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戦国の鈴木さん  作者: capellini
第3章 松平編「宗家を継ぐ者」
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第29話 1520年「仕組み」◆

 足助の鈴木重政と吉田の鈴木重勝のいがみ合いは解消され、三河北方の諸勢力の関係性は安定することになった。

 鈴木重直を旗頭に、足助・酒呑・寺部の鈴木氏と三宅氏、中条氏、田峯菅沼氏がまとまり、鈴木重勝を旗頭に吉田の鈴木氏と熊谷氏、設楽氏、奥平氏、長篠・島田菅沼氏がまとまった。


 政治的な緊張が緩んだことで、吉田鈴木家はさらに安定して勧農に努めることができるようになった。

 各種の物作りは規模を増し、土地はますます開発された。その結果、新たに開かれた地で毎年の作付け・収穫を行うための人手が足りなくなった。

 時間さえ経てば食糧生産の増加に伴い出産数も増えて人手不足は解消に向かうだろうが、現在の問題を解決するためにはそれを待ってはいられなかった。


 ひとまずは、ここ数年の飢饉で食い詰めた者たちを呼び寄せたり、先の大地震で被害がひどかった紀伊国熊野のあたりの困窮者を引き受けたりしてなんとか補った。

 この地震は東西の鈴木家が田峯で内輪もめをしていたときに発生したもので、紀伊国沿岸部は大変な被害を受けていた。

 永正年間は天災が多く、それらを振り返って重勝は相談役の熊谷実長にしみじみと言った。


「永正はまこと日照り、早霜、大水、地揺れの多きこと。」

「しかり。民を助けたまうべき幕府の頼りなきこと、噂になっており申す。」

「細川の管領様の『我こそが』と相争うは困ったことなり。」


 もう一人の相談役の鳥居源七郎も、管領の細川氏がまき散らす上方での騒動に苦言を呈した。


「まさに戦をしているそれがしが言うのは見苦しいけれども、どこもかしこも武家が相争い、飢える者多し。当家で貧民を呼びよせ養っているが、他家から『民を盗んだ!』との(そし)り受けるやもしれず、あまり派手にはできぬ。」


 こうした混乱のさなかに人を集めている吉田鈴木家は、他国から恨みを買う恐れがあった。重勝はそれを危惧していた。


「さればこそ近頃、当家では『(こう)』を結ばせているわけでござる。」

「うむ。ただし、講の素直なるうちはよかれども、自立するようなふるまいが度を過ぎれば危険ゆえ、その兆しがないかよくよく見守るべし。」


 源七郎が述べた「講」とは、個人の土地どころか一つの村も超えて農地を共同で管理するための組合であり、人手不足ゆえに鈴木家が中心になって組織したものだった。

 戦時には兵の不在の土地を管理し、平時には鈴木家が主導して開発したいわば「国有地」を管理する組合である。

 似たような組織で主に金融方面の扶助組織として「頼母子(たのもし)」「無尽(むじん)」があるが、それらと区別してこの講は領内では「官衙(かんが)講」あるいは「一領合力講」と呼ばれた。


 これらは熟練農民兵を中心にした徴兵単位でもあり、各講は鈴木家中の武士を「目付」として含みこんでいた。この鈴木家主導の広域の自治組織により、村ごとで自治を行ってきた惣や宮座は村や入会地の支配を独占できなくなり、鈴木家の村支配は相対的に強まった。

 つまり、武装農民を土地から引き剥がすことにある程度成功していたのである。

 とはいえ重勝は、この共同経営体が将来もしかしたら惣村一揆のような形で反抗するかもしれないことを警戒しており、それを防ぐための監視の必要性を家中にしばしば言い聞かせていた。


 周辺諸国が飢饉で苦しむ中、東三河の活気は良くも悪くも伝わり、盗賊が現れるようになったが、「講」に属する兵士が巡視し、目付の武士が討伐する形で、悪人をよく取り締まった。

 警察権はあくまで武士の手にあるという原則を重勝が重視したことから、ひと手間増えてしまっていたのである。


 その一方、お抱え庖丁人の多治見主水(もんど)の伝手で、その出身地である美濃国多治見郷から流れてくる者もあった。


「それがし、土岐の流れにて大畑に住した采女正定近と申す。尊家の栄えぶり聞き申し、お仕えいたしたくまかり越した次第。よろしくお頼み申す。」


 重勝は、この大畑定近に読み書き計算の能力が十分あることを知って大いに喜び、仕事が増える一方の鷹見弥次郎につけて、その負担を軽くするよう取り計らった。


 ◇


 このように勢い盛んな自家の様子を見て、重勝は、数年かけての大戦をするだけの力が備わったと判断し、豊川中流の東岸に開かれた庭野政庁において、秘密裏に作戦会議を開くことにした。

