第26話 1517-19年「味酒」
鈴木と熊谷の両家の農地開発は、多額の資金をつぎ込み急いで行われていた。
小姓の熊谷与次郎はまだ幼く高い声でその理由を尋ねた。
「殿、なぜそれほどまで急くのですか?」
「うむ与次郎、我らはこれまでも万事を急いてなしてきた。」
「はい、父から聞いておりまする。」
鈴木家の内情を知らない設楽三郎清広も興味深そうに聞いている。
数えで17歳の重勝が10代初めの小姓三人組に物を教えるというのも妙な光景である。
しかし、幼い頃に夢の中で人生を一周している重勝は、息苦しい未来世界で揉まれており、歪ではあるものの相応に老成した人格をもっていた。
そのため、彼の小姓教育は不思議と様になっていた。
「初めは、攻むるにしても近くの敵ばかり、また攻めらるるにしても援軍の見込みなしという有様であった。
それゆえ、普段必要な分をとり分きて、『いっそのこと糧も秣も蓄えずに倉を空にしてしまえ』とばかりに、集めたすべてを商いと作付けに使い、又の年に得られるものを無理やり増やしていたのだ。
そうでもしなければ、動くに動かれぬほど小さき身代だったからな。」
「あなや!なんともはや……。」
他の二人より一段と大きな驚きの声を上げたのは、冨永孫大夫だった。
この少年は、野田の代官にするという建前で吉良配下の牟呂城・冨永氏から引き取った三男坊で、元服したばかりだった。
彼は物心ついてからずっと鈴木・熊谷家中で育てられ、大人たちから色々と話を聞かされてきたが、誰も彼も「日々民を慈しんでいる」とか「よき巡り合わせだった」とかいった話ばかりで、そのような博徒がごとき所業は初めて聞いたため、驚いたのだった。
「されど、物の出入りが激しかったがために、倉に物がいかばかりあるか、まことのところはそれがしと源七郎しか知らなんだ。世間を欺きて家を大きく見せ、その空ろなところに後から実を詰めていったのだ。
今も同じにて、松平との和平の間に無理をしてでも力をつけねばならぬ。また、そのために忙しなく物の出入りするは、たとえ戦支度を密かに進めようとも、敵の目を欺くことになろう。
……まあ、あまり真似るべきものではないが。」
「……左様でございましたか。」
清広は嘆息して言った。
若い清広の目には、設楽家は周りの状況が目まぐるしく変わる中で何もしてこなかったように見えており、「どこかで踏み出していれば自家も躍進していたかもしれない」と口惜しく思っていたが、そういう話で済むものではなかったのだと理解した。
「倉方のことで、もひとつ肝あり。」
「なんでござるか!聞きたし!」
幼い熊谷与次郎はこらえきれずに問うた。
「たとえば二人の商人、同じものを別の値にて売るあり。おぬしはいずれを買うか?」
「安きものなり。」
「であらば、もひとり商人が来りてさらに安きを売る。おぬしはそちらを買うか?」
「理にも過ぎたり!」
与次郎は賢しらにふんぞり返って「そんなの当然すぎる!」と答えた。
その自信満々の様は微笑ましく、一同の笑いを誘った。
「うむ。であらば、今度は我らが土地から収穫した米を売るに、稲刈ってすぐは他領からも同じく米が売られよう。そのとき米を買わんとする者、いかがせん?」
「それは……、なるたけ安きを求めましょう。」
「左様。それでもなんとかして米売りて武具なりを欲するならば、値を下げて売らざるを得ず。されども、刈田してしばし待って売らば、他の売ろうとする者は少なく、買おうとする者は安くなくとも今あるを買わざるを得ず。」
「おいさりさり!」
与次郎が納得して喜ぶと、最も年長の三郎清広が思案して言った。
「すなわち買うは安く売るは高く、さにあらずや?」
「三郎の賢しきこと、人頼めなり。」
要点をよくまとめた三郎を重勝は「その賢さは、頼もしいことだ」と褒め、三郎ははにかんだ。
その上で重勝はこれまで行ってきた商いのことを思い返してこう述べた。
「刈ってすぐや、豊作の時に安く買うはよい。一方で、疫病やら不作やらで米が少なき時に高く売るは確かに銭を多く得る術なれども、それは仁の徳に反するもので、商人が厭わるる理由なり。我ら武士は『一人のみ良し』では敵ばかり作ってしまうゆえ、かかる仕儀なすは、よほどの時のみとすべきと思う。」
重勝は続けて「あからさまな行為は人に恨まれ、やがてそれは自分を窮地に追いやるだろう」と締めくくり、三人の若武者たちに気を付けるよう説いた。
そして最後に鈴木家の方針を述べてまとめた。
「一年早く畑を開き、一年早く種を買い、一年早く工呼び取る。さすれば当家の力は先んじて高まり、機を見て他家の隙に付け入ることができよう。」
他二人に後れを取るまいと冨永孫大夫が質問した。
