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戦国の鈴木さん  作者: capellini
第3章 松平編「宗家を継ぐ者」
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第30話 1521年「松平清孝」◇◆

 大永元 (1521)年。


 東西の鈴木家が田峯で喧嘩をしていた頃に起こった地震は紀伊国を荒廃させた。その大地震を凶兆と捉えた朝廷は元号を大永に改めた。

 この年、将軍義稙が管領の細川高国と対立して堺に逃亡し、これに失望した後柏原天皇は、まだ幼い足利亀王丸を次の将軍として認め、自身は即位後22年目にしてようやく即位式を行った。

 上方の擾乱ははさておき、三河でも騒動が起きようとしていた。


 ◇


「鈴木が攻め来るというのは、左衛門尉殿の気にし過ぎにあらんや?」


 安祥松平家の重臣・本多平八郎助豊が、重臣筆頭で長老の酒井左衛門尉忠勝に向かって言った。

 若手の植村新六郎氏義も阿部大蔵定吉もうんうんと頷いている。

 酒井がその二人にキッと鋭い視線を投げると、彼らは首をすくめた。


 しかし、浄土真宗の門徒の顔役としても大きな発言力を持つ石川左近大夫忠輔は本多に同意してさらに言う。


「しかり。去年も似たようなこと話し合ったが、田峯で鈴木家同士が争うだけであった。年始にも談合したが、結局、今川の甲斐攻めの軍役であった。甲斐はいまだ穏やかならず、よもや今年は攻めてくるまい。」

「されども、なおも米や矢束を盛んに買うのが知られておるぞ。」


 それでも酒井左衛門尉は言い募り、青山善大夫忠世と宇津左衛門五郎忠茂も頷いた。植村と阿部も頷いている。


 年始の今川氏の甲斐攻めとは、永正18 (1521)年(年内に大永に改元)の今川氏親の甲斐攻めのことである。

 甲斐の武田信直(後の信虎)は、前年から今井氏と大井氏ら国内の反抗勢力と対立が続いていた。

 その隙をついて、今川氏親は年が明けてしばらくして福島一党を送り込み、穴山氏の従属を取り付けていたのである。

 武田信直は国人の離反を防ぐべく、幕府に働きかけて従五位下・左京大夫の官位を得て、反攻の準備を整えていた。

 今川に従属する鈴木家は、遠国ゆえ派遣した兵の数は少なかったが、食糧をずいぶんと供出していた。


 それはともかく、酒井が「鈴木家は物資を集めて戦支度をしているように見える」と述べたのに対して、本多平八郎と石川左近大夫は顔を見合わせて「それはどうだろうか」と応じた。


「そうは言うも、東の鈴木家のしきりに売り買いするは和議の前からいつものことゆえ……。」

「左様、そのこと気にして和議結びてすぐの一昨昨年(さおととし)に『すわ約定破りか!』と兵集めたものの無駄骨になった。こたびもことさら日頃と異なる振る舞いではないように見ゆるぞ。和議にて定めた3年が過ぎたが、かくも攻めてこざるは『攻める気なし』の証では?」


 それを聞くと青山や宇津さえも「まあそうだが」という顔をした。

 酒井左衛門尉は心配しているが、他の者は「いつものこと」と警戒心が薄れているようだ。

 というのも、諸将においては、先の敗戦は当主・信忠の器量不足によるもので、それゆえに兵も集められず指揮も失敗したとみなされていた。

 彼らは「自分たちが協力して倍の兵を出してまともな将を置けば、鈴木家などに後れを取るはずがない」という、ほとんど事実であるがゆえに厄介な慢心を抱いていた。


 酒井はその危機感のなさに苛立ちを覚えたが、彼が苛立つのはそれだけが理由ではなく、そのことを集まった重臣たちは密かに承知していた。

 もともと酒井家は、他家から頭一つ抜き出た勢力を持つがゆえに、独立した家とすらみなしうるほどで、松平宗家からも格別の配慮を受ける家臣筆頭だったが、しかし近頃は、宗家の家督の扱いなどの諸問題をめぐって対立派閥ができつつあり、思うように意見が通らなくなってきていた。

 それゆえに酒井の苛立ちにはいわば私情が含まれているように見え、諸将においては「過敏になりすぎでは?」と思う者もあれば、その悔しそうな様に留飲を下げる者もあったのだ。


