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戦国の鈴木さん  作者: capellini
第2章 熊谷編「宇利の戦い」
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第24話 1517-19年「庖丁人」◆

 永正14 (1517)から16 (1519)年にかけて。


 松平との3年の停戦の間、鈴木長門守重勝は拡大した領内の整備に注力した。

 各地で飢饉が相次ぎ、周りの諸勢力の手の者が食い詰めて攻めてきたり、盗賊が出たりしたが、滅ぼすか食い物を与えて領民に取り込んで大過なかった。

 熊谷・鈴木の所領が堅調に発展する間、重勝を取り巻く環境は色々と変わっていた。


 ◇


 まずは重勝自身の結婚である。

 これは引馬の戦の後の永正14年中に行われた。

 重勝は先の戦の戦死者の喪に服すために翌年に延期しようとしたが、熊谷家中や農民たちは、明るい話題があった方がいいし、早く世継ぎを儲けてほしいと願い出たため、婚儀は予定通りに行われた。


 重勝は結婚にあたって駿河に人質に出していた母・お秋を事前に招いていた。

 朝比奈家から人が来ると落ち着いて話せなくなるため、準備の合間に時間を取って母と語らった。


「ふんとうに立派になって。」

「かかさまは駿府でおつね殿をご存じなのでしょう?いかなるお方ですか?」


 お秋は息子の結婚に感極まって涙を流していたかと思えば、重勝が若干そわそわして新妻のことを尋ねると、ぴしゃりと言った。


「ほんなのええ人に決まっとるに。まあ(もう)ちょっとで会えるのやから、ごちゃごちゃ言わんと『でん』と待っとればええだに。」

「そうは言われますが。」

「あ、ほうやった。ほんなことはええから、ちと語らいたきことあるのや。」


 お秋は息子の晴れの姿を見て流した涙も乾かぬうちに、相談事を切り出した。

 お秋は父・忠親の下女であり、物心がつくまでは重勝は庶子扱いで乳母をつける必要もないと思われて母の手によって育てられたため、この母子は互いに遠慮がなかった。


「駿府のことにござろうか?はてなんぞございましたかな?」

「朝比奈の方々はおれのことをえらくよく扱うてくれるのやが、台所でも手伝おうかな思うて立ち寄っても、『ほんなことはええから』と追い返されてもうて、することがないのや。」


 重勝は母の言い分を理解した。

 お秋は足助でも奉公していたため、駿府でも下女働きをしようと思っていたが、朝比奈家としては、「自家の娘が嫁ぐ先の姑を下女働きさせては娘の格が落ちる」と思ってそれを断っているということである。


「ははあ、わかり申した。されば、義父殿に一言申し添えておきましょう。」

「頼んだじゃんね。」

 

 重勝はその後、義父・朝比奈俊永に文を送る際に、「母を今川館に奉公に出すのであればどうか」という風に打診をし、俊永は「それならばまあよいだろう」と認めて母の無聊の問題は解決された。


 やがて鳥居源右衛門が嫁となるつね姫を迎えに駿府に派遣された。すでに結納は済んでいる。

 源右衛門から嫁を迎えるための口上が述べられ、朝比奈家ではつね姫を送り出す別れの儀が行われた。

 つねは源右衛門らに先導されて、婚礼用具を携えた朝比奈家の者とともに宇利までやってきた。長門守らは彼らを迎え入れ、盛大に祝言の儀が行われた。

 酒の席で重勝は一連の儀がうまくいったことに安堵し、源七郎とこっそり話した。


「先に小笠原殿の婚儀をしておいてよかったわ。」

「いやまことに。礼法を学ぶことができ申したゆえな。」


 ◇


 それはさておき、宴会も済んで新妻・おつねをいよいよ寝所に呼び入れた長門守は困惑していた。


「そなたは、その、うつくしけれど……。」


 重勝は「うつくし」という言葉で「小さくて愛らしいさま」を表現したが、彼の気持ちとしては「小さくて」という部分に重きを置いての言葉だった。

 近頃ぐんと背が伸びて5尺3寸(約160cm)になった彼からすると、これから背が伸びるのかわからないが、4尺3寸(約130cm)くらいしかない彼女は華奢に見えたからだ。

 つね姫はそうとは知らずにはにかんで「ありがたきお言葉」と返した。

 その初々しい様子に心惹かれた重勝は若さに抗わず、二人は無事に結ばれた。


 重勝はつねの声が気に入ったようで、その後は、宗長が小歌を集めて編んだ『閑吟集(かんぎんしゅう)』という歌集を少し写させてもらって、それを見せては彼女に小歌を歌い上げるようねだった。

 つねは恥ずかしがったがまんざらでもないようで、奥は華やいだ。

 こうして夫婦は次第に仲睦まじくなっていった。


 ◇


 ある日、重勝は今後あるだろう新妻の出産のことを考えていて、彼女に丈夫になってもらうために栄養をつけさせようと思い立った。

 そのためには料理人が重要だ。重勝はそう判断した。


「つねによいものを食わせてやりたい。」

「さりとてわざわざ庖丁人を雇わずとも……。」

「料理の知恵あらば銭になる作物も知っておろうて。あるいは我らの未だ知らぬもので食えるものあらば、民も腹ふくれよう。」

「ううむ、さまで言わるれば……。」


 重勝はこうして渋る鳥居源七郎を押し切り、張り切って庖丁人を募った。

 やがて美濃から多治見主水(もんど)なる者が流れてきたため、これを登用した。

 少し前は文化的に非常に栄えていた美濃は、今や守護職を巡る土岐氏のお家騒動で混乱しており、この者も台所番の一族だったが求人に応じたのだという。


「それがし美濃にて庖丁人を務める家の出にて、四条流の心得あり申す。お噂聞き申し、ご奉公いたしたく参りました。」


 四条流というのは上流階級の料理に関する儀礼の流派のことで、当代一流の料理術である。

 それとは別に重勝は、故実の良く伝わる今川家に「料理の故実を学びたい」と願い出ていたが、断られてしまっていた。

 今川家には『今川大双紙』なる書物があり、料理に関しても記述があったのだが、「一国人においそれと教えることはできない秘伝である」として願いは退けられたのだった。


「それがし、親族で四条流の奥義書を(したた)めた者を存じており申す。必ずやお役に立てるかと。」


 料理に関する書物の入手が失敗したことを聞いた多治見主水は、覚えめでたくなることを期待して、すかさず自らを売り込んだ。

 彼の伝手で接触できた多治見家の者からは、彼らが美濃の混乱の中で先立つモノを欲していたため、重勝は銭を積んでなんとか料理書『四条流庖丁書』の写しをせびりとることができた。


 重勝はこれで多治見主水を認めるようになったが、自分で呼び寄せておきながら、他所から来た庖丁人をすぐには信用できなかった。

 そのため、結局、自分でもこの書物を解読し、多治見主水の後ろでしばらく自ら台所を監視した。

 主水の仕事ぶりがまじめであり、身辺を探っても間者の疑いもでてこなかったことから、ようやく主水は正式に吉田鈴木家の庖丁人となった。


「つね殿は食い物の好き嫌いあり申すか?ウズラなどよかろうと思うが。」


 奥でも真面目腐って料理書を読んでは、おつねに好き嫌いを尋ねる姿に、彼女も下女らも微笑ましさを覚えるのだった。



【史実】『閑吟集』は1518年成立で、編者は宗長とは断定されていません。恋の歌が多いそうです。小歌というのは5音・7音にリズムとメロディをつけて歌われます。


【史実】『四条流庖丁書』は1489年に多治見備後守貞賢が写本を作成しています。

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