「さればこそ、赤引糸も銭を叩いてますます作らせているわけにてござりまするか。」
「いかにも。それがしは宇利の戦の後、領内を見て回り、寺社や民に話を聞き、少しでも早く食い扶持を増やし銭を稼ぐための種を探しておった。
その地に合ったものを早く多く作りて売り、それを元手にまた増やす。こればかりは当家が将来いずこへ向かおうとも変わることあるまい。」
引馬戦後、重勝は実長とともに宇利で戦死した彼の父・重実と弟・直運の葬儀を厳かに執り行い、戦没者のために石碑を建て、不具となった一部の戦傷者と戦死者の妻子たちを預かった。
重勝はこの者たちの食い扶持探しのために領内を回って、大野の赤引でしばらく前まで生糸が作られていたことを知り、地元民の指導下で彼らに養蚕業を任せた。
養蚕が途絶えたのは応仁期の混乱によるそうで、幸いまだ技術を持つ人々は死に絶えていなかったため、銭を投じて桑と蚕を買い集めると少量ながら生産はすぐに再開できたのだった。
◇
鈴木家ではその他に平地では二毛作、養鶏、川魚の養殖に取り組み、山麓では綿作、製茶、製材、紙漉き、炭焼き、木工などを奨励している。
「それにしても木馬を材木のみならず他の諸々運ぶに用いることになるとは。支度は大変であったが、いったん木馬道をよくめぐらせれば、なかなか勝手がよいものだ。」
鷹見弥次郎が相伴の伊奈熊蔵に話しかけた。
熊蔵は小笠原長高の家臣であるが、弥次郎と仲が良く、領内の開発を協力して推し進めていた。
「木馬」とは、木を切り出すために傾斜地で使われる橇で、材木を敷き詰めた木道の上を滑らせて使用するものである。
吉田鈴木家では農業関係で頻繁に物資を運ぶ地点の間に、木馬のための木道を敷いて、人力で押すか引くかして、あるいは牛馬に引かせるなどして物を運んでいた。
重荷がぬかるみにはまってしまうことがないため、多少は流通が効率化していた。
弥次郎はそうやって荷を運ぶ者たちを眺めながら、手に持った壺を掲げ、「さても酒の出来やいかに」と酒を口に含んだ。
熊蔵も「さてもさても」と舌なめずりをして酒を含み、喉を鳴らして呑み込んだ。
「ふうむ、口に触る様はいささか薄きような気もするが、もとが安酒だったにしては実に味酒なり。」
「喉の通りが軽く、それがしは好みなり。炭を酒に浸して澄ますはまこと妙なる業にてござる。」
鈴木吉田家では祝いの席などのために上等な堺酒を購入していたが、高価であるし輸送が大変だった。しかし、そういう上等な酒を自前で作ろうにも、酒造の肝である麹の扱いや醪の秘技に通ずる者が近くにはいなかった。
そのため、知多や渥美から品質のよくない酒を安く買い、「濾すと言わば布、水を澄ますは炭、悪しきものを除くは火なり」という重勝の主張に基づき、綿布で濾し、炭を浸して、最後に火を入れ、品質をよくする努力が重ねられてきた。
低温で焼成された黒い木炭は酒に入れて放置すると崩れて台無しになってしまうため、高温で焼成された硬質の「白炭」の生産が試みられるようにもなった。
近頃は上質の炭を使ってよい出来の「改造酒」も作れるようになってきて、購入時の数倍の値で上方や、西三河、尾張で売って小銭を稼いでいる。
「なかなかによいのではなかろうか。こたび作りし酒も三分はたくわえ、五分は売りて、余りは岩瀬殿らにて分け合うがよい。」
「いやはや、ありがたきことにて!」
このように答えたのは、三河湾沿いに城を構える岩瀬氏安という者である。
酒を仕入れて野田に運ぶにあたって、沿岸部の岩瀬氏と誼を通じるのが有用だったため、鈴木家は彼らを優遇し、酒の改造の秘伝を分け与えて家中に取り込んだのだった。
岩瀬は重勝から「造酒佑」なる受領名を与えられ、代々世襲することになる。
鷹見弥次郎や伊奈熊蔵の仕事は、こうした職能集団の働きに支えられていた。
その中には岩瀬氏のように牧野氏の勢力圏から引き抜かれた者たちも含まれた。
同じく牧野氏と親しい真木氏からは、その傘下の鍛冶衆である中尾助九郎・藤原重家・真木定善らが鈴木家に取り込まれていた。
当初は仕事を請け負うのみであった彼らも、鈴木領内で開かれた鍛冶場の指導を高禄で引き受けるうちに、「両属なれども鈴木家寄り」という状態になっていた。
彼らは開発のための道具を作ったり、諸々の材料などを調達したりするのに非常に重要だった。
とはいえ、このような引き抜きは牧野氏にとっては迷惑な話であり、彼らの鈴木家に対する印象は悪くなったに違いない。
一方の重勝は「牧野一党の中に松平に通ずる者がいるのではないか」という疑いを捨てきれていなかったため、無意識に相手に不利になる行動をとったのである。
いずれにせよ、両家に挟まれる弥次郎の舅・牧野成種は心労が絶えなかった。