第36話 1522年「手際」
大永2 (1522)年。
上野上村城の松平清孝のもとに、安祥城の松平信定から、使者として清孝の祖父・道閲入道が遣わされた。
「まことにかたじけない。信定めを押さえることができなんだは儂の不明よ。」
「祖父様はなにとぞ気を落とされずに。すべてはかの者が頑なに我を張るがゆえにござる。このままでは鈴木家のいいようにされてしまうに違いなく、もはやそれがしが折れる他ありますまい。」
「次なる当主はきっと竹千代に戻ろう。もし信定めが約定を違うようなことあれば、織田なり鈴木なり呼び込みても、この道閲、そなたの家督相続は守らせよう。」
松平次郎三郎清孝(竹千代)は涙を呑んで松平家を再び一つにする決断を下し、叔父・内膳信定に降伏した。
悔し涙にぬれる祖父を側に連れつつ、一方の孫は涙をこらえて毅然とした態度で、信定方の将兵に護送されて城をあとにした。
それを見送る宗家家臣の面々は、ある者は平伏して詫び、ある者は地を叩いて慟哭した。
清孝は名を「三郎清定」と改めて信定の養子となり、信定は嫡流の証として「次郎三郎」の通称を用いることとなった。
清定は信定の次に家督を継ぐことが定められた。信定の嫡子は元服後は清孝の「孝」の字を受けて孝定と名乗ることも決められた。
信定はさらに、この孝定を清定の養子に押し込んで家督を自分の子孫に継がせようとした。
しかし、彼の自分勝手な様子に反発を強めた家臣たちは、「先々のことを今決めても仕方ない」という建前を打ち出してまとまって抵抗し、「清定に娘が生まれたら孝定と娶せて両者の後継者とする」という方針が確認されるにとどまった。
「あなや、松平の両の頭領の器量、見誤っておった。この上なく優れたるは三郎清定なり。家の分かれて立つをよしとせず、信定に降ろうともひとつにまとまらんとするは、まことあっぱれ。」
松平家のお家騒動の終結を聞いた鈴木重勝は悔しがった。
松平家が分裂するように、しかもできるだけ長く分裂したままでいるようにあれこれと手配していたのが無駄になってしまったからだ。
しかし彼には清定の器量を褒めてみせるだけの余裕がまだあった。
松平家が信定のもとに一統されても、いまや東三河鈴木家との兵力差はほとんどなく、西三河の味方が加われば、まず後れを取ることはないと確信していたからだ。
決戦して信定を滅ぼせば三河鎮定はなったも同義。重勝はそのことに重圧を感じつつも、一度負ける程度ならば取り返せるよう、工夫も凝らしてきた。
最後に勝てばよい。そのためにはいかなる手段をも辞さない。慎重な重勝はその信念であれこれ手配を整えていくことになる。
◇
自らの家督継承を認めさせた後の信定は、短期間で宗家の力を強めることに成功する。
ただし、その行動には問題が多かった。
「三郎は仕置の間はしばし本證寺にて蟄居。同心した者が再び謀反しないとも限らぬゆえな。寂しくないよう、親父殿もご一緒するがよかろう。」
信定は、清孝あらため清定を養子にするも、即座にこれを父・道閲とともに本證寺に幽閉した。
2人は武装した一向門徒によって監視され、外部との接触は一切が絶たれてしまった。
「かような仕儀は受け入れがたし!三郎様は次なるご当主。遺恨を捨て家中のまとまらねばならぬ時に、あからさまにこれを蔑むは不穏の種にござる!」
「ふうむ、その方、なにやら心得違いをしておるぞ。宗家当主はそれがし。その方は臣下、しかもかつて我に刃を向けし者。それがしの寛恕によりてこそ、その方の首と胴はいまだ別れ別れにならずにおるのだ。まとまらんと努むるべきはその方ゆえ、むしろそのように大声を上げるその方が不穏の種なり。さてはそれがしの寛恕の過ぎたるがゆえに増長しておるな?」
旧宗家の2人の扱いに、清定派を代表して酒井左衛門尉が苦言を呈した。
それに対し、酒井のことを憎たらしい物言いで詰った信定は、彼を見せしめに処刑しようとした。
しかし、さすがにこれは本多氏などの諸将の執り成しで取りやめとなり、酒井は岡崎と大樹寺の間にある居城・井田城のほか、碧海郡の所領の大部分を没収された。
◇
「おお、さりさり、甚太郎のう。おぬし、小笠原を見逃して岡崎落とすがままにしたは実によくなかった。あれさえなくば、鈴木なぞいかようにもいたぶってやれたものを。」
