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戦国の鈴木さん  作者: capellini
第11章 南海編「他なるもの」
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第155話 1537-39年「蛭子伝説」◆

更新を長らくお待たせしておりまして大変恐縮です。私の手の届く範囲では予定通りで来れたのですが、最低でも年度末まで追加の仕事が入り、次話更新もゆっくりとなりそうです。申し訳ない限りですが、ご理解いただけますと幸いです。なお、次話から章を改めることを考えています。

『南海風俗見聞記』

※著者の伊賀善四郎は三河松平家の生まれ、岡崎近くの伊賀から名字をとる。庭野学校にて医術を学び、三河鈴木家に仕え、鈴木刑部少輔重勝に属して南海探検に従事し、八丈島および刑部諸島(=小笠原諸島)の先で異人の住む島々(=マリアナ諸島)の調査を行った。


 ◇


「弓島見付け候う事」


これもまた件の水夫に聞いたことである。御海島様(※鈴木重勝)の見当に従い、刑部諸島から南南東へと進んだところ、最初に海に突き出した山を見つける。はげ山で水もないように見えたため、さらに先に進む。3つの島に囲まれた入り江を見つけ、ここで休む。島々は三輪島と名付けた(※マウグ島)。


すると小舟が寄ってきた。中には裸の赤い肌の男がおり、何事か話しかけてきた。漂流者と思って助けようと船に連れ込むが、ひどく暴れる。どうやら島に同輩がいるらしく、戻りたいようだった。指をさすのを追っていくと、そこには数人の男女がいたため、これを全員連れて群島に戻ることにした。


大鶴丸(※船名)が三輪島のさらに南に島を見つけたのは次の渡海でのことだった。島の(なり)から、弓島(※パガン島)と名付けられた。先の帰路にて、三輪島の者らが裸なのは漂流したからだと思って水夫が褌を渡したが、かの者らはそれを着なかった。弓島にても同じく住人は裸であった。


それがしは大鶴丸の三度目の渡海に同行し、三輪島の者どもと権左衛門を通詞とし、10の兵とともに弓島に入った。島がさらに連なっていると住人より聞き及ぶと、このまま南蛮を目指さんと大鶴丸は南へ向かった。それがしは御海島様より島民の暮らしぶりを調べるよう申し付けられていたから、弓島にとどまった。


その後、戻ってきた大鶴丸に乗る。この大船は100の艪を持ち、押し戻す北東の風にも耐えて群島(※小笠原諸島)に帰った。なお、南蛮にて、大鶴丸の者らは件の塩(※硝石)を求めたが、かの地の住人は南海人(※チャモロ人)とも異なる言葉を話したため、商いはうまくいかなかった。明人がいたため、塩(※硝石)を用意するよう求め帰還したという。


 ◇


「弓島風俗の事」


御海島様(※鈴木重勝)は刑部群島(※小笠原諸島)にお移りになり、通詞の権左衛門から南海人(※チャモロ人)の言葉を覚え、かの者らに和語を教えた。殿の仰せでは、「我が之を得る」と言わんとすれば、先に「得る」を言い、その後に「我が之を」あるいは「之を我が」と続けるという。かような話しぶりは漢文とも異なり例がなく、異様である。


島人は芋・木の実・魚・蟹を食い、鉄を持たず、衣服をほとんどまとわない。長い黒髪に赤い肌なのはいかにも農民や水夫のようだが、背が高く頑丈な見た目で、男は全くの裸、女はテヒあるいはグノなる褌を身に着けるばかりである。男の中には月代を剃って髷を作る者もおれば、女で檳榔子(ビンロウジ)にて鉄漿(おはぐろ)をする者もおり、本土から渡って古くに分かれた和人なのかもしれない。


かの者らはマハナなる薬師を敬っており、殿が薬師であり太守であることを伝えると、これもまた敬うそぶりを見せた。南海人は太守を解さなかったが、マガロヒなる地頭がおるという。また、マガロヒの姉妹はマガホガなる女地頭を名乗るという。


