第33話 1521年「石川忠輔」
青山善大夫忠世の松平宗家への忠節は疑うべくもなかったが、岡崎陥落の報せを聞いてから落ち着きがなかった。
青山家は額田郡の百々のあたり、つまり矢作川の東岸で岡崎の北の地を治めていたが、このあたりは東から進出してきた鈴木家によって松平氏の勢力圏から切り離されそうな位置関係にあった。
そのため、なんとかして領地に戻りたく思っているのだった。
「やあ各々方、それがし、自領にほど近き大樹寺のことが心に懸りており申す。さすればいったんあたりを見に──」
「あな善大夫殿、そなたの眼は心のうちまで見通すか!それがしまさにこれより大樹寺のこと言わんとしておった。かの宗家菩提寺につきては、鈴木長門守より書状来りて『これを損なうことはないゆえ、安心なされよ』との由。敵ながらあっぱれなり。」
こう言って元気に遮る酒井左衛門尉に、青山は言葉尻をごにょごにょと引っ込めざるを得なかった。
せっかく本領に引っ込むための口実を見つけたと思ったのに。青山は恨みがましい視線を酒井に送った。
なんとなく青山の不安を理解して苦笑したのは石川左近大夫忠輔だった。
「善大夫殿にあっては、鈴木家がかように申せども、心安からざる様にござる。百々に詰めてもらうがよくはないか?」
「宇津殿ひとりに任すは危うく思われまするゆえ、それがしも!」
石川の助け舟に目を輝かせた青山は大きく頷いてこのように主張した。
宇津殿うんぬんというのは、先んじて岡崎に所領のある宇津左衛門五郎忠茂が「前線を見張る」と主張して帰郷していたことを言っている。
青山もそれに続こうとしたが、宇津は「岡崎まわりはまかされよ、後は頼む!」と言って去っていったために出遅れて安祥城に居残ることになってしまっていたのだった。
「されども今は少しでも将兵の惜しき時にて、青山殿にはあたりから集めた兵を率いてもらわねばなるまいとそれがしは思う。さにあらずや?」
これに対し、阿部定吉は苦言を呈した。
青山は所領から兵を呼び集めることができておらず、安祥城内には彼の手勢はほとんどいないが、その分、集まりつつある宗家の兵を率いる将として働くべきということだ。
当主である松平清孝が「青山には一隊を任せん」と応じると、諸将もそれに頷き、青山はやむなく留まることとなった。
「さても松平郷、岩津、大給、滝脇の松平各家より便りがないのは、訝しきことなり。」
話題を変えて、まだあどけなさの残る当主・清孝は不満げに言った。
彼は岡崎より北の松平氏の故地のあたりと連絡がつかなくなっていることを問題視していた。
本多平八郎助豊が続けて言う。
「先ごろは鈴木家から東海道沿いや海沿いの松平の一族が送り届けられたが、五井の大炊助は動かずとのこと。五井と同じく、さては岩津のあたりの者らも、一族なれども鈴木に与したのやもしれませぬ。」
鈴木家に所領を追われた海沿いの竹谷松平氏と東海道沿いの長沢松平氏は、安祥に帰参していた。
彼らは岡崎と形原の松平氏が滅んだことと、五井の松平大炊助信長が退去しないにもかかわらず鈴木家に攻撃を受けていないことを報告していた。
そうなると、五井の信長は敵に降ったとみるしかなく、連絡もなく戻っても来ない岩津や大給の松平氏も味方としてあてにならない。本多はそのように見ていた。
松平一族を貶めるような本多の物言いに、いち早く参集して評定に参加していた福釜と藤井の松平氏はむっとした様子を見せた。
両家は、宗家前当主・信忠の弟たちで、それぞれ三郎四郎親盛と彦四郎利長といった。彦四郎はまだあどけなさの残る若武者だった。
2人の不機嫌そうな様子を見て、信忠のもう一人の弟である松平甚太郎義春も不満げに口を挟んだ。
「それがし、六栗村にて小笠原の軍勢とひと当たりして帰った身であり、言い訳のように聞こえるやもしれぬが、やつらの勢いはいかにもいみじきものなり。
岡崎は謀略にて落ちたゆえ、あたりのお味方は兵を集むる暇もなく捕らえられたのではなかろうか。
本多殿の言は、いささか穏やかならざる言い様にやあらんか?」
松平義春の所領は、小笠原氏が沿岸部から岡崎に進軍するちょうど途上にあった。
せめてひと当てと思って集めた郎党でぶつかるも、数が違い過ぎて全く歯が立たず、安祥に帰参していたのである。
