第2話 1514年「甚三郎」
永正11 (1514)年。
「吾子には通字を許す。鈴木甚三郎重勝を名乗るがよい。連枝衆として、来るべき時には、兄の雅楽助そして千代丸を支えてやってくれ。」
鈴木忠親は老いてできた愛しい末子・竹丸に初陣を用意してやることはできなかったが、せめてものはなむけに元服させることにした。
「鈴木甚三郎重勝。」
竹丸改め甚三郎は新たな名をつぶやいた。
「儂はな、甚三郎。中条様には酷なれど、中条のお家は先がないと思うておる。松平は厄介じゃ。中条様にはこれを抑える力はもはやない。そこでじゃ、我らはこちらで、吾子は東で励むのじゃ。そして、東と西から松平を抑えるのじゃ。」
「はい、父上。松平……。げに松平は恐ろしき敵にございまする。それがしは必ずや力をつけ申す。その暁には鈴木の一族皆の力を合わせましょうぞ。」
甚三郎は利発そうな瞳で忠親をしっかりと見つめ返し、こぶしを握った。
忠親はその頼もしい物言いに目に涙を浮かべて喜び、甚三郎の肩を強くたたいた。
「よくぞ申した。修理大夫(今川氏親)様はありがたくも我ら西三河勢と誼を結ぶことをお喜びくださったという。また、中条様がうまく取り計らってくださってのう、吾子にはなんと東三河の熊谷殿が吉田郷の土地をお任せくださるとのことじゃ。荒れてしまって困っておるらしいでな。熊谷殿とよろしくやるのじゃぞ。」
熊谷氏は東三河の八名郡宇利荘の地頭の家系であり、宇利から山方の吉田までを領し、当代を備中守実長といった。
彼の父・兵庫頭重実は隠居しているものの存命で、宇利城を築いた人物である。
熊谷氏は東三河で勢力を拡大しつつある菅沼氏に警戒感を強めており、彼らに対しても東西から圧力をかけることを条件に、対松平同盟に参加することに同意した。
そして、つながりを担保するために吉田郷の一部を甚三郎に分与するのを決めたのだ。
とはいえ実のところ、西三河勢としては、東三河の山方を押さえる菅沼氏、海に面して西の松平と一番近い牧野氏、そして渥美半島で勢力を強める戸田氏、これらのどこかと同盟を結ぶことを期待していた。
しかし、菅沼氏は松平に直接面していないことで危機感がないのか、「下手に同盟を組んで松平を刺激したくない」という理由で中立的立場を求めた。
また、牧野氏は、数年前に頭目の牧野古白を失い四分五裂しているため、接触は控えられた。
残るは戸田氏だが、これはかねてから松平と同盟を組んで牧野氏に対抗して勢力を著しく伸ばした家であるため、結局、接触は見送られた。
小勢力ながら、三河と遠江を繫ぐ本坂道沿いを押さえる西郷氏も重要である。彼らは旧守護代・岡崎西郷氏の一族らしい。しかし、その岡崎の者らは松平と争った後にその姻族となったから、内通の恐れもあってやはり接触は避けられた。
こうした検討の後、ようやく北に目を向けて、宇利の熊谷氏に使者が立てられた。いうなれば、それくらいの期待度しかなかったことになる。
そんなことは知らない甚三郎は、早くも知行地があるということでうきうきしている。
「出立はすぐですか。」
「向こうも手配があるゆえ、当分は先であろう。それまでに家中を整えておくがよい。そうじゃ、少しでも重んじられるよう、成瀬城の城代に任ずるゆえ、かの地で支度いたせ。」
「お心配りかたじけのうござい申す。さすればそれがし、『小弓』の平七と平八の兄弟を連れてゆきまする。それと、かかさまを伴ってもようございまするか。」
「うーむ、お秋か。……うむ、よかろう。」
忠親は少し悩んだが、了承した。
お秋は忠親が歳を取ってから妾に迎えた農民の娘であり、老い先短い自らの死後に後ろ盾もない彼女の面倒を見てくれる者は甚三郎以外になかった。
また、甚三郎のこれからの苦労を思えば、母を側に置くことで少しでも心安らかなればと思ったのだ。
「しかし、別家を立てるのじゃ、それでは足りぬぞ。せめて士分の者、かなうならば年嵩の者も召し抱えよ。さもなくば侮られる。吾子は鷹見と渡の鳥居の者を連れていると聞いておる。両家には儂から頼むゆえ、これらを連れて行くがよい。」
「ありがとうございまする。」
さてどうやって話をつけたものかと悩む忠親は、甚三郎を下げさせると、あごひげをいじりいじりし、ひとまず鷹見と鳥居の両氏に使者を立てるべく弟・小民部丞に相談することにした。