「鈴木は鈴木のこととして、今よりは松平の御家督のこと談合せん。」


 そう言って音頭をとったのは、石川左近大夫だった。

 4年前の「宇利の戦い」ですっかり腑抜けた当主・信忠は、まともに政務を執り行うことができない状態で、本人は出家や隠居を望む言葉をたびたび発していたが、家督相続の問題が解決するまでは残留の上で父・道閲入道が家政を取り仕切っていた。

 その様が見苦しいのは事実だったが、それに輪をかけて「当主不器量」の噂は不審なほど広まっており、かつては松平とともに戦場に出た土豪たちの中には距離をとる家も出てきていた。


「それがしは、北に東に鈴木家の勢い増す中にては内膳信定殿こそ当主に望ましいと思う。」


 内膳信定は道閲入道の三男であるが、その才気を認められており、先には信忠の家督相続の際にも当主候補に挙がっていた。道閲入道はその声を退けるために信定を桜井城主として転出させていた。

 本多は「ううむ」という唸り声を上げたが、石川のこの主張に同意するのかしないのかは、よくわからない反応である。


「されども、しかるべき序列に反する。それ許せば、後々の家督相続が乱れる恐れあり。殿のお子の竹千代(ぎみ)は齢11におなりであり、これを我らが支えて盛り立つるこそふさわしかろう。」


 すかさず酒井左衛門尉は反論した。青山・宇津・植村・阿部がこれに頷いた。


 酒井に対抗する勢力は、石川を中心とする勢力なのである。

 石川は同じ浄土真宗の本多と仲が良く、宗門の繫がりで有力な土豪も味方に加えていた。酒井家に従属するも密かに自立を目指す榊原氏にまで接触して、支持の輪を広げていた。

 とはいえ、家督相続に関しては、石川の誘いに対する本多の返事は色よいものではなく、重臣の評定においては十分な立場を確立してはいなかった。

 一方の酒井は青山・宇津に加え若手の植村・阿部を手堅く味方につけていた。


 つまりは、重臣と国人・土豪(特に真宗や浄土宗の者)で意見が割れる構図になっていた。

 重臣の多くは家中の秩序を重んじて現当主の嫡男・竹千代を元服させて支えることを主張している。幼少の主君の方が、彼ら家臣の発言力も大きくなり、自らにとっても有利だからである。

 その一方で、地域の土豪は戦となった場合に被害をこうむりたくないため、すでに指揮能力を認められている信定を担ぎたいと考え、その意見を代弁して石川が勢力を増しているのだった。


「されどそれではあたりの国衆は納得せざるは必定。今はできる限り兵を集めねばならず、国衆の心離るるはこの上なく危うし。」

「国衆が従わないというならば、竹千代様を押しいただきて我らの力にてかの者らをねじ伏せ、新たなる当主の武威を知らしめるよき機会なり。その武威知れ渡れば、鈴木家もたやすく攻め込むべからず。

 しかも、内膳殿の、いささか言葉悪しかれど敢えて言わば、あたかも増長したるがごとき振る舞いを見るに、当主にいただきても家中が安らかになるとは俄かには信じ難し。」


 酒井の言うように松平信定は、父に早くにその才を認められて甘やかされて育ったこともあり、我がままだった。

 五井松平の兄弟が4年前に戦死した後には、その遺児を差し置いて、「自分がその遺領を受け取りたい」と申し出て反発が生じていたし、兄・信忠を公然と嘲り蔑んだり、宗家の政治に口を出して尾張への出兵を強弁したりと、問題を起こしていた。

 しかしながら、一部の国衆は、この和平期間に現状維持や地盤固めに終始した松平宗家の振る舞いに内心で失望感を持っており、信定の好戦的・野心的な自信ある様に期待を寄せる者もいないわけではなかった。


 こうして喧々囂々、評定の場が騒がしくなり話もあちこちへ飛んで収拾がつかなくなり始めた頃、じっと聞いていた道閲入道は一喝して一同を黙らせた。

 道閲入道は、酒井の言を容れて、主敵の鈴木家に軍備の兆しがあることを踏まえ、それがまだ例年並みに収まっている今のうちに家督相続を終えてしまうことを目論んだ。

 そして大音声で言った。


「ここに定む!我が嫡孫・竹千代を元服させる!すでに東条の吉良様より『清』の偏諱を賜るべくお頼み申してあるゆえ、竹千代は『清孝』を名乗り、儂が後見する。諸将においては合力して我が孫を盛り立つるを望む!」