なお、安祥城では、岡崎は(実際はそうではないが)鈴木家の陰謀で開城したとみなされていた。
「あいや、それがし武辺のほかは至らずの慮外者にて、かたじけなくてござる。」
本多はすぐに謝って場は収まった。
気分を変えて石川が桜井の松平内膳信定の話を振った。
「小笠原は岡崎よりさらに攻め進む気配はないようだ。ここはまず内膳殿のこと思案いたさん。
内膳殿のお味方としては、上野の一城に拠って守る者らあり。これは西の鈴木家の後詰を待っておるやもしれませぬ。」
信定は桜井城だけでなく上野上村城も治めており、ここは松平氏の勢力圏でも北の方にあって鈴木氏との境にほど近かった。この城は信定の家老の堀氏が守っているとのことだった。
「上野の下村城に内藤右京進ありて、この者『宗家への忠義見せよう』との使いを送って寄越したゆえ、北をよく守ってくれよう。」
酒井は内藤右京進義清からの使いの内容を周知した。
上野下村城は上村城のすぐ南にある。この下村城を守る内藤義清は宗家に味方しており、上村城の信定勢やそれより北の鈴木氏に備えるとの連絡がすでに来ていた。
「それがしは鈴木家の後詰が来るより前に上野をお味方で固めるがよかろうと思う。」
石川は鈴木の後詰が来て上野上村城を落とせなくなる前に、下村城の内藤に後詰を出し、鈴木家の増援に先んじて上野上村城を落とすべきではないかと提言した。
「ふむ、いかにも。されども、桜井の軍勢をそのまま置くのでは、後ろから攻め立てられ挟まるる恐れあり。いま上野を攻むるは難しいのではないか。」
「内膳殿は一向衆を集めると聞こゆれば、兵の数はなかなか増しているに違いない。」
これに対し本多は懸念を表明した。それに酒井も便乗した。
そして、一向宗の話が出たところで、少々気まずげな空気が流れ、諸将の視線は石川に向かった。
これは石川氏が門徒衆の総代的な立場にあり、ここに集まる諸将の中にも、一向宗すなわち浄土真宗やそれと近い浄土宗の者は多く、石川氏の動きを窺うそぶりがあったからだ。
「なればこそ、桜井が定まらぬうちに上野を我らで固めるのがよかろう。」
石川忠輔はその視線を意に介さず、上野攻めを強弁した。
「上野攻むるをよしとする。」
もともと積極的に攻めようと考えていた松平清孝もこの言を容れ、かくして安祥宗家の攻略目標は上野上村城に定まった。
安祥の守将には石川が名乗りを上げた。何となく嫌な予感がした酒井左衛門尉は青山と自身の配下の榊原を副将に残したが、自らは主君に従って出立の準備をした。
◇
「我こそ松平宗家の家督を継ぐに相応しき者!一向門徒よ、我に続け!さすれば教団はきっとさらなる高みへと至るであろう!」
桜井城の松平信定は、城に集まった一向門徒にこのように呼びかけ士気を高めていた。
信定は清孝に反旗を翻すにおいて、近くの浄土真宗の本證寺に対して、寺領の拡大や特権の付与を約束して助力を請うていた。
本證寺の8代住持・源正は教団の勢力拡大を期待して浄土真宗の各寺に檄を飛ばしていた。
当初、僧の間では、門徒が抑圧されたわけでもないのに松平家内部の争いに介入することには慎重意見があった。教団宗主の実如が永正15 (1518)年に武装蜂起を控えるよう命令していたからだ。
そのうえ門徒総代の石川忠輔も清孝陣営に属しており、当初は兵の集まりはそれほど良くはなかった。
門徒が集結するようになったのは、源正が2度目の檄文を発した後だった。その檄文には、この動員は教団指導者の蓮淳も認めていると追記されていた。
高齢の実如に代わって教団を指導する蓮淳は、内々に源正に対して、三河での勢力拡大を要請していた。彼は兄・実如以外の兄弟たちとも教団指導を分担していたが、その兄弟たちが北陸の一揆で支配地を獲得したのに対して、自分は畿内に留め置かれていることに不満を持っていた。そこで、三河の一揆に介入して自分の領国を拡大しようと目論んだのだ。
2度目の檄文で桜井城と上野上村城の信定軍が急激に勢力を増し始めたため、清孝は焦りを覚え、兵が集まって編成が終わる前に上野上村城を攻め獲るべく行動を起こしたのだった。
「上野で戦が始まったか。」
使者から報せを受け取った桜井城の松平信定は、しみじみと言ってから、配下の一向門徒の頭目に命じた。
