第23話 1517年「官途」
奥平監物貞昌は馴染みのある朝比奈左京亮泰以に話を持っていった。
朝比奈左京亮は、掛川城主の兄・泰熙の遺児でまだ若い泰能を後見しており、遠江の国人を取りまとめる立場にある人物だった。
「左京亮殿、ちとよいですかの。」
「どうなさった、監物殿。おや、そこにあるはくだんの鈴木殿かな。」
朝比奈左京亮から視線を向けられ、甚三郎は挨拶をした。
「お初にお目にかかり申す。それがし、鈴木甚三郎にござる。」
「朝比奈左京亮にござる。駿河の丹波殿の娘御を娶ると聞くゆえ、近々縁者となろうの。よしなに。
──して、監物殿のご用向きは?」
「鈴木殿のことにござる。松平が熊谷・鈴木の領内に攻め寄せたと先ごろお伝え申したが、ここにある鈴木殿は見事これを退け、再び参陣なされた。」
「ほう。加勢の話かと思うておったが、違ったようじゃ。」
「左様、留守居の熊谷殿が敵将を討ち取る大戦果だったそうじゃ。」
「それはでかしたことよ。しばらくは松平もおとなしくなろう。」
「さればこそ、今川様には気を配らねばならぬことがござろう。」
奥平貞昌はこう言って朝比奈左京亮の関心を引き付けた。
「もったいぶらずに疾く言いたまえ。」
「牧野氏のことじゃ。」
ここまでお膳立てしたぞ、という顔で貞昌は甚三郎に目配せをした。
甚三郎は勢い込んで説明した。
「松平は豊川のこちら側の西郷と合力して宇利に攻め寄せ申した。それも数千もの大軍勢で。
その間に挟まる牧野は何をしておったのか?敵軍勢の支度を報せもせず、攻めらるる宇利に救援も出さず、今橋や牛久保におってただただそれを眺めておったのか?
けだし、松平と西郷の仲を取り持ち、やつらに宇利の様子を伝えた者こそ牧野であろう!かの者らは敵の軍勢を敢えて見逃したに相違ござらぬ!内通しておったのでござる!」
甚三郎は激しい剣幕で憤って見せた。
二人の老将がその熱量に中てられてしまうほどだった。
本当のところ甚三郎は、牧野氏が内通しているかどうかは知らなかったし、それが事実であるかどうかも重要ではなかった。
行き場のないやるせなさを抱えながら牧野氏のことを悪く言ううちに、もっともらしい敵意を向ける先を得てしまっただけである。
因縁のある菅沼氏とは違って、曲がりなりにも同じ今川方である牧野氏は、敵対するのに十分な口実がなく、勢力拡大を目指すのならば豊川下流を押さえる彼らは、松平氏以上に邪魔だった。
豊川を使った物流に頼っている熊谷・鈴木連合にとっては、この交通路を独占できない現状は何かと不自由で、湊の使用料や関銭で実際に損失も生じている。
そのため、彼らから土地や商業上の特権をいかにかすめ取るか、そのための大義名分をどうするかと日ごろから考えるうちに、今回の騒動で自然とその名が思い浮かんだのだった。
とはいえ甚三郎は、今川家の重臣・朝比奈氏に牧野氏のことを訴えることになるとは思っていなかった。せいぜい「鈴木家が怒っている」という噂が広まればよいという程度の目論見だったのだ。
だが今や奥平貞昌の協力で、今川家の中枢にまで牧野氏に対する不信が伝わりそうになっている。訴えが正当だと認められなければ、讒訴とみなされてこちらが処罰を受けてしまう。
そのため、甚三郎の心には焦りがあった。
焦ったがゆえに、必死に言い繕った。
人をあまた殺した直後で気が立っており、身内である熊谷家の面々の死を受け止めきれていない甚三郎は危うげで、傍で見ていた者はその鬼気迫る様に、いくばくかの真実味を見出さずにはいられなかった。
「かような裏切り者をのさばらせておいてよかろうか。
……兵庫頭殿も次郎三郎殿ももはやこの世にはおらぬというのに。」
甚三郎は一通り怒ると、今度はなぜか泣けてきてしまった。
ことによると重実や直運、馴染みの農民たちを喪った悲しみが胸のうちにせり上がってきたからかもしれないが、いずれにせよ、戦場からこのかた様々な刺激を受け止めきれていなかった心が、徐々に平静や自律性を取り戻そうとする中で、変調をきたしていた。
己を己で制御できない感じに甚三郎は戸惑いを覚えたが、その途方に暮れた様子に二人の老将は同情を禁じえず、どうしたものかと思案に暮れ、結局、牧野氏内通の訴えを取り上げ審議することを約束した。
◇
陣中で開かれた評定では、今川氏親が難しい顔をしていた。
この陣中には、この度の内通騒ぎのもう一方の当事者である牧野氏の姿はない。
10年前に氏親が今橋城主・牧野成時(古白入道)を攻め滅ぼしてから、牧野氏とは疎遠になっていたからだ。
今橋を攻めたのには、当主の宗光が一代で大勢力を築いた戸田氏を懐柔して、牧野氏に代わる東三河での今川氏の代理人として押し上げようという目的があった。
しかし、戸田はその後も服従の姿勢をはっきりさせなかったため、氏親は再び牧野氏を盛り立て西三河に対する抑えに使おうという気持ちになっていた。