 諸将は伏して従った。


 ◇


 松平宗家の家督が「清孝」なる者の手に移ったと聞いた鈴木重勝は、夢で見た知識に照らしても全く知らない人物の名前に、首をかしげた。

 しかし、この清孝こそ、岡崎城を降して本拠地とし、その後わずか10年で三河一国を平定して尾張に喰らいついた「松平清康」その人であった。

 清孝は、岡崎城を獲得してその後に「清康」と名を改めるのである。


 若き清孝は祖父の助言のもと(まつりごと)に口を出し始めた。

 道閲入道は家中の分裂を避けるため、譲歩として、信定を呼び出して評定に参加させるようにした。

 そのため当初こそ信定も「やむなし」と思っていたが、清孝は信定を露骨に遠ざけ、雰囲気は変わってきた。

 もっとも清孝は信定以外の親族の発言にも酒井氏の発言にも重きを置いておらず、そもそも松平の諸家が分立していることも、重臣が力を持ちすぎていることもよく思っていなかった。


 そんなことは知ったことではない信定は、支持してくれていた石川氏の発言も軽視されるようになると、武力の行使もちらつかせるようになった。

 清孝は祖父の諫める声も聞かず、むしろ「反乱の兆しあり」として信定方の土豪を討伐した。

 こうして、いよいよ信定は兵を集めるに至った。


 安祥城の評定の間では酒井を筆頭に重臣が厳しい顔で集まっていた。

 石川は「ほれみろ、結局、清孝でもダメではないか」というような顔で酒井をにらんでいた。


「内膳のことなり。」


 清孝は声変わり前の甲高い声で告げた。


「かの者、いよいよ兵を集めて宗家に背いたところゆえ、これを誅すべし。」


 一見して信定方の石川は、ここで信定を庇うと自身も討伐されかねないため口をつぐんでいた。

 そこで、それに代わって本多が発言した。彼は清孝の家督相続に賛成して中立的な立場にあった。


「殿、内膳殿を討ち滅ぼすを避け、一戦の後に降らせて入道させなさり、諸家の臣従を勧めるがよきことかと思案し申す。」

「両鈴木家が動くに先んじて松平宗家の旗下に諸力を集めねばならぬときに、当主のそれがしに一度とて刃向けるは、はたして許されるべきことなのか?一戦せずとも忠を示す家があるならば、さにあらずは忠なき家ということではないのか?」


 清孝は東西の鈴木家が連動して動く前に地盤を確固たるものにしたいと考え、そのためには1、2年で周辺の勢力を糾合するなどして宗家の力を増したいと考えていた。

 それに抵抗するということの意味が分からないのか!清孝は近視眼的に振る舞う国人たちや、親族であっても積極的に宗家に協力しようとしない者たちのことを憎々しく思っていた。


 まだ幼さの残る清孝に鋭く言われ、返す言葉を探して諸将は口を閉ざした。

 するとその隙に、慌てた様子の小姓が入ってきて道閲入道に「危急の報せにて」と耳打ちした。顔色を変えた道閲は、清孝を呼び寄せて耳打ちした。

 2人は目を見合わせて頷くと、そろってすっくと立ちあがって怒鳴った。


「岡崎落ちたり!してやられた!信定は鈴木家と通じておるに違いない!」

「ええいっ!すべては鈴木の謀ぞ!各々方、ただちに兵を集めよ!信定を桜井城に封じ込め、鈴木の軍勢に備えるのだ!」


 「おう!」と応じる諸将は、祖父と孫の立ち居姿のよく似た様に、松平家に受け継がれた大将の器を見出して頼もしさを覚え、忠義の心を新たにした。



【史実】宇津忠茂の子・忠俊は「大久保」に苗字を改めます。三河の大久保氏は徳川家の古参の重臣家系として江戸期は譜代大名となります。


【史実】松平清孝は1511年生まれ、1523年に元服し、翌年に岡崎城を奪い、「清康」に改名します。1525年に足助鈴木氏を降し、1530年に熊谷氏を降して三河をほとんど統一します。同年に尾張・瀬戸方面に進出、1535年に尾張・守山に進出して暗殺されます。

 嫡男・広忠は1526年生まれ、その跡を継ぐ徳川家康は1543年生まれです。


挿絵(By みてみん)

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