第34話 1521年「老いの方人」◆
松平の清孝と信定が睨み合う中、東の鈴木家は身動きが取れず、西の鈴木家に軍事行動を促していた。
今川氏親が頑張っている甲斐での戦況が思わしくなく、東の鈴木家はあれやこれやと支援を求められて、西三河に全力を向けることができなくなってしまっていたのだ。
とはいえ支援のかいあってか、福島助春を大将とする今川勢は甲斐国河内(駿河国に食い込んでいる南部)にとどまり、現地の有力国人・穴山信風と協力して武田信直(後の信虎)に対する抗戦を続けている。
◇
鈴木重勝は、東海道沿いで東西の三河の真ん中にある長沢城に入って、岡崎に繫がる道を守るための指揮を執っていた。
この道を守る位置にある登屋ヶ根と山中の砦を拡張し、見張りの兵を置いて、次の行軍時に向けて物資を集積させていたのだ。
東三河側の出発点となる御油城も土豪の林氏から接収して拡張工事を行い、鳥居源右衛門を置いて兵站線の管理をさせた。その寄騎として、街道の管理に慣れている近藤満用とその属僚・小枝左京進が配置された。
その合間に、重勝は西の鈴木越後守重直(小次郎)から戦果報告の書状を受け取っていた。
岡崎の北の地は、その西側を西の鈴木家に、その南側を東の鈴木家の突出した支配地域に囲まれ、孤立無援だった。それゆえ重直は、叔父で腹心の鱸藤五郎(重勝の次兄)を送って、この地域を平定させていた。
「羽布城より藤五郎兄上の軍勢が攻め下り、梶何某・木村何某を麾下に加え、大給の松平氏と合力して滝脇を攻め落とし、余勢を駆って岩津まで降したということだ。」
羽布城とは、岡崎から北東にだいぶ進んだ山中の城である。先に両鈴木家で一揆を結んだ際、足助陣営が田峯の菅沼氏から割譲させた拠点だった。
鱸藤五郎は、孫根城・梶信家と大沼城・木村新九郎信基を味方に加えながら西に進軍し、岡崎北方の山間の地域から松平勢力を一掃したのだった。
読んでいた文から顔を上げて鈴木重勝は満足気に小麦茶をすすった。
近頃、彼はお茶にはまっており、しかも貧乏性ゆえに、上方で流行っているような高価なお茶ではなく、安くて健康によいお茶をつくるのを趣味にしていた。
この麦茶も古くなった小麦を強く炒めて煮だしたものである。他にも出来のよくない緑茶の葉を強く炒った茶なども好んで飲んでいた。
「大給の翁は老いの方人にござるな。足助の小次郎、いや越後守殿もよく謀めぐらせたようだ。」
大給の翁というのは、松平乗元のことで、齢70をとうに越えてなお矍鑠としており、重勝は「老いの方人」つまり「頼りになる老人だ」と褒めたのだ。
この大給という場所は、矢作川の東側で、岡崎の北のあたりにある。川の向こうには酒呑鈴木氏が勢力を持っており、鈴木家と連携が取りやすい位置取りだった。
それも踏まえてこの長老は、昨今の東西鈴木氏の勢いから、そちらについた方が家を守ることができると考え、重直の誘いに乗ったのだった。
もともと彼は滝脇の当主・乗清の嫡男が宇利で戦死したため、その養子に自身の一族の者を送り込もうとしていた。
しかし、乗清はずっとその話を拒否し続けていたため、邪魔に思った乗元は、鈴木家に内応した際に合同で滝脇松平家を滅ぼしてしまったのだった。
重勝は、弟分だった小次郎重直が頼もしい味方として働いているのを知って喜んだ。
彼は兄・重政との内輪もめ以来、人前では小次郎のことをきちんと受領名で呼ぶよう心掛けており、呼び名を言い直したのはそのせいだった。
重勝は、続けて東三河に残してきた鷹見修理亮からの書状を読んだ。
「岡崎にて捕らえたる能見の松平次郎右衛門は、東三河に移された後、道や砦がよく整えられているのを見てようやく観念し、臣従を約したそうだ。されども『松平家との戦には関わるまい』と頑固な様とのこと。」
岡崎近くで捕虜とした松平次郎右衛門重吉の降伏のことを口にすると、また顔を上げた。
そして、側にいる五井の松平信長に「その方もこたびの戦には出ずにおくか?」というような視線を投げかけた。彼は宇利の戦いで戦死した松平元心の子である。
信長は、重勝の不安げな視線に対してはっきりと意思を示した。
「お心遣いは無用にござる。父と叔父の奮戦を以て、当家は松平宗家の御恩にはすでにむくい、奉公はすっかり果たしてございますれば。」
この若き信長の隣には、いつの間にかちゃっかりその腹心となっていた元は牢人の板倉頼重がいて、うんうんと頷いていた。
◇
五井の信長は、一連の鈴木氏による西三河侵攻のさなかに吉田鈴木家に臣従していた。
小笠原長高が海から攻め寄せる奇策によって竹谷・形原の松平氏を降した際、この信長は領内に住む板倉頼重の訪問を受けた。
「板倉右衛門にございまする。先代様ご兄弟にはご領地に住まうお許しをいただき申した。このご恩に報ゆるべく、こたびは攻め来たる小笠原氏に使いとして向かいて、亡き先代様ご兄弟のご領地の安堵を願いにまいりたく思い申す。なにとぞお許しを。」
信長は複雑な思いだった。
攻め寄せた小笠原氏はどうも鈴木氏の味方らしいが、鈴木氏と言えば父と叔父の仇であった。
とはいえ、これは戦での正々堂々の振る舞いの結果であり、特に父は「敵方の将と相討ちになる華々しい死にざまだった」と大変に評判高く噂されているため、恨むというのも違うような気がしていた。
むしろ、家中の反対を押し切って軍を起こした松平宗家の当主・信忠と、父・叔父の亡きあとに五井の所領を譲るよう迫った桜井の松平信定に反感を持っていた。
「そなたの亡き父と叔父への忠節まことに嬉しく思う。よしなに頼もう。」
そして結局、松平信長は板倉の提案に乗り、鈴木家に臣従することにした。
板倉頼重は小笠原長高の軍勢に同行して深溝城を落とす際に戦功をあげ、そのまま岡崎に入った。
そして、鈴木重勝の本軍が東海道に現れると、岡崎より使者として駆け、その働きと先を見るに敏な様をよく評価されて恩賞と五井の松平領の安堵が約束された。
それ以来、板倉は松平信長の腹心として仕えていたのだった。
重勝は、この信長が熊谷家にとって仇の遺児になるためどう扱うべきか迷い、とりあえず東三河には送らず、自分がしばらく滞在している長沢城で使うこととした。
近藤満用は、街道整備の仕事の合間にその様子を見て、気を利かせて熊谷氏に事情を説明すると、当主の実長は「立派な武士の息子であるから気兼ねなく受け入れてやってほしい」という書状を送ってよこした。
重勝はそのことを喜び、書状を松平信長に見せると彼も打ち解けた様子で、五井松平と熊谷の両家の関係は良好なものになった。
後には、熊谷実長は松平信長と会談し、その好青年ぶりを見て一族の娘を養女として信長に嫁がせた。
【史実】1521年の今川の甲斐攻めは失敗し、大将の福島助春は武田信虎の家臣・原虎胤に討ち取られます。