第31話 1521年「幡豆小笠原氏」◆
「よもや岡崎がかくもたやすく手に入るとは。西郷殿、お手柄にござる。」
「はははっ。それがし日ごろの鬱憤を晴らしたに過ぎず。とはいえ、なにとぞ鈴木殿にはお口添え願いたく。」
「それがしは客将ゆえ確とは言えぬが、まあ心安く思うがよかろう。」
岡崎では鈴木家の客将・小笠原長高と西郷信員が話していた。
実のところ、岡崎落城はまったくの偶然の産物であり、重勝の策謀どうのというのとは直接の関係はなかった。
とはいえ、東西の三河を繫ぐ回廊部の出口の城を落とすべく、策を弄して小笠原長高の率いる兵を送り出してあったのは重勝の策であった。
両鈴木家がお家騒動に揺れる松平家の足を引っ張るべく手を尽くしていたのも確かであり、道閲・清孝の推測した鈴木家の謀というのもあながち間違ってはいないだろう。
◇
時は遡り、去年の松平攻めを計画する秘密会議のことである。
重勝らは、熊谷備中守実長の突拍子もない案を審議していた。
「陸より行くが丸見えならば、豊川を下りて三河の海より攻めるはいかん。」
実長は「言ってみただけ」というような感じで軽く言った。
「それまことに仕出かせば奇襲となり、幡豆郡まで押さえることかなうやもしれませんな。とはいえ、そのための兵を動かすに足る数の舟もなくば、たとい舟足りるとも、それだけの数が水面に浮かば、やはり丸見えでござろう。」
鳥居伊賀守忠明は苦笑しながら「無理だ」と答えた。
しかし、重勝は兵の輸送は何とかなると考えた。
「あいや待たれよ。兵は小分けして舟に潜ませ、いったん島に隠せばよかろうが……、されども島に集めし兵を岸辺にいっぺんに戻すには舟足りぬか。」
重勝の乗り気な様子に、鳥居伊賀守は少し考えて提案した。
「舟の数次第ならば、かのあたりの海賊衆を用いるのはいかがでござろう?三河屋の新太郎は海賊ともうまくやっておると聞き申すが。」
三河屋とはお抱え商人の浜嶋新太郎の屋号である。
「ふむ、新太郎か。」
会合は一旦お開きとなり、浜嶋新太郎が呼び出されて再開された。
「三河屋新太郎、当家の海賊衆とのつきあいはどうなっておるのか?」
「へえ、あっしの知るところでは──」
新太郎の報告をまとめれば、吉田鈴木家と海賊衆との付き合いは次のようなものである。
しばらく前に新太郎のためのイサバ舟を斡旋してもらったことをきっかけに、鈴木家は今川方の鵜殿氏と付き合いがある。
とはいえ今は、先の大地震で引き取った紀伊の流民の故郷である熊野の海賊・堀内党と親しい。
三河湾で有力な海賊衆は、知多半島では佐治氏と戸田氏、また水野氏傘下の海賊。渥美半島では戸田氏が圧倒的で、湾内の幡豆郡には小笠原氏がいる。
鈴木家は戸田氏とは仲が微妙で、佐治氏・小笠原氏とはそもそも付き合いがない、という状況だった。
「鵜殿氏に頼むは今川の力を借りるようで、後から口出しされると困る。佐治氏には伝手もなく、戸田氏は……。さても気になるは小笠原氏なり。小笠原と言わば、当家に信濃・小笠原家のお方おわすが、よもや親族か?」
新太郎は、小笠原長高が吉田鈴木家に加わる前から幡豆郡には小笠原氏がいたと聞いていたため懐疑的だったが、全くないという証拠もないので、言葉尻を濁して答えた。
「よもやそのようなことはありますまいが、もしやまさか……。」
そこで重勝は「本人がいるのだから聞けばよい」と嵩山城の長高に問い合わせる使いを出した。
日を改めて集まり、長高からの返事を確認すると、使者は驚くべきことを言った。
「右馬助様のおっしゃるところでは、弟御の安芸守定政様が先ごろ幡豆の寺部なる城を落としたそうにございまする。」
信濃の府中では長高の異母弟・小笠原長棟がますます勢力を固めており、長高の同母弟・定政は居心地が悪くなって兄の後を追って三河に流れてきていたのである。
