第35話 1521年「馬」◆
長沢城で重勝が次の西三河攻めの準備を整えている間のこと。
岡崎城の外で、小笠原長高は騎馬隊の訓練を眺めていた。
岡崎には数十の騎兵が詰めていた。
この騎兵は鈴木家が用意したもので、伝馬や使番の専任の騎馬を取り分けると、攻撃用に使える数は多くなく、長高の指揮の下でひとまとまりで運用することになっていた。
戦場で必要にならない限り、鈴木家の馬は東三河で農業や運搬の仕事に使われており、今もある程度の数が東三河に置かれたままだった。その間には駆け足の訓練など調教も行われていた。
馬の繁殖や調教を任されているのは生駒豊政という有力な馬借で、商売で東三河に来た際に、道守(街道管理役)の近藤満用に挨拶に来た。
近藤は気を利かせて生駒を重勝に紹介し、重勝は生駒という苗字を聞いて「『馬を生かす』とは縁起が良い」と言って彼を召し抱えたのだった。
長高の下では熊谷家の次期当主・次郎左衛門直安が騎兵の将として育成されており、彼はいざとなれば東三河の馬を集めて増援に駆けつけることとなっている。
軍馬の集団運用や農業従事が可能なのは、鈴木重勝が生駒に命じて馬の去勢に取り組んだからだ。この去勢術は馬の医術を扱う漢籍『馬経大全』に学んだものだった。堺の豪商・阿佐井野に頼んで集めてもらった医書の中に紛れていたのだ。
荒馬を好む諸将たちの反発を受けながらも、重勝は一部の軍馬を去勢して騎馬隊を編成した。
諸将の所有の馬の去勢は求めておらず、戦の際に家中の武者に馬を貸与することはあっても、あくまでも所有者は鈴木家であるということを徹底したことで、諸将も強くは文句を言えなかった。
去勢馬は人を乗せても別の馬を近づけても暴れにくく、荒馬を好む筆頭だった小笠原長高も、実際に騎馬隊を動かしてみると、その扱いやすさを内心で評価していた。
「鎧武者を乗せ、馬鎧を着こみ、きっと重いだろうに、かの馬らはよく耐えより申す。良馬にてござるなあ。」
新たに騎馬隊に組み込まれた柴田丹後守政忠が、息を切らせて報告してきた。
この者は、鈴木家が岡崎周辺を制圧するといち早く臣従を申し出てきたため、取り立てて小笠原家臣の将として育成することとなっていた。
柴田はいきなり騎馬隊の一員になれたことで張り切っており、訓練をよくこなしていた。
「うむ。とはいえ、この馬鎧は傍目には重そうに見えるが、革と紙を漆にて固めた軽きもの。しかも前と後ろを守るのみで横は見せかけゆえ、日ごろより農事に励みて鍛えておる鈴木家の馬においては、堪え難きほどにはあらず。
おぬしの着込んだその鎧も言うほど重くないであろう?腹当に背板、腕の袖、腿の佩楯と、それだけ付いて傍目にはあたかも胴丸のように見え、見た目は立派な鎧武者なれども、革の小札を隙間を空けて繋いでおるゆえ、軽く守りは弱い。
この騎馬の役目は、ひと駆けして槍衾を避け、兵が向きを変えるより早く横から攻めて敵を追い崩し、すぐさま帰ること。こけおどしでよいのだ。そのためには見た目と速さが肝心よ。」
騎馬の運用については、長高は重勝と長い時間をかけて話し合ってきた。
その結果、鈴木家において求められる騎馬集団の動きというものが長高にははっきりとわかっており、馬の去勢や騎兵特化の鎧の開発によってそれは可能となってきていた。
馬鎧は前と後ろのみで、側面は似たような見た目の布がかけてあるだけ。
騎馬武者用の鎧も、本来は小札を隙間なく繫ぎ合わせて攻撃を受け止めるべきところを、歯抜けにして間は布と縅(つなぎの飾り紐)でそこに小札があるように見せかけるだけ。
こうして馬にかかる負担を軽減して、少しでも長く馬が駆け、少しでも早く戦場を離脱できるよう工夫が凝らされていたのだ。
騎馬突撃の訓練で興奮冷めやらぬ柴田に対し、長高はその後も運用上の注意をよく言い聞かせた。
◇
小笠原長高が岡崎城に帰ってくると、家臣の大林勘助が書状を手にもって主君に報告にやってきた。
「鈴木長門様より海賊衆の扱いにつきて報せありてございまする。」
「ふむ、聞こう。」
「殿の弟御と欠城・小笠原殿の間で婚儀を結びて、弟御を頭目とするとのこと。また、海賊衆を『小笠原水軍』と名乗らせ、鈴木家のみに仕うる約定を結んだようにて。」
水軍の頭領・小笠原摂津守長房の嫡男は未だ幼いため、長高の弟・定政を娘婿にして水軍頭とするよう鈴木家が要請したのだ。
「左様か。『水軍』など、たいそうな名をもらいて、しかも『小笠原』の名を残されたは、さぞや我が弟もうれしかったろう。」
長高は弟が完全に信濃を捨てて三河で生きていくのだとわかって少し寂しく思ったが、自身は信濃に復帰することを諦めるつもりはなかった。
大林は続けて、鈴木重勝が律儀に書状に記していた小笠原水軍が鈴木家と交わした契約の条件も読み上げていた。
長高は感慨にふけってあまり聞いていなかったが、まとめるとそれは次のような条件だった。
すなわち、先の戦で得た三河幡豆郡の沿岸部の所領を全て与える。その代わりに、鈴木家が大量に必要とする「干鰯」をその所領で生産させて上納する。穀物などの食糧は鈴木家が支援する。
水軍としては、鈴木家の伝手で紀伊国熊野に造船を融通する代わりに、三河屋と今川方の商船を保護し、他国の船から徴収した関銭は半分を上納する。
