第22話 1517年「奥平貞昌」
松平の軍勢が立ち去るのを確認した甚三郎は、休んでいられなかった。
「吉田のお奉行様!長篠にも敵が攻めてきておるで!」
「なに!菅沼か、小癪な。」
吉田のお奉行とは、農民が甚三郎を呼ぶときのあだ名である。
宇利が解放されて吉田から戻ってきた民たちから長篠の様子を聞いた甚三郎は、急ぎ救援に向かいたかったが、宇利城のひどい様子から、先に遺体の片づけをすることにした。
松平方と思しき兵の遺体は宇利城の片隅に埋葬して塚を作った。
熊谷氏には慰労もそこそこに味方の戦死者の身元や遺品の確認と、「落ち着いたのちには冨賀寺で合同葬儀を行おう」という約束の周知を頼んだ。
こうして最低限の始末をすると、甚三郎は浜松から連れてきた兵200を伴って長篠に向かった。
兵らは鈴木・熊谷の両家が味方の戦死者に向けた気遣いには好感を抱いたが、いかんせん遺体の処理をした後で士気は最悪だった。
いったん野田に立ち寄った甚三郎は、鷹見弥次郎と塩瀬甚兵衛が無事であることを確認した。
そして奥平出雲守を使者に立てて奥平氏の援軍を請おうと話を切り出した。
ところが、すでに鷹見と塩瀬が援軍を頼んでいたことから、奥平氏が用意してくれていた50の兵をただちに借りることができた。
「でかした弥次郎、甚兵衛!おぬしらはまこと気の利くことよ!」
甚三郎はすぐに豊川西岸を北上した。
野田と長篠の間には設楽氏の土地が挟まっているが、使者が送られてきてそのまま目付として同行しただけで、進軍が邪魔されることはなかった。
設楽氏が中立だった理由は、菅沼氏から長篠攻めの助力を求められなかったから、というだけである。もし菅沼氏が設楽氏に協力を要請していれば、甚三郎は苦しめられたことだろう。
しかし、浜松に兵を出すにあたって、甚三郎は野田・長篠を得た戦の際に田峯に送り込んでおいた間者を使って「設楽氏が鈴木家に与している」という流言を広めさせていた。そのため、菅沼氏は彼らを味方にする工作を怠っていたのだった。
◇
宇利の戦いから3日で長篠の対岸に到着した甚三郎は、菅沼氏に和睦を打診した。
「貴家の頼りの松平勢はすでに潰走いたした。これよりはいつでも浜松より今川の援軍がこよう。ここは両家とも遺恨なく手打ちといたそう。」
「潰走」というのはいかにも話を盛っていたが、兵を連れた甚三郎が宇利を放っておいて長篠に来たのを見れば、松平氏の敗退が事実であることは菅沼氏にもわかった。
菅沼氏は400かそこら。対する熊谷・鈴木家は城内に80、城外に250。
兵数はだいたい互角であり、長篠城は天然の要害であるだけでなく、長篠菅沼氏が退去してから防備をさらに増強されていた。
城兵は小笠原長高と鳥居源七郎に指揮されて敵の攻撃をものともしておらず、菅沼氏は攻めあぐねてただ陣を敷いているだけである。
甚三郎が率いる兵の士気は高くなかったため、戦となれば危なかった。とはいえ、菅沼氏はそのことは知らなかったし、兵糧攻めをするにも長期戦になって今川家に介入されては困るため、和睦を受け入れて撤退した。
◇
ようやく落ち着いた甚三郎は、宇利での戦いの詳細、とりわけ重実と直運の死に様の話を聞いた。
2人が甚三郎の来援を固く信じていたと知ると、やるせなさが募り、深い悲しみに囚われた。
また、改めて被害を数えてみると、300いくらかの城兵の半数以上が死傷しており、甚三郎は熊谷備中守実長と相談して負傷者や遺された家族を熊谷家・吉田鈴木家で養うことにした。