「なんと!これぞ天運にてございましょう!あとは右馬助殿が弟御に渡りをつけられればよいのですが。」
「頼んでみよう。」
使者に再度問い合わせをさせると、長高は「小笠原の海賊とは幡豆の欠城の小笠原氏のことで別の家である」と返事をよこした。
重勝らは落胆したが、しかしその後、嵩山から続報を告げる使者が来て、「定政は欠城小笠原家と懇意であり『兵の輸送は任せてくれ』とのこと」と伝えた。
◇
こうして重勝は、小笠原長高を大将にして三河湾の小島に兵を隠し、信定の反宗家の動きが活発になると(そのように扇動したのであるが)、一気に幡豆の沿岸部を制圧させたのだった。
「兄上、久しくてござる!」
「うむ。おぬし今は安芸守と名乗っておるそうだな。一城の主とは、でかした。」
兄弟は久しぶりの再会を喜びつつ、素早く動いて松平氏の分家が治める形原と竹谷を降した。
彼らは突然の出来事でまったく対応できなかった。
これらの地の管理を弟・定政と幡豆小笠原氏に任せると長高は即座に北西に進み、道中にあった天野遠房の坂崎城を包囲した。この城を東西三河を繫ぐ回廊の出口を守る拠点とするためである。
すると包囲の最中に、物見の者が岡崎で変事が起きていることを伝えた。
「岡崎騒がしく、火の手のあがる様も見え申す!」
それを聞いた長高は、鈴木重勝が内通者でも用意しておいたのかと即座に考え、そして「かの者ならばやりかねぬ」と思って坂崎城を放置し、岡崎城に急行した。
近づく鈴木家と小笠原家の旗を見た岡崎城内の者は、城門を開いてこれを迎え入れた。
出迎えたのは、西郷弾正信員であった。
「よもや後詰があるとは思いもよりませなんだ。城主を討ちてもろともに滅びようと思うており申した。一度捨てた命、かくなりてはこの西郷弾正、それを拾いなさった鈴木家に従い申す。」
◇
西郷信員は親族を連れて東三河から出戻っており、当初は松平宗家が支配する安祥周辺に住んでいた。
しかし、松平のための戦で土地を失ったのにいつまでも代替地の提案もなかったことから、立場が宙ぶらりんの信員は憎々しく感じ、このような境遇に自分を追い込んだ松平家当主・信忠に恨みを覚えていた。
一方の松平家は腑抜けた信忠の後任の人選や信定の横暴について話し合っていて、西郷のことをすっかり忘れていただけだったが、そうとは知らない信員は、連れている家族の悲しげな様子にいたたまれなくなり、見切りをつけて親族所縁の岡崎に移ってきたのだった。
岡崎城は安祥松平家とは別の、岡崎松平家が支配するところであり、城主は松平信貞(昌安)といった。
彼の父は、それまで岡崎城主だった三河守護代の西郷家を降し、婚姻によって城と血筋を乗っ取ったのだった。
西郷信員は一族所縁の岡崎にやって来たはよいが、まともな知行もなく「このまま帰農するか」とも考えた。
しかし、安祥の方で松平宗家が家督をめぐって内紛を始めると、最後のあがきとばかりに岡崎城奪取の決意を固めた。松平家に家も血筋も奪われた一族の意趣返しのつもりだった。
信員が機会をうかがううちに、安祥につられて岡崎城も騒がしくなってきた。そのため、彼はあたかも「参陣せん」という顔をして登城し、母方を介して同族である城主・松平信貞(昌安)を殺害したのだった。
ついてきていた嫡男・正員を動かして城内に火を放つなどして、城ごと滅びようと振る舞ったが、長高が兵を率いて襲来すると「これも定めか」と悟って城門を開き迎え入れたのである。
【史実】岡崎城は三河守護代・西郷氏の居城でしたが、松平家に乗っ取られていました。
大永頃の城主は松平信貞(昌安)といい、乗っ取った松平家の血筋か元の西郷家の血筋かはっきりしませんが、1525年に清康に城を奪われました。
東三河の西郷一族は徳川家康に従い、2代将軍・秀忠の母・西郷局を輩出しました。