「よし!いざ合図せん!」
桜井城からの狼煙を見た安祥城の留守居・石川忠輔は突如として宗家に背き、城内の一向門徒を動員して一気に城を手中に収めた。
酒井氏の従属下にあって城に残っていた榊原氏もこれに呼応した。青山はなすすべもなく捕らえられてしまった。
門徒総代の石川忠輔は、本證寺からの檄文を受け取っており、立場上その要請に応じる以外の選択肢はなかった。
そして、いざ寝返るならばその効果を最大のものとすべく雌伏しており、評定でも清孝の目が外に向くよう誘導していたのだった。
「ええい!石川は宗門に搦め取られたか!この痴れ者めが!」
清孝は石川氏離反の報を聞いて、陣中の石川一族の重康・重政父子を成敗しようとした。父の重康を誅したところで、しかし、子の重政は捕縛に向かった者を切り殺して出奔した。
さらに激怒した清孝は浄土真宗や浄土宗の酒井、本多、阿部などをきつく問いただした。
「宗門が忠節に優るというのは、武士たるそれがしの道理に反しまする。かくなりては、それがしの腹を召して御覧に入れ、我がご主君におかれては諸将を疑う心をなにとぞ晴らせたまえ。」
主君の怒りを受け止めた本多平八郎は、このように申して切腹の覚悟を示した。本多が鎧を外して着物の合わせをガバリと開けたところで、清孝は自らの動揺と不明を詫び、ひとまず彼らを許した。
「おのれ信定!必ずやその首をあげてくれる!さてもひとまずは上野の城を疾く落とせ!」
そして、宿なしとなった軍勢の滞在先を確保するために、先にもまして激しく上野上村城を攻め立てて、その日のうちにこれを攻略した。
清孝は、城を守っていた信定の家老・堀氏を族滅し、その首を安祥の信定に送りつけた。
◇
「阿部はいかなるや?」
堀氏の死を見せつけられても「必要な犠牲だった」とあっさり言い切った信定は、いまや一の臣となった石川忠輔にこのように問うた。
彼が阿部氏を気にするのは、寝返るよう誘いをかけていたからである。
「阿部大蔵は、先には城から青山を引き剥がそうとする我らの企みに反対し申したゆえ、『内応なぞ聞く耳もたず』ということかとそれがしは思っており申したが、上野上村城に入りて心が揺らいでおる様子とのこと。」
「ふむ、清孝めに宗門のことを咎められたがゆえであろうな。」
信定は清孝の「次郎三郎」という呼び名を使わない。当主代々の名乗りであり、これを認めてしまうことは自分の主張を自分で否定してしまうことになるからだ。
信定は、本命の石川氏の寝返りを周囲に気取られてはならないため、阿部定吉に直接的に「石川氏に協力するように」と言い含めることはできなかった。
結果として、自家だけが誘われていると勘違いした定吉は、謀反の成功率は低いと見積もり、この誘いを無視していた。
しかし、信定勢が力を増すのみならず、阿部氏が門徒寄りの一族であることから主君の清孝に不信を覚えられているこの現状では、心が揺れているのだった。
「さても鈴木が動かぬのはいかなることか。」
「けだし、我らの相争うに任せ力を削ぐの謀にやあらん。」
「ううむ、さにあらば清孝めをさっさと降さねばなるまい。あれもそのことに思い至るに違いなく、さにあらば急ぎ和を結びて鈴木に備えるがよかれども……。」
信定は約束していたわけではないものの、それとなく匂わされていた鈴木家の後詰を期待していた。
門徒を加えても信定と清孝の勢力は均衡しており、後詰がなければ安易に動くわけにはいかなかったのである。
安祥城を落とした信定勢には、門徒総代の石川忠輔のほか、本多家からは正定や清重、また、渡辺氏綱なども加わっていた。いずれも一向宗に近い者たちである。
一方で、宗門の結びつきはあっても、酒井氏や本多平八郎助豊・忠豊の父子、上野下村城の内藤氏は宗家に背かず、別宗門の植村氏義や林忠長、宇津忠茂も清孝に味方した。
将兵たちは、その親族が信定方と清孝方の間で別れてしまった場合もあって、「次はいよいよ決戦」という運びになっても戦うことにためらいを覚える者が多かった。
だからこそ鈴木家の後詰を得て優勢になれば寝返る者もでてくるであろう。信定も石川もそのように思っていた。
しかし、鈴木家の動きは鈍く、当てが外れた信定方の安祥城においては、かえって鈴木への警戒心が強まっていくのだった。