とはいえ、今は遠江での今川氏による引馬城攻めを抜けてきている。
甚三郎は心を整理できないまま、源右衛門と奥平出雲守を連れて、熊谷・鈴木・奥平の三家合同でひとまず150の兵を率いて浜松に戻った。
「ずいぶんくたびれた様じゃな。」
「これは監物殿、こたびは作手の兵もお借りし申した。後程お礼を持って参りましょう。」
「いやなんの。それより、首尾はいかなるや?」
「松平は当主以下、数千からの大軍勢にござったが、諸将を討ち取り、敗走せしめ申した。大将の信忠はあまりのことゆえ呆けており申した。」
甚三郎はほどほどに話を盛ったが、奥平監物貞昌は甚三郎がとんでもなく話を盛ったのだと思った。
だいたいこういうときは手柄を過大に報告するものであるし、甚三郎の疲れた様子からも圧勝ではなかったことが容易に見てとれたからだ。
それゆえ貞昌は訝しげな視線を、甚三郎に随伴した奥平出雲守に向けた。
出雲守はしかし、「だいたいそんなかんじだ」という風に頷いた。
貞昌はそれに驚き、甚三郎に問い返した。
「松平は当主・信忠の率いる数千、将を討ちお味方勝利とな?誤ちということはないかのう?」
「まことのことにてござる。……まあ、数千はちと多かったやもしれませぬが。
とにもかくにも、熊谷ご家中で兵庫頭殿(重実)、次郎三郎殿(直運)お討ち死にも、五井の松平大炊助・源五郎の兄弟、滝脇松平の嫡男を討ち取り申した。」
「なんと!よくやったではないか!掛川の朝比奈殿に事情は伝えておいたゆえ、松平を相手に勝ったとなれば、褒美すらあるやもしれぬぞ。」
「いやいや、これもすべて熊谷ご家中の勇戦あってこそにござる。それよりも、それがし、お屋形様に伝えねばならぬことがあり申す。」
「ふむ?」
甚三郎が戦勝をあまり大したものと受け止めていない様子に、奥平貞昌は不思議な顔をした。
彼の長年の経験では、勝ち戦の後の若い武者は増長しがちなものだったからだ。
「こたび松平は、本坂通の西郷氏を巻き込み、牧野の所領を通りて宇利に攻め拠り申した。これに呼応して田峯の菅沼も長篠に攻め寄せており申した。」
「なんと、菅沼も!」
松平のみならず短期間で菅沼も退けたとなれば大した戦働きであるため、奥平貞昌はこれには本心から驚いたが、しかし、それに対する甚三郎の対応は淡泊だった。
「菅沼はよいのです。我らも備えており申したゆえ。許せぬは、牧野にござる。」
「牧野とな?」
「左様!」
鋭く叫んだ甚三郎は、強い不満をあらわにした。
「やつばら、松平をみすみす通して熊谷殿の助太刀もせなんだは、内通にござる!お屋形様にご注進申し上げねばなりますまい!」
奥平貞昌は「そうきたか」と思って、厄介ごとを前に眉をひそめたが、同時に手練れの老将は頭の中で計算をめぐらせる。
奥平氏としては山奥の自領の南北を足助と吉田の鈴木氏に塞がれており、勢いのある甚三郎に恩を売っておくのはよいことだ。
一方の牧野氏は先ごろも今川氏親に今橋を攻められており、ことによると今川家中で評判がよくないのかもしれない。
ここは牧野氏を切り捨てるか。その所領を熊谷・鈴木家で獲るようなことがあればおこぼれに与れるだろう。
そう考えた貞昌は、憤慨している甚三郎に同情の声をかけた。
「それは災難じゃったな。松平と戸田に挟まれたる牧野なれば、あるやもしれぬことじゃ。どれ、儂から口添えをしてくれようぞ。」
貞昌は歳のわりにそそっと軽快な足取りで移動した。
慌てて甚三郎はついていった。




