第16話 1515年「手紙」
「かかさま、まこと心苦しく、どうぞお許しいただきたく思いまする。」
甚三郎は残念そうに頭を下げた。
今川に挨拶に参った際に、重臣の朝比奈氏との婚儀がなったことを受けて、甚三郎は出る杭が打たれないよう、母を人質に差し出すことを申し出ていた。
そうこうするうちに受け入れ先の駿府も準備が整い、自領の状況も一段落したため、いよいよ母を送る段となったのだった。
母・お秋は困った風に笑いながら、いつまで経っても幼名呼びのままで、我が子を宥めた。
「竹丸や、ええと言うとるだろうに。かかは駿府を楽しみにしとるよ。」
「何度わびても心のつかえがとれませぬ。足助から引き離して阿寺に呼んだにもかかわらず、今度は駿府に移ってもらわねばならないとは……。」
「おれは、吾子が『どえらい』言うとった駿府の町が今から楽しみだに。『おへの』もくるで大丈夫や。」
おへのとは甚三郎の母・お秋の足助時代の友で、彼女が忠親の妾として呼び寄せられた際に身の回りの世話をするためについてきた女だった。
「文を書き申す。この地で採れるものも、化粧料もお送りいたす。かかさまにはできる限り不自由はさせませぬ。」
「おれは字は読めねえけどな。」
お秋はけらけらと笑った。
その様子が、不安に違いないのに、我が子を心配させまいと空元気を出しているかのように見え、甚三郎は母への愛おしさを募らせた。
そして、自分の一時の保身に囚われた考えで母を孤独な境遇に追いやることになり、甚三郎は自分の浅ましさを情けなく思って、ぽろぽろと涙を流した。
「ほれ、泣くでないよ。吾子は図体はでかくなったし、今やいっぱしのお殿様だのに、おれの前ではまだまだ稚児のままやな。おれは吾子みたいなええ子を持って幸せや。達者でやりん。」
甚三郎は、煮出して茶として飲むように、体に良いという桑の葉を乾燥させたものや、綿で作った温かい半纏を用意し、母の健康を気遣っていろいろと荷物をまとめ、それらを長持に詰めさせた。
そして、わざわざ作らせた籠に母を乗せて駿府へ送り出した。
◇
甲斐攻めの途中の今川氏親の陣中に、駿府から重勝の文が転送された。
手紙のあて名は重勝義父・朝比奈俊永である。実際に読んでもらいたいのは氏親であったが、彼を直接の宛名としない「披露状」の形をとっていて、氏親に対する高い敬意を示していた。
内容は、鈴木甚三郎重勝が母を質として送る際に持たせた挨拶状であったが、その用件が済んでから、実に書状の半分以上の部分を使って、今回の野田侵攻の弁明が述べられていた。
目を通した瀬名陸奥守はなんだか微妙な顔で言った。
「漢籍と農政に才ありて、『いざ』とて母を差し出す胆力もあるかと思えば、何でござろう、この見苦しき書状は。書札礼だけはよくできておるのが余計に奇妙でござる。お屋形様はいかが思し召されまするか?」
幼少期に祐筆となるべく訓練を積んだ甚三郎は、書札礼をよく承知しており、その点ではこの書状は文句の付け所がなかった。
しかし、甚三郎は崩し字を苦手としており、本来であれば適度に流して書かれる部分が、微妙に不格好だった。
崩し字は本来はさらさらと書くべきものだが、甚三郎にとっては書きにくい書き方であり、それらしく見えるように慎重に力んで書いたためだった。
瀬名陸奥守はグダグダ書かれた内容に加えて、このような見た目のことも含めて「見苦しい」と言ったのである。
その言に苦笑して今川氏親は答えた。
「東三河の様子を探らせたが、聞こゆるは、かの一夜攻めの後、地よく治まり信濃守護家の小笠原の者もその徳を認めて客将として仕えるとの由。量れぬ男よ。」