そうした状況での牧野氏内通の騒ぎは迷惑な話であった。
しかも、これまでの経緯や今回の事情からしてありえない話ではないため、無下に扱うこともできないのである。
「──というわけで、牧野氏には詰問せねばならぬと考え申す次第。」
甚三郎と奥平貞昌を後ろに従えた朝比奈左京亮泰以が諸将に事情を説明した。
氏親の存念を知る駿府からの近臣は何とも言えない表情だった。
遠江の諸将は「牧野氏討伐もやむなし」とは思うものの、甲斐に浜松にと戦が連続しているため、さらなる出兵の負担を思って渋い顔をしていた。
氏親は討伐軍を起こすような雰囲気ではなさそうであることに気を良くして、甚三郎さえ説得すればよかろうと、彼に話しかけた。
「甚三郎よ。その方の懸念、尤もである。されども確たる証はなく、そのうえこの浜松が落ち着かねば軍を起こすは難しい。」
怒って泣いてと忙しなかった先ごろが嘘のように、甚三郎は氏親の説得を無表情で聞いていた。
受け止めきれなかった感情を放出したことで、心がいったん落ち着いてきていたのだ。
そして少し冷静になってみると、話をどうやって終わらせるか考えていなかったことに気づき、それを悟られないよう、ぼろを出さないよう、努めて平静を装っていたのである。
氏親はその無表情を見て、甚三郎が渋っているか失望しているか、何らかの否定的な思いを我慢していると判断し、飴をちらつかせて譲歩を引き出すことにした。
「それゆえこたびは牧野を咎むるに及ばず。とはいえ松平を打ち払うたは重畳。甚三郎よ、その方、受領名をもたぬようだな。なればこれより『長門守』を名乗るがよい。」
氏親が「褒美に官途状を与える」と言ったのを受けて、甚三郎は、熊谷氏を差し置いて自分が褒美をもらうことには耐えられず、辞退の言葉を発した。
彼自身は「出兵前に周囲の確認や防御の手配をもっときちんとやっておけばよかった」と悔やんでおり、先の戦を褒められるべきものとは受けとめていなかったのだ。
「ありがたき幸せにございまする。されどお屋形様、こたびの戦勝は熊谷のご一族が奮闘してこそのもの。やつがれではなく熊谷殿にお褒めのお言葉を賜りたく存じますれば。」
ここで甚三郎に褒賞を辞退されてしまっては、今川家が一方的に牧野氏への訴えを取り下げさせたことになるため、氏親としてはなんとか褒賞を受け取ってもらいたかった。
氏親は懐の痛まない官途状の授与でお茶を濁したかったが、甚三郎はそれを辞退した上で「熊谷氏の方が働いた」と口にしたため、彼に褒美を受け取らせるには、熊谷氏には官途状以上のものを与える必要が出てきた。
熊谷氏は今川家に従属しているか微妙な立場であるため官途状の意味も微妙であるし、であれば銭を与えて済まそうかと思えば、甲斐攻め浜松攻めと出費がかさんで今の今川家には蓄えがない。そのため、氏親は仕方なく知行を与えることにした。
「うむ、その言やよし。その方に官途を与えるに加え、城を守りて大物首3つは大手柄ゆえ、熊谷備中殿には感状を送り、引馬を落とした後には浜松に所領100貫を与えよう。」
「お聞き入れいただき感謝いたしまする。さすれば熊谷のお家は人手不足ゆえ、奥平殿の知行地のおそばに賜りますれば、この上なく幸いにてございまする。」
「よかろう。」
甚三郎がちゃっかりと奥平に新領の管理を押し付けるつもりの申し出をしたのを、貞昌は「手間賃は取るがな」と思いつつ、苦笑して聞いていた。
その後、甚三郎あらため長門守重勝は、官途状と熊谷実長宛の感状を受け取った。
彼にとっては、感状と褒賞を受け取った熊谷家の一同が喜んでいたことは救いであった。
しかし彼自身はというと、官途状を見て自己嫌悪に似た気持ちを覚えていた。戦が起きたことそれ自体やその結果に対するやるせなさに加えて、熊谷氏の不幸を悲しみながら、都合がいい形で讒訴がほどほどに受け入れられたと安堵してしまう自分のあさましさが嫌だったのだ。
それゆえに彼はこの書状を持て余し、東三河に帰って評定でお披露目した後には、日記帳に挟んで目につかないようにしまった。
◇
引馬城攻略戦は水の手を止められた城方が降伏するまでさらに2ヶ月近く続いた。
首謀者の大河内兄弟は切腹、尾張守護・斯波義達は出家剃髪の上、尾張に送り返された。
浜松攻めがほとんど被害なく終わったことで「余力あり」と踏んだ今川氏親は、戸田氏の軍役拒否を咎めて、朝比奈泰以が率いる別動隊を差し向けた。これにより、当主・戸田憲光は渥美半島を追われて知多半島の河和城に退避を余儀なくされた。
その隙に、かつて氏親によって成敗された牧野古白入道の子・信成は今橋城を回復し、今川への従属を誓った。
宇利の戦死者遺族や戦傷者の面倒を見るので手一杯だった鈴木重勝は、戸田攻めの軍役を免じられたことには安堵したが、牧野氏の扱いについては微妙な反応だったという。