それがしは大鷹丸(※船名)に乗って弓島に至り「マガへ」なる地頭と懇意になったが、彼のいわく、己はチャモリにして、中でもマトアなる身上である、と。チャモリを士分とみれば、マトアは国人がごときものと思われる。百姓凡下はマナチャンなる分限でチャモリとは相容れぬ間柄であり、マトアの下にはアチョトなる中間侍がおるという。


島にては、若衆は世話役の女のいる宿にて諸事を学ぶが、寝屋住の者どもはこの女と情交も結ぶという。それで家が保たれるのかと訝るのはもっともだが、志摩・熊野の水夫は寝屋や夜這いのことかと得心するそぶりである。察するに、マトア者は海賊衆である。マトア者の中でも船大工はアガドナと呼ばれて敬われる。


家督は兄弟姉妹で分け合う。地頭が死ねば、正嫡男子がおっても、役目は弟や甥に移るという。地頭と別に、一族の老女に頭領がごとき役目があるらしい。家刀自あるいは大内儀というべきか。これは何人にも頼りにされ、知行もこの刀自の采配を受ける。殿はこれを琉球と奄美の女神主の類か、と推量なさった。


家督を分け合うは、プンタンとホナ(※フウナ)なる兄妹神に倣いてのことであるという。この兄妹神より大海に島々が産み落とされたとは島人の伝えるところであるが、これはまさに記紀に伝わる国産みである。髷結いや鉄漿の風俗も本土と似ていることから、かの者らは遥か太古に分かたれた日本人ではないのか、と信じてしまいそうになる。世には誠に不思議なこともあるものだと驚嘆するばかりである。


 ◇


「佐久万舟と鉄器の事」


島のサクマン――あるいは羅若(※ラジャク)とも――なる丸木の舟は驚くほどの速さで、マトア者の大工衆の作である。御海島様(※鈴木重勝)は島人に芋とサクマン舟を求め、代わりに麻の下帯やいくらかの鉄釘・斧・鍬を与えた。住人の鉄を望む声があまりに多かったため、殿は地頭マガへに、サクマンで南蛮に渡り、舟と交換で鉄を得て、当家の船で帰ることを提案した。


マガへは礼として当家にサクマンをさらに1艘よこした。殿は奄美の扱いに難儀していたため、奄美から瀬戸内を通って和泉国は貝塚に戻るための早船としてこれを使うこととした。


弓島の芋はクマラ(※サツマイモ)と呼ばれているが、この久間楽芋は今や刑部群島でも育てられており、食い物の足りなくなる冬には、薬として奄美より持ち込まれた家猪(※ブタ)の肉とともに煮て芋汁が作られる。家猪の肉は琉球にては明人のもてなしに使われるものである。


弓島の者どもは南蛮にて1艘のサクマンの代わりに十分な鉄器を得て、畠を開き木々を伐って大いに奮起し、勢いを得て南の島々の者どもと身上の上下をめぐって戦をし、誉を高めた。


島武者は戦にあたって先祖の骸骨を掲げて戦勝を祈願する。返しのある人骨の穂先を付けた銛を投げ、印地打ちで戦うが、当家から弓をいくらか与えて骨の矢じりを作るすべを教えると、彼らはすぐにもこれをものにした。我らと同じく戦場での合図に法螺貝と旗を使う。


 ◇


「弓島地頭補任の事」


マガへの一党の武威はついにアナタハンなる島にまで響き渡り、その南のサイパンとテニアンなる大島の者どもが様子を見に来るようになった。大鷹丸と大鶴丸はすでにサイパン、グアハン(※グアム)、ベルウ(※パラオ)なる島々を経て南蛮に至っており、これら大島の住人とは縁があったが、弓島のマガへがやりすぎたために、南蛮行きにも不都合が出てきた。


そこで当家は軍船を仕立て、初めて見知った時から早くも敵となっていたアグリハンなる島の者どもの船を焙烙玉や大筒を以て多く沈め、戦わずして敗北させると、主だった者を弓島に連れ去った。しかして、アグリハンの地下人(※庶民)はすべて弓島に従い、地頭家の者どもはおしなべてアチョト雑色衆として弓島に仕えるよう命じた。


