第154話 1535-39年「斎藤利政」
天文7 (1539)年、美濃国安八郡牛屋城(大垣城)。
長井隼人佐道利は、血縁上の父にして美濃守護代の斎藤左近大夫利政のこれまでの振る舞いを思い浮かべながらつぶやいた。
「親父殿、いや、左近大夫殿の思いがわからぬ者も多くあろうほどに、果たして守護殿を追い落としたは吉と出るか凶と出るか。」
彼の手には崇福寺で修業している快川紹喜なる剛直の僧からの檄文があった。
この僧は攻め寄せる三河鈴木家の大軍を前に、長良川を挟んだ崇福寺で100人ほどの僧や民衆と立てこもっており、弟子である稲葉右京亮良通などもこれを支援しているらしい。
快川紹喜は手紙の中で、斎藤利政が守護を追放して美濃国支配の実権を握ったことや、三河・尾張を押さえる鈴木家・織田家の連合が美濃の東部と南部を占領していることを激しく非難し、守護を盛り立てて秩序を取り戻すよう西美濃の諸勢力に盛んに手紙を送っていた。
対織田家防衛の要として――すでに退却したものの――竹ヶ鼻城を守っていた長井道利にもその呼びかけは届いていたが、父・斎藤利政がどれほど美濃国を守るために尽力してきたかを理解している道利からすれば、この僧の物言いは世の中が見えていないとしか思えなかった。
「ともかく、今は一息ついたところ。それがしはこの先も鈴木と織田を押しとどむるほかはない、か。」
◇
天文4 (1535)年の2度の大水の少し前のこと。
暗殺によって奪った長井氏の名跡をさっそく庶子の道利に譲って、自身は斎藤氏の同名衆となっていた斎藤新九郎利政が、守護・土岐頼芸に報告した。
「守護代殿、大桑に移るとの由。」
守護代というのは斎藤帯刀左衛門のことで、これは先に頼芸の兄・頼武に仕えた守護代だった。しかし、帯刀左衛門は利政にそそのかされて頼武を裏切り、頼芸の守護代の座に収まっていた。
不義理ゆえに当然のことではあるが、国衆の間ではどういうわけか過剰なほどに帯刀左衛門の評判は悪く、頼芸はこれを隠居させて利政に守護代職を譲ることを考えていた。
そのことを頼芸が口に出したことはなかったが、彼が帯刀左衛門に冷たく当たっているという話は国衆の周知となっており、当然、帯刀左衛門本人も知るところとなっていた。
これは先の報告より少し遡っての話であるが、帯刀左衛門の冷遇の噂が出回ると、利政はすかさず助言していた。
「かの者は仕出かした不義理を恥じる風でもなく己の扱いの不当なるを託ちておりまする。もしかの者、守護所を去ることあらば……。」
頼芸はこれを「帯刀左衛門に謀反の疑いがある」と理解した。
そして、利政の口から発せられたのが「大桑に移った」という言葉である。
頼芸は利政の思惑に乗せられて問いかける。
「戦支度をしておるか。」
「さても、どうでございましょうな。とはいえ、御屋形様(土岐頼芸)に断りもなく(枝広)館を去ったは無礼千万。それだけでも咎むるに値しましょう。