 しかも、今川氏親が病を得たとの噂も仕入れたため、それによって今川家の動きが鈍くなる隙に、三河を鈴木家のもとで統一するまでもっていきたいと考えたのだった。

 東西の鈴木家で松平氏を包囲・圧迫するという重勝幼少期よりの目指すところが、いよいよ現実的なものになってきていた。


「伊賀、備中、いよいよなり。」

「それがしは、亡き父より鈴木氏との盟は菅沼氏に抗うがためと聞いておったゆえ、よもやまことに西へ向かいて松平氏と事を構うるとは思っておりませなんだ。」


 しみじみと答えるのは備中と呼ばれた熊谷実長である。

 伊賀は鳥居源七郎のことで、二人は庭野政庁で家中や領内のご意見番を務めている。


 仮名(けみょう)を呼び変えたのは、近頃、吉田鈴木家中では体面を気にして官途呼びを推奨しているからだった。

 また、譜代がおらず外から来た者が多いため家中の序列が不確かなことから、秩序を保つために家臣の階級や役職を設定するようにもなっていた。


 とはいえ、ごく簡単なものである。

 階級は上から家老・城代格・物頭の3つだけで、足軽以下の者には組頭の位があった。彼らは功績・能力次第で物頭までは昇格できることになっていた。

 役職としては、「文方」「作事方」「倉方」の3部門にそれぞれ奉行が置かれた。

 文方は文書と判を管理し、判を押す業務(裁判や商人鑑札の発行)も担った。作事方は土地開発や土木工事全般、倉方は徴税と出納を担当した。

 文奉行は家老・熊谷備中守実長、倉奉行は家老・鳥居伊賀守忠明、作事惣奉行は鷹見修理亮久政が務めた。作事方には塩瀬や大畑など複数の奉行が属した。

 その他に「城番」が整備され、城代に任じられた者が「講」と連携して警邏・屯田・狩猟を行った。また、台所等の家政は別に「奥方」の所管とされた。


 鳥居伊賀守は思案する様子で言葉尻を濁して言う。


「噂を集むる限り、松平氏はまとまらぬとのこと。なれど、それに付け込むとても、いささか距離が離れておるゆえ……。」


 松平氏は分家が多く、当主の信忠が宇利の戦いの後に完全に腑抜けてしまったため、分家の統制が緩んでおり、まとまりがなかった。

 しかし、鳥居伊賀守はその現状を踏まえても松平に手を出しにくいと漠然と思っていた。


「まあ順繰りに考えてゆこうぞ。

 まずは北。設楽城の伊藤氏も長篠の下野守も当家とよく親しみ、一揆を結びし田峯も隣の信濃国の国衆も攻め来る気配なし。ゆえに北からは兵のある限りを集めるべし。」


 重勝のこの言には二人の相談役も頷いた。

 長篠下野守とは先の内通で長篠城主に復帰した俊則のことで、臣従にあたり田峯の菅沼氏との離別を示して、苗字を「長篠」と名乗るようになっていた。

 同じく島田菅沼氏は「島田」を名乗っている。


「黄楊野のすぐ東には奥山の者らがおる。とはいえ、彼らのみならば兵はさほどの数もなく、しかも三河に入るには峠を越えねばならぬゆえ、そこで防がば押しとどむるは難しくない。

 南は今橋と渥美。今橋を牧野氏が取り戻したが、かの者らは戸田氏と犬猿の仲ゆえ、よもや戸田に勝手はさせまいと思うが、戸田の抑えと、加えて松平を攻むる際の領内を通ること、その二つは相談せねばならぬ。」


 牧野氏は、戸田氏がその自立志向を警戒されて今川氏親によって討伐された際に、今川の支援で今橋城を回復していた。浜松・引馬攻めのころである。

 牧野と戸田は何十年も競合関係にあり、礼金でも積めば戸田に睨みを利かせてくれるに違いなかった。


「そこで気がかりがあるわけですな?」


 熊谷備中守が「いかにもよくわかっている」という顔で言った。

 鳥居伊賀守も一つ頷き、これに続いた。


「殿の見立てでは牧野一党に松平に通ずる者がおるとか。」

「左様、宇利の戦のときに。とはいえ、牧野氏が再び今川に服し、松平もまとまりを欠く今や、親松平の者はおったとしても尻尾を出しておらぬ。はあ、いっそ先ずは牧野氏攻めること能わば……。」


 牧野氏自体も多くの一族を抱えるが、それだけでなく家臣団や寄騎衆まで含めれば、牧野一党というのは大所帯である。今橋城主の信成がその全てを統制できているとは言えない。

 それは事実かもしれないが、鳥居伊賀守も熊谷備中守も、「それほど牧野氏にこだわらなくてもいいのでは?」と内心で思っていた。

 しかし、重勝はあくまで牧野氏に悟られて松平方に情報が伝わり、事前に防備を整えられてしまうことを心配していた。


「たとい修理亮の舅殿を介して通り抜けの約束をするとも、内通者がおれば、軍を起こそうとしていることは事前に松平氏に知られ、備えを整えられてしまうだろう。」


 修理亮とは鷹見弥次郎の今の名乗りで、その舅は牧野成種である。

 重勝はさらに今回の目標を述べる。


「こたびはまず西三河にて一城取り、これを足掛かりに先々じわりじわりと西へ進みたい。またその一城をあたかも(せき)のごとく守りて東を完全なる内地として安んじたいのだ。

 一城取ることこそ本意にて、時をかけて敵の後詰と争うは厳禁。そのためには敵方の籠る兵が少ないのがこの上ない。」


 重勝はこれから松平氏と争うにあたり、毎度東三河から侵攻していては手間と時間がかかるため、最初の出兵で西三河に拠点を確保したいと考えていた。

 また、それによって東三河を完全な内地とし、東三河から西三河に出るあたりの一城のみを守ればよい形にもっていきたかったのだ。

 重勝の存念を聞いた二人の相談役はしばらく考え、最初に案を思いついたのは熊谷備中守だった。


「あいや、そこはかとなき思い付きにて、まともに思案する価値があるかすらわかりかね申すが──」



本話で述べた官衙講は架空のものです。農業経営体としてはソ連のソフホーズとコルホーズの間のような形です。


【史実】大畑采女正定近は土岐氏の出で、織田家の武将・金森長近の父です。

 定近の父で大桑城に住んだ大桑定頼は、その父・土岐成頼と兄・土岐政房が2代続けて長男より下の子をかわいがって美濃を混乱に巻き込む中、兄・政房を支援し、隠居後は大畑に移住しました。

 大桑定頼には2子があり、次男の大畑定近は近江国金森に移りました。

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