糸や綿を商う者を「神人」とすることが認められ、御用商人である三河屋は神宮に金品を上納することと引き換えに、他国に物を売りに行く際には、伊勢神人が持つ関銭免除の特権を享受できるようになった。
扱う商品の制限はやがてうやむやになって和紙・材木・改造酒などにまで拡大することになる。
とはいえ、そうなると各品を扱う上方の座やその本所とお近づきになる機会が減り、三河の者たちにとっては、上納の負担が軽減したものの、上方と疎遠にならないよう縁を繫ぐための努力がかえって必要になるのだった。
【史実】興津氏は海賊を抱える駿河国の国衆。左衛門尉盛綱(1528年没)→彦九郎清房→彦九郎何某の流れと、美濃守久信→藤兵衛尉正信→弥四郎信綱の流れがあります。1488年と1526年には彦九郎が書状を受け取り、1524年には藤兵衛が安堵状をもらって1538年までに出家しています。
盛綱や他の興津氏は宗長の日記に出てきて仲が良かったようです。興津彦九郎家は清房の後継者をめぐって興津弥四郎家に反抗されて没落したといいます。




