第27話 1519年「子宝」
永正19 (1519)年。
勧農するにあたって鈴木重勝は文献収集に勤しんだ。
新たに事典『下学集』などを得て、その助けを借りて唐物の偉大な農書である『斉民要術』で養蚕や養魚の術を学び、『喫茶養生記』で茶の製法を調査した。
こうして領内の開発が軌道に乗った頃、重勝は、これらの書物を得るのに力を借りた堺の野遠屋・阿佐井野宗瑞のもとに挨拶に出向いた。
「文をいただいてより、お会いするはいつかいつかと心待ちにしておりましたよ、長門守殿。」
柔和な表情で宗瑞が出迎えた。
彼は当初こそ重勝が書物を本当に扱えるのか疑っていたが、その成果が堺に流れる商品として目に見えてくると、これを高く評価し、積極的に支援するようになっていた。
「こちらこそ雪庭殿にはよくしていただき、まことありがたきことにて。」
雪庭とは宗瑞の号である。
長門守も漢籍と医学に精通する宗瑞を、大商人としてだけでなく学者としても尊敬しており、両者は互いを立てていた。
「ますますご領地は栄えておられるご様子。書物をよくよく用いておられますな。」
「それはまこと雪庭殿のお力添えのおかげにて。さてもそのことにつき語らいたき儀ありまする。漢籍よく読む者招きて勧農のために知恵を借りたいのです。雪庭殿は誰か心当たりはおありか?」
「ふうむ……。近頃はすぐれた学者と聞こゆる高辻権中納言様ですら困窮ゆえに京におわすことできずというあり様なれば、在国をお望みの方はおられましょう。」
「管領様のお家騒動があり申したゆえなあ。」
このお家騒動は、永正年間に管領・細川政元が暗殺された後に生じた跡目争いのことである。
それに乗じて西からは大内義興が上洛し、彼も交えて畿内では細川氏の武力を伴う派閥争いが続いていた。
「足利将軍様といえば、幕府には武家の学者の方々もおられますが、松平が在京しておると聞き申すゆえ、当家の評判はよくないでしょうな。」
「寡聞にして幕臣の松平殿のお噂は聞き申しませぬが、もしそうなのでしたら長門殿は松平の将兵をお討ちなさいましたからなあ……。」
件の松平何某とは、引退後も松平惣領として実権を握る長親の長兄・親長のことで、幕府被官として在京していた。
とはいえ親長は高齢であり、後任の派遣も用意されてはいないため、じきに幕府と松平氏の直接の縁は切れることになる(そこまでは重勝の与り知らぬことであるが)。
この頃の松平氏は、戦死した五井松平兄弟の遺領や戻ってきた西郷氏の扱いを巡って落ち着きがなく、腑抜けた当主の信忠への反発などから非常に不安定になっていて、京に人を送るどころではなかったのだ。
「うむ。さすればお公家の方々か。できれば長く当家にご逗留いただき、公所で言うところの『外記』や『文章博士』のお役目をお頼みしたいと思っており申す。」
家中に文書業務を行うことのできる専門の人材が少ないことから、重勝は、「外記」すなわち文書作成の官吏として働くことができ、「文章博士」すなわち漢文の読み書きを教えることのできる者を探しているのであった。
「いさや……。ひととき在国しても、京に戻らんとされる方が多いでしょうから。とはいえ、声をかけてみましょうぞ。」
「かたじけない。それと……。」
長門守はためらいがちに話を切り出した。
「やや?いかがされましたかな?」
「そのう、それがし、室にややこができ申した。」
「おお!そはめでたし!されど浮かぬ様子、なにゆえにございましょう。」
「いやぁ、室は声の涼しげなるはいみじかれど、いささか身が細くありて……。」
「母子ともに健やかなるか、覚束なしと思わるるか?」
「左様。それがし、雪庭殿はおなごの医と聞き申した。お力お貸しいただけぬでござろうか。」
「ふぅむ、さすれば、出産とその後の赤子を養うための心得を認め、産女の肥立ちによいとされるものも集めてお送りいたしましょう。」
「おお、まことかたじけなく。事無く生まれ申した後には雪庭殿に子の名付けを賜りたいのだが……。」
「ほほう、それはよくよく考えておかねばなりませぬな。」
こうして宗瑞の屋敷で数日世話になり、遊学に出していた大林勘助の挨拶を受けるなどすると、道中の各地でも情報収集に努めて、やがて帰国した。
◇
しばらくして無事におつねは出産した。
生まれたのは男の子だった。おつねはことのほか喜び、そして、安心したようだった。
「あぁ、赤子が無事生まれて、まことに心のつかえがとれました。」
「うむうむ。つねも早く健やかにならねばな。養生によきものからお湯をつくらせたぞ。ほれ召されよ。」
おつねの産後の肥立ちがやや悪く重勝はやきもきしたが、宗瑞の指南書や、四条流の多治見が栄養のよいものを用意したこともあって大事には至らなかった。
宗瑞に連絡した重勝は返事を受け取り、そこに記された息子の名前にたいそう喜び、盛大に返礼の品を送った。
そして、評定において、大きな紙にでかでかと嫡男の名を書いて、これを知らしめた。
吉田鈴木家待望の嫡男の名は「瑞宝丸」といった。
◇
かくして熊谷家・設楽家を吸収した鈴木家は、6000貫少々の収入を持つ(石高にして2万5000石足らず)東三河における一大国人に成長し、いよいよその蓄えた力を吐き出す時を迎えるのであった。




