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戦国の鈴木さん  作者: capellini
第2章 熊谷編「宇利の戦い」
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第25話 1517-19年「義を見て」◆

 「宇利の戦い」の後には熊谷家と鈴木家の関係も変化した。


「家督を嫡男・次郎左衛門に譲りてそれがしは父と弟の菩提を弔うべく入道したい。長門殿はどうかせがれに目をかけてやってほしい。熊谷・鈴木の両家がそろって栄ゆるを望む。」


 熊谷備中守実長は評定において、長門守重勝に向けて頭を下げ、隠居を切り出した。

 まだあどけなさの残る嫡男の次郎左衛門直安も、すでに話を聞かされていたようで、その横で続いて頭を下げた。

 実長は自分が隠居して元服したばかりの嫡男が当主となれば、自然と両家の支配権は重勝の手に移るだろうから、その状態で時間の経過を待ってゆるやかに両家の統合を進めようと考えたのだ。

 なにしろ父と弟を喪って幼い子らしかいなくては、家政が立ち行かない。実長は独力で家を運営することはできないと判断していたのである。


「あいや備中殿、この上なくつらいことゆえ入道を願うお心持ち、いかばかりかと思いやるも、我らは未だ松平どころか菅沼すら追い立てるに至っており申さぬ。

 我らの未来はまだまだこれからにて、なにとぞ思いとどまり、貴殿はこれからもなお熊谷・鈴木両家の(おも)しとしてあり続けることをそれがし切に望み申す。なにとぞ。」


 重勝は実長の突然の申し出に驚き、深々と頭を下げて慰留した。

 家族を喪った悲しみを差し置いてもなお働き続けることを求めることに心苦しさを覚えながらも、現時点で人を率いることのできる者がひとりでも欠けてしまうのは大いに痛手であるため、重勝も真剣に頼んだ。


「……さまで言わるれば入道とり止むほか仕方ないけれども、やはり今の我らの間柄は少々歪であると思われる。かくなっては序列をはっきりすべきであろう。

 すなわち、熊谷の家は長門殿を主君に立てたくてござる。今や熊谷家中にはそれがしとせがれ兄弟のみにて人手足らず、また家中の諸々はすでに長門殿の指図するようになって久しいがゆえなり。」


 しばらく考えて、実長は出家はしないにしても、主君として立ってほしいと頼んだ。

 彼としては、もし自身の隠居後に重勝の身に何かあれば、あわよくば「鈴木家が熊谷家に組み込まれる」という形にもっていけるような余地も残すべく、現時点では互いの関係を曖昧なままで済まそうという野心もあった。

 しかし、あまりに必死に重勝が隠居を思いとどまるよう頼むものだから絆されて決意が鈍り、結局、実長は熊谷家を鈴木家の下に置くよう申し出たのだった。


 重勝はこれまで両家の区別なく家政を取り仕切ってきた。だからこそ「奉行」などと呼ばれていたわけであるが、家の垣根なく土地の開発を行ったことで、内外からは土地の管理者は吉田鈴木家であるとみなされていた。

 実際、新たに臣従した塩瀬甚兵衛などの者たちも、実長と重勝のどちらを主君として仰げばいいのかわからず、内心で困惑していた。ほとんどの指示は重勝から飛んでくるからだ。

 実長としては、豊かになった現状に感謝もあれば、熊谷家当主の立場に実権が伴わないかのようで、立つ瀬のない気持ちも生じてしまい、複雑だった。家中のことをほとんど重勝が差配していることは今さら覆せないし、それが両家にとって悪いわけでもないと彼は重々承知しているのである。