アグリハンの者どもと通じていたサイパンのマガロヒどもは恐れ怯えて降伏を申し入れ、サクマンと鉄器の商いに加わることを許される代わりに当家に帰服することとなった。主だった者は九喜島(※小笠原諸島・父島)の海島御館にて殿と君臣の義を結んだ。御館に感嘆したマガロヒの幾人かは逸興を覚え、八丈島の見物にまいった。しかし、その後はサクマンをどの一族が出すのかを巡って俄かにマガロヒ同士の対立が生じ、たびたび戦が起こった。


殿の仰せによれば、サイパンとグアハン(※グアム)にて大名が立つか国人一揆がなれば、これを相手に盟を結ぶがよく、マガへの一党のみ被官とするとのことであった。


なんとなれば、士分の者(※チャモリ)は、女惣領のもとに地財を集め、地頭職を正嫡男子に受け継がせず、家督・土地・相続のしきたりが全く異様であるからである。これでは1代ごとに主従の関係が途絶えてしまい、かばかり相違ある者どもに武家の振る舞いを求めることは無理であって、せめて刀自の相続を確かならしめ、弓島の長として永代の付き合いを保たせるほかない、というのである。


そこで殿は弓島のプエンギなる女惣領と対面し、これを寄子とすることとした。当家からは島々で縁起物として名高い米・阿古屋貝・麻の美しい着物を送った。プエンギは殿を遠くの島から人々を操るマカナあるいはカカーナなる大術者(※シャーマン)と認め称えた。島人の報恩のしきたりはテンツレ(※chenchule')というが、プエンギは当家からの恩を次の惣領にも伝えることを約束した。


名字になじみのない島人であったが、テニアン大島では惣領が特別にタガなる古くからの貴き名を襲っていることに倣って、プエンギには「弓野」の名字が与えられた。また、この家刀自は弓島地頭に補任され、一族であるマガへは地頭代となった。女地頭の兄弟が一族の指南役となるため、次の地頭となる予定の女とその兄弟を八丈島に招き、飢餓に備えた采配の仕方など奉行の心得を学ばせることになった。


 ◇


米万里介(コメ・マリノスケ)の事」


マガロヒの子弟にコメマウリ(※Comemaulig)なる若者がおり、御海島様(※鈴木重勝)にことのほか目をかけられた。かの者は「米」を名字とし、万里介を名乗った。このとき殿のもとでは、小笠原下総守信貴・明智玄智(※明智光秀)・江原源太忠次がいずれ海事を奉行するべく学問していた。万里介はかの者らに交じってよく働いた。


下総守信貴は甲斐源氏、信濃守護小笠原は松尾の一流、父は左衛門佐貞忠にして、これが大永末に伊那小笠原家に討たれると、三河に落ち延び鈴木家で養われた。


玄智坊は源姓土岐氏が一流、東濃は明智荘の住人たる父何某の討ち死により当家に移り、庭野にて医術を学ぶ。


江原源太は小笠原の流れにして文明年間より三河国江原に住し、大永6年に父丹波守忠法が没すると内藤氏の祖母、浦部渡辺氏の母とともに当家を頼り、庭野にて学問に励んだ。下総守と玄智坊は江原家にて寄宿の間柄。


それがしが万里介に国産みの話を聞かせてやると、かの者もまた和人と島人の祖を同じくするかと思って、記紀を己で読み解くべく手習いに横目なく専心し、やがて島人の累代伝承したる兄妹神の物語の書きつけも始めた。万里介は南海士分衆の指南を務めていたから、この気勢はかの者らにも伝わった。


とはいえ、御海島様の仰せによれば、島人は財を分かち持つを常として所有の観念に乏しく、家督のことも相続のことも解さないため、暮らしを共にするのは容易くあるまい、とのことである。島に領民が移り住んだとして養うのも難しく、今は何より、南蛮から風に逆らって戻る船を動かすために水手(かこ)を集めねばならないという。南海士分衆を船手に組み込むことができればよいのだが。


 ◇


《鈴木重勝に宛てた清原環翠軒(※宣賢)の手紙》


国産みのことについて調べてみたところ、延喜式神名帳には確かに八丈島の優波夷(うばい)命神社(※優婆夷宝明神社)が書いてありました。祭神は事代主(ことしろぬし)命の妻で、事代主命は大国主神の子であります。