◇
書状には次のようなことが書いてあった。
「菅沼は、八名郡地頭・熊谷と同じく尊氏公より荘司に任じられた由緒正しき冨永氏を不当に放逐し申した。それによりその地が安らかとなるならばまだしも、野田は菅沼の家中も民も未だ穏やかならずにて候。
ゆえに、これを廃し冨永を戻して道を正した次第。修理大夫様におかれてはご心配及ばずにて候。
奥三河の大野城は、元々は足助の鈴木喜三郎なる者の城にて、近くの寺もそのこと伝えており、鈴木の手に取り戻した次第。
勝手に兵を起こしたは、まこと不義理にて、かたじけなく思い申す。いたずらに戦を長引かせて民を苦しめぬよう短兵急の用兵を心がけたがゆえに、報せが後になり申した。
されども、これにて豊川の中ごろにある諸力を熊谷の旗下ひとつにまとめ、仇敵・松平の勢いを抑え込むつもりにて候。」
ここで巧妙なのは、ごちゃごちゃと書いている割に、長篠の占領には触れていないことである。
実のところ、上手く書かれていたとしても、紙いっぱいに文字が書かれているだけで、長い手紙というものは読み手に読む気をなくさせる。
甚三郎はあえてそれを狙って一通の書状にあれやこれやと内容を書き込んで、実は長篠攻略には大義がないことに気づかれないよう小細工をしていたのだった。
もっとも、氏親に見せてもよいような紙は上質で高価であり、しかも礼儀として紙を必ず2枚にしなければならず、用件を分けると紙が余計に必要になるため、甚三郎が紙代をケチって一通に全部書き込んだというのも、このごちゃごちゃした手紙の理由の一つだった。
また、甚三郎は氏親の寛恕を得るべくさらに媚びを売っていた。
事前に氏親が曹洞宗を好んでいることを調べて、領内で曹洞宗を保護することを伝えたのだった。
「冨永郷が正道に復したことを寿ぎて、寂れ廃れたる吉田郷の満光寺を再興いたし申した。かの寺は曹洞宗にて、駿河の優れたる和尚を誰か招きたく思い申す。なお、寺領として3石を寄進し申して候。」
◇
氏親は、瀬名陸奥守の不服なさまを見て、突っ込みどころを探してもう一度手紙を見返した。
しかし、甚三郎の鈴木の分家こそ今川に臣従したともとれるが、主体となって動いた熊谷家は今川家に臣従しているとは言えないため、文句をつけようにも難しく思われた。
また、従属したばかりの彼らに対して強く口出しするのも憚られたということもある。
長い文章を読んで疲れた氏親は、結局大した問題点を見つけられず、ため息交じりで感想を述べた。
「あさましと言わばあさましけれども、如才なしとも言えよう。……とはいえ、それほどの余力あったならば、甲斐攻めの支度、申し付けておればよかったのう。」
「次こそは、にござり申すな。」
甚三郎が挨拶にきて母を人質に出した当初は、身の上を記した最初の挨拶状を信じて氏親は甚三郎のことを小身の地侍と思っており(実際に吉田鈴木家は最初は貫高で50貫あるかないかの家だったが)、軍役などを命じることにこだわりがなかったのだった。
「まあこれは今さらのこと。いずれにせよ、こたびの勝手、そもそも熊谷を援けて道理を正すのことなれば、それを以て責むるに能わず。そうではないか、陸奥よ?」
「まあ、左様にございますが……。」
どうにも腑に落ちない瀬名陸奥守だったが、氏親がこのことで鈴木家・熊谷家をどうこうするつもりはない様子であったため、気持ちを切り替え、甲斐攻めに意識を移した。
◇
こうして、吉田鈴木家・熊谷家は横槍の入ることなく合わせて3000貫ほどの収益の所領(石高で言えば1万石超)を治めることになったのだった。