 そうであれば、彼に取ることのできる選択肢は限られていた。隠居はその一つだったが、それが難しいとなれば、彼に思いつく選択肢はあと一つしかなかった。

 こうして実長は、己の心に重勝に対する疎ましさや妬みが広がる前に、熊谷を担いで鈴木に対抗する勢力が出てくる前に、臣従を決めたのだった。


 かねてより内々に実長から出家の悩みや家中の秩序について相談を受けていた鳥居源七郎は、彼の決心を尊重して後押しの言葉を発した。


「殿、備中殿が当家に深く信頼を寄せるのはこの上なく尊きことにて、これをお受けせざるは『義を見てせざるは』というもの。」

「……いつの間にそのようなことを学んだのやら。」


 重勝の漢籍かぶれにあてられて源七郎もいつの間にか『論語』を学んでいたようだった。

 「義を見てせざるは」というのは『論語』の一節で、それに続くのは「勇無きなり」であり、すなわち「いくじなし」ということである。

 そうまで言われては引くに引けない重勝は、実長とその嫡男・直安の手を取って「両家はこれより全く合一せん」と真剣な面持ちで答えた。

 実長は晴れやかに笑った。


 ◇


 熊谷次郎左衛門直安は一軍の将となるべく小笠原長高の指導を受けることとなり、次男の与次郎はまだ元服前のため重勝の小姓として仕えつつ教育を受けることとなった。


「源七郎、与次郎を側に置いて思うたのだが、次の代を育むは早ければ早きほどよかろうな?」

「そうでしょうな。当家は常々人足りず人を育むは大切にござりましょう。」

「なれば、さらに小姓あるいは近習を増やしたくあれど、心当たりやあらん?」

「ふうむ。」


 源七郎はまず最初に冨永氏から預かった幼子を思い浮かべた。


「冨永家より預かった子は未だ幼けれども近々元服するがよいかと。これを加えましょう。」


 重勝は頷いて了承した。

 源七郎は若者を抱える他の家々を思い浮かべて答えた。


「先ごろ家中に加わりし塩瀬と近藤の家は、ふさわしき子や孫はおらぬと聞き申す。」


 塩瀬家は野田菅沼氏を追い払った際に臣従した家で、甚兵衛の家には年頃の孫がいるが、祖父や父の仕事を側で学ぶだろうから候補から外された。

 近藤家は熊谷氏に服していた宇利の土豪であり、主家・熊谷氏の臣従を機に鈴木家中に組み込まれていた。

 当主の主税助(ちからのすけ)満用には、嫡男の他に次男もいるが、二人ともすでに(とう)が立っており、近習には向かなかった。


「近藤は本坂通の道守(みちもり)をよくいたしておると聞く。嵩山(すせ)の城も伝馬(てんま)もうまくいっておるようで何よりぞ。」

「まことそのようにて。」


 近藤主税助は、西郷屋敷攻めの際に加わった小枝左京進の補佐を得つつ、いなくなった西郷氏の土地に築かれた城に詰めて、遠江から西へ抜ける本坂通の管理を任されていた。

 その城が「嵩山城」である。これは小笠原長高の指導のもと十分な防備を施されており、重勝が「『すせ』という地名が珍しいから」という理由で名付けたものだった。

 この地の南には戸田氏の二連木城があるため、吉田鈴木家にとっては重要な防御拠点だ。


 また、伝馬というのは、「宇利の戦い」を受けて将来的に領内での迅速な情報共有が必要になると思い至った重勝が整備させた騎馬伝令のことである。

 吉田鈴木家の支配地域の東端で、今川方の遠江に連絡を出すのにも便利なこの嵩山の地に、連絡用の馬を置いて近藤主税助に管理させていた。

 伝馬は他に長篠城、野田城、宇利城、柿本城にも置かれた。また、川では要地の渡し守と専属の契約を結び、伝馬制を補完した。


 ◇


 ところで嵩山城建設の折、築城術を学びたいという若者が、鷹見弥次郎の舅・牧野成種の紹介で訪ねてきた。


「それがし大林家の勘助と申しまする。牧野家に仕える山本家の出にて大林家に養子に入り申した。名高き小笠原流をお受け継ぎの右馬助様のもとにて築城の術を学びたくまかり越してございまする。」