大国主神は巷では大黒天の垂迹(すいじゃく)とみなされ、大黒天は西宮では夷三郎殿(※恵比寿神)のこととまで言われますから――このようないい加減な話を父(※吉田兼倶)が述べたなどとまことしやかに語られるのは嘆かわしいですが――、南海の島々はどうにも蛭子命と縁があるように見えます。


蛭子命というのは国産みで不具に生まれた最初の子でありますが、それゆえに海に流された海神であります。亡き侍従殿(※吉田兼満)は夷と蛭子は異なると述べておりましたが、縁があることは認めておりました。西宮大明神はこの海神が流れ着いたとのいわれになりますが、はたして八丈島に流れるというのはないこともないでしょう。


 ◇


《鈴木重勝に宛てた九条太閤(※稙通、内覧宣旨を受けた)の手紙》


群島では大綿津見神(※海の神)、鳥之石楠船神(※船の神)、貴家氏神の饒速日命を合祀する海島神社を建立したと聞いています。饒速日命も東方に行くのに(いわ)船を用いたそうですが、蛭子神はまさに石楠船にて流されたとか。なんという巡りあわせでしょうか。


環翠軒殿のいう八丈島の女神が南海人のいう婦那(※フウナ)なる女神と同じであれば、文旦(※プンタン)なる男神は事代主命となるでしょう。すなわち、海の彼方に流れ着いた蛭子神は、かの地で子孫をお残し遊ばしたのです。長く分かたれたままの同族がこうして再び出会うというのは神意が働いた以外考えられません。


ぜひ西宮から分けて南海にも夷社を建立するべきでしょう。また、貴殿の海島社より分けて蛭子神を運んだという鳥磐櫲樟船をも祀るべきでしょう。そうしてこそ、かの地に住む人々も等しく天道のもと太平を享けることとなるでしょう。


これはまた天朝の威をおのずとよく高めるに違いありません。それゆえ、諸人と諮って建国について議することを考えています。最後の国割は弘仁14 (823)年のことですから(※加賀国設置のこと)、なおさらです。南海の様子について、ぜひまた文をよこしてください。国割のときは当然、貴殿を粗略には扱いません。


 ◇


《九条太閤に宛てた清原環翠軒(※宣賢)の手紙》


確かにいまの顔触れはよき時節と言えるでしょう(※左大臣=西園寺実宣、右大臣=鷹司忠冬、内大臣=一条房通)。しかし、これは軽く考えてよいことでは全くありません。夷人の島国として封ずるにとどめるべきかもしれません。


なお、国名を案ずるとなれば、拙僧に腹案がありますので、お声掛けください。

【メモ】伊賀善四郎は大草松平正親に相当します。マガへ、プエンギ、Comemauligは架空人物です。マリアナ諸島北端はマゼラン遠征隊のゴンサロ・ゴメス・デ・エスピノサにより早くに発見されていて、その指揮下から脱走したゴンサロ・デ・ビーゴが4年間住民の許で生活し、1526年にスペイン船に拾われて帰還したそうです。

【メモ】チャモロ人については下記を参照しました。文脈上、作中登場人物にはあえて不確かな理解や表現をとらせていますので、本話の内容を真に受けないようご注意ください。

https://en.wikipedia.org/wiki/Chamorro_people;https://www.guampedia.com/;http://www.chamoru.info/dictionary/

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もしさしつかえなければ、そのうちカクヨムにも置いてくれるとありがたいと思います。
お仕事お疲れ様!体に気をつけて更新を。健康は大事、無理は禁物。私、台風の影響で修繕手伝い。腰が、あたた、腰があに。若くないなあ、へんな体制で柱やら支えてたら、数時間後に腰が張ってしかたない。
交易するには相手が狩猟生活すぎて旨味なさげ。海路の拠点構築?南蛮への香辛料中継地とか絡ませてかなあ。いざとなれば鈴木南方王国で一族逃げも可能かぁ。形だけ明に頭下げてればな。
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