「なにおうっ!それがしに岡崎失陥の咎ありと言うか!いかに兄とて、かような難癖、受け入れがたし!」
また、信定はそりの合わなかった弟・甚太郎義春を冷たい目で見やり、諸将の前で貶めた。
義春はそれに怒って憤然と評定の間から出ていこうとしたが、出たところで一向門徒の兵に囲まれた。
「な、なにっ!?兄者、そうまでそれがしが憎いかっ!」
「謀反なり。滅ぼせ。」
冷めた顔をした信定は、門徒に顎で指示をした。義春はそのまま討ち取られた。
信定は「劣った兄・信忠の下で、優れた自分が『弟である』というだけで長く不遇をかこっていた」と思っており、これまでに自分を軽んじたり反抗してきたりした酒井氏や弟・義春を恨んでいたのだった。
目の前で粛清を見せつけられた清定派の諸将は、その後は次第に動きが鈍くなっていき、何かにつけては責められ、時には武力を使って軟禁されるなどして、その力を急速に落としていった。
清定派がまとまれなかったのは、信定の巧妙な家臣統制に理由があった。
信定には義春の他に2人の兄弟がいたが、彼らには早くから一門衆として最上位の発言権が与えられており、信定に反抗すれば自分もどうなるかわからないため、彼らは泣く泣く義春を切り捨てたのである。
また、信定は岡崎周辺に所領があって思うように兵を集められない青山氏・宇津氏を冷遇し、代わりに家督争いの間に敵対したものの浄土真宗の内藤氏や、帰参後いち早く信定に臣従を誓った阿部氏を厚遇した。
不満に思う青山氏や宇津氏は、しかしながら自前の兵力がないため泣き寝入りせざるを得ず、その彼らの様子を見た他の家臣連中も段々と抵抗を諦めていったのだった。
そして信定は没落しつつある彼らに代えて、家臣筆頭には石川忠輔を据え、彼と親しい一向門徒たちを重用した。
こうした高圧的な取り組みは、すべて門徒の兵力を背景になされたものだった。
信定はあたりの浄土真宗の諸寺に土地や税収を寄進し、松平領内では大々的に浄土真宗が保護されて、特に本願寺派の浄土真宗は一気に勢いづき、異様な雰囲気となっていた。
短期間で統一が成し遂げられた松平家中において、今や家臣団の最も重要な絆は宗門の繫がりであり、宗門違いの者は居心地の悪い空気になっていった。
◇
松平信定の振る舞いを伝え聞いた鈴木重勝は、小姓の3人衆に説いて言った。
「次郎三郎信定の振る舞い、いかにも優れたものである。されど、恨みを残すものにて至上というわけではなかろう。清孝、いや清定方の中で重く用いる者と蔑ろにする者を分けるは、再びまとまらせまいとする企みにて妙なり。
なれど、宗門が家中にはばかるは、それがし好まず。宗門は心の持ちようにて、家を導くものにあらざればなり。」
重勝は信定を高く評価していたが、兵を集めたり家中をまとめたりするのに一向宗を勢いづかせたことは認めがたかった。宗門が家の方針まで決めてしまうようなことになれば、それは宗教の本来あるべき姿ではないと思うからだった。
特に気味が悪いのは、西三河では一向門徒が我が物顔でのさばっており、移動や商売においても宗門がいちいち問題になり、他宗門となると途端によそ者扱いされるということだった。
一向門徒がこれ以上勢いづくと加賀の一揆のように歯止めが効かなくなるのではないか。重勝はこのことを非常に恐れていた。
そうであってもやはり重勝は信定の能力を高く評価し、小姓たちに警戒を忘れずにしつつ、彼のやり方をよく見て学ぶよう言い添えた。
「他にも信定の婚姻を以て速やかに同盟を結びたるは、かの者なお秀逸なるを示すに相違なし。学ぶべきところあまたあり。よく見定めて己の糧とするがよい。」
信定は家中の引き締めを進める一方で、東と北の鈴木勢を合わせればさすがに自家だけでは対抗し難いため、南や西の勢力と婚姻同盟を結んだ。
彼は幼い娘を、水野忠政の幼子と勝幡の織田信定の幼子にそれぞれ嫁がせ、妹を養女として吉良持清の嫡男・持広に嫁がせた。こうして、安祥の後背を短期間で安定させたのである。
水野家当主・清忠もこの動きに呼応し、一族の水野監物家の嫁に、同盟を結んだ吉良氏の被官・大河内氏の娘を迎えさせた。
こうして瞬く間に松平を中心に、織田・水野・吉良の婚姻同盟が成立してしまったのだった。