 この者は成種家臣の大林勘左衛門貞次の養子・勘助なる若武者だった。

 彼は武者修行に出ることを望んでおり、養父・大林貞次はひとまず近場で有名な小笠原長高に弟子入りできないか主君の牧野成種に相談し、このような仕儀となったのだった。

 大林勘助は長高にひっついてよく学んだ。

 この勉強熱心な訪問者の噂は重勝の耳にも届き、この者が「やがては諸国を回って遊学したい」とこぼしているのを聞くと、支援して堺の豪商・阿佐井野のもとに送り、畿内で数年ほど遊学させてやるのだった。


 ◇


 話は戻って重勝と源七郎の小姓探しである。


「あとは、長山将監なる者もおったが。」

「かの者も親族は多くないとのこと。また、野田や嵩山にて物頭たるべく学んでおる最中で未だ支度整わずと見えまする。」

「左様か。」


 長山将監は野田の南の長山城を有する土豪だが、熊谷・鈴木家が松平を退けたことで、従属を願い出てきた。

 彼は野田や嵩山で物頭や作事奉行としての仕事を学んでいるところだった。

 長山城は牧野氏との領境になるが、野田城が堅牢であるため、攻め込まれた際はそこまで引くべきであるという結論が出ていた。それゆえ、この城は周囲の開発の拠点として使用されるにとどめられた。

 その牧野氏も、引馬攻めのすぐ後に今川家の支援で今橋城を回復して、今川家への従属度を強めており、むやみに敵対はしないだろうと判断されていた。


いさや(そうですなあ)……おおそうだ、設楽氏がおり申した。」

「設楽氏か。岩広と川路の二城で家が分かれておったが……ああ岩広に歳若き者がおるな。」

「いかにも、それがしもかの者のことを思い浮かべ申した。設楽の若武者を近習にて取り立て申すがよいやもしれませぬ。話をつけておきましょう。」


 野田と長篠の間を支配する設楽氏は、南北を鈴木家に押さえられ、田峯菅沼氏も松平氏も寄せ付けないともなれば従属せざるを得なかった。

 従属勢力の中で最大の設楽氏には重勝も源七郎も格別の配慮をしており、岩広城主の嫡男・三郎清広を近習に取り立てて重く用いる姿勢を示すことにした。

 一方で、川路城の左馬頭貞長・雅楽助貞重の父子には、そのまま所領の管理を任せてその立場を尊重した。


 なぜ所領の管理を任せることが立場を尊重することになるのかというと、鈴木家の者は各自で自分の土地を持つのではなく、家全体で所領を管理しているため、それに比べれば特別だったからだ。

 鈴木家の者たちは外から移ってきたため元々の家領がなく、熊谷氏も人手が足りずに土地の管理を鈴木家に委ねており、両家では土地の所有者や境にこだわらずに奉行が一括して土地を開発して徴税・徴兵をしているのだ。

 とはいえやがては設楽氏も支配地の領主として帳簿上は登録されつつも、奉行になったり武将として転戦したりして直接の所領経営ができなくなり、食い扶持を銭か物で受け取るようになる。


 ◇


 かくして鈴木重勝は熊谷氏と設楽氏を家臣化し、北東の端を大野・長篠、南西の端を嵩山・長山とする一円的な支配地域を獲得した。

 彼はその真ん中の庭野の地に屋敷群を築かせ、政庁を置いた。ここに鳥居源七郎と熊谷備中守を常駐させ、領内で商いをする商人に対する鑑札の発行と徴税、訴訟の受付を担わせた。

 村々に対しては惣の自治を従来通り認める一方、謀反・内通・徴税逃れに関する罰則を通達し、顔役の名と人相を庭野政庁に届け出させ、奉行による農地の一括開発を受け容れさせた。

【史実】大林勘助は有名な山本勘助のことです。出自や初期の来歴は不明瞭です。1520年頃に武者修行に出かけ、1536年に今川家に仕えようとしますが待遇に不満があり、1543年にその境遇と彼の築城術に目をつけた武田家に引き抜かれます。

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[一言] 超ネームド山本勘助や!
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