地図・方針・解説◇
小説本体の「第1話」は次にありますので、ご興味のない方は飛ばしてください。
このページには、
【地名付きの地図】
【本作の方針】
【主人公の史実の情報】
が書いてあります。
【地図】
※諸勢力ごとに色分けされた勢力図は第1話と各章末にあります。
※近い場所は地図上に表示しきれないため、ひとつのオレンジの点に複数の地名を添えています。
※濃い緑は山がちな場所、黄緑は台地、クリーム色は平地です。土地の高低・川の流路・海岸線などなど適当に手書きしているので大体でお考え下さい。特に川の流路は現在のものを見て書いてしまっていますので、正確ではありません。
【本作の方針】
以下につきましてご承知おきください。
●織田信長の時代より30年前から物語は始まり、主人公の家には知名度もなく仕官も見込めず、有名武将は当初は出てきません。
●主人公も配下武将もB・C級の人物が多く、物語の展開も含めて地味に見えるかもしれません。
●主人公の考え方からすると、織田・徳川など有名どころは場合によって滅ぼされてしまい、生まれてこない可能性もあります。
●外来語は避け、会話には古語・古文文法を散らしてそれっぽい雰囲気を心がけています。
●当時の社会的な状況等からできるだけ逸脱しないよう配慮します。ただし、高校日本史をきちんと勉強していて常識的な知識を持っている人にできる程度のことは行われます。その場合、当時の状況でも受け入れられやすいか、当時流通していた書物等から情報を得られるものとなります。
【主人公解説】
鈴木長門守重勝は1503年生・1595年没とされます。
本作の幼名・竹丸は適当です。重勝の呼び名は、1553年の今川義元の文書には「甚三郎」、今川氏真の判物には「平左衛門尉」とあります。
今の愛知県新城市の上吉田・下吉田(旧・山吉田)、白倉城・柿本城のあたりを領した人物です。
出自としては足助鈴木氏と同族かもしれません。
1532年に山吉田の満光寺を再興します。
近くで1530年に松平清康(徳川家康の祖父)が吉田南の宇利城を落としますが1535年に没し、どこかのタイミングで近隣の菅沼氏・近藤氏は今川方となり、重勝も1553年には今川義元に属しています。
今川義元の死後、重勝は1561年に今川氏真方として宇利で戦って判物を受け取り、1563年に山吉田北・大野を確保して感状を受け取ります。
重勝の子・鈴木三郎大夫重時は近藤康用・菅沼忠久とともに行動しました。
1567年に三河所領替地に引馬(浜松)の土地を宛がわれますが、1568年には徳川家康(1561年に反抗を開始)側に転向して引馬の土地を安堵され、今川方を攻めて1569年、戦死します。
この頃に柿本城が築かれたようです。重時の妻は井伊氏と親しい奥山朝利の女だそうです。
子孫は彦根藩の井伊家や水戸藩の徳川家の家老として続きました。