こんなところである。
「──かような仕儀にて、我ら岡崎の者も形原に出でば、船にて物を運ぶはたやすくなりてございまする。」
「よきかな。」
長高はわかったのかわかっていないのか、ともかく鷹揚に頷いた。
正直、長高は軍事の専門家として、ずっと武家故実の研究や将兵の訓練のみ行ってきたため、内政方面はすべて大林や伊奈熊蔵(というよりは鈴木家)の手配に任せており、あまり関心がなかった。
大林はそれを知っているため、だいたいは勝手に手配して事後報告で済ませていた。
今回も勝手知ったる大林は、続けて主君の関心が向くであろう軍事の話をすることにした。
「さても近くの松平の手の者につきては、まず平岩何某なる弓上手が参りて従う由申したゆえ、これを受け容れてございまする。」
「ほう、弓の上手とな。どれ、それがし後ほど見に行かん。」
長高は早速関心を示して言った。
この平岩何某は、九郎右衛門張元と言った。鈴木家と大給松平家によって滅ぼされた岡崎以北の松平諸家のひとり、松平張忠なる者の臣だったが、主君の帰農により牢人して岡崎に仕官してきたのだった。
「主君を裏切るわけではない」との心意気から、平岩は偏諱を受けた「張元」の名を改めなかったが、後で弓の腕前を見に行ってその話を聞いた長高は、むしろ気に入って弓隊の指揮官とすべく教育することにした。
「また、北の青山氏と酒井氏の一族においては、内々に相争わずの約定を結び、青山からは一族の虎之助なる子を質として預かり申した。」
「おお、酒井氏もか?」
長高は酒井氏は松平の重臣中の重臣と思っていたため、驚いて聞き返した。
「いかにも。もっとも、安祥の方の酒井氏まで約束に含むわけではないでしょう。『この地に住まう酒井の者らは』ということかと。」
「まあそうであろうな。とはいえ、これにて北の仕置は済んだよの。」
「いかにも。残るは東に本多作左衛門がおるゆえ、柴田殿を連れてそれがしがこれを討ち取りに出向きたく思い申す。」
「うむ。任せよう。さて、さすればいよいよ上野・安祥を攻むるか。勘助、その方は鈴木殿の心中いかに見るや?」
長高はうきうきとした様子で大林勘助に鈴木重勝の計画を尋ねた。
長高は岡崎を獲ってから重勝がなかなか動かないため、やきもきした思いを抱いており、以前、上方から帰参したばかりの大林に「いかなることぞ!」と詰め寄ったことがあった。
その時は、大林は「岡崎から東海道までの仕置が済めば、時は満ち、自ずと情勢は動くでしょう」と言って主君を宥めた。
そのため、長高は「時は満ちたであろう?」という期待の視線を大林に向けていた。それを受けて大林は少し考えてから、推測を述べた。
「長門様のお心をそれがしが語るはおこがましけれども、長門様は松平の力を恐れて守りを固めなさった。ただし、その『恐れ』は悪しきものではありませぬ。
我らが西進するより前、松平は2000かそれ以上の軍兵を集めることができ申した。それが今や松平の地をこそぎ取り、いざ足助に頼れずとなっても踏みとどまれるほどとなり申した。
鈴木家が盛んに村々を慰撫し街道を整備しており申すのは、確実に兵を集め物を運ぶためでしょう。さにあらば、兵のみ進みてあたりの村々を手懐けられずに、戦の間近になってあちこちで民が松平方として立ってしまっては、本末転倒。
まして偶然にも岡崎を獲りて後は、一帯を松平の支配から解き放つのに、予め算段したるよりもはるかに時と手間のかかるは明らかにございまする。」
ここまでを聞いた長高は、大林が重勝を引き合いに出して自分のせっかちを説教しているようで居心地が悪かった。
「また、長門様はよしんば幾たびか戦に敗れることありても揺るがぬ支配を求めておいででしょう。
兵は人ゆえ、減れば直ちに数を戻すこと能わず、他国より呼び集むるか稚児の育つを待たねばなりませぬ。揺るがぬ支配にはまずもって兵の数が必要なれば、兵が傷つくを避け、度重なる戦で民心離るるを防ぐに心を配っておられるのでしょう。」
大林はこのように述べて、鈴木重勝の臆病ともいえるような慎重姿勢に理解を示した。
しかし、長高にも急ごうとする言い分はあった。
「そのあたりはそれがしも承知よ。されど、時が経つことで利を得るはこちらのみにあらず。そはいかん?」
長高は、それだけ味方が地盤を固められるならば、敵方も準備を整えてしまうのではないか、ということを懸念していたのだ。
大林は主君の懸念に同意して答えた。
「それはもっともにてござる。おそらく長門様は、松平の清孝と信定とを相争わせて力を損ねさせ、まとまらざるよう仕込みてありまする。されどもそれがし、それは無理筋と思い申す。
松平は鈴木家の動きを注視しておるゆえ、安易に軍を起こせませぬ。戦わぬならば双方の憎しみはやがて和らぎまする。さすれば、後背の鈴木家が足元を固むるを見て『危うし』と思い、相争うの愚を悟ろうというもの。」
そしてしばらくすると、はたして大林の読みが正しかったことが明らかとなるのだった。
【史実】生駒豊政は織田信長の側室(一般には吉乃と呼ばれています)の祖父です。吉乃は織田信雄(と、もしかしたらその兄で嫡男の信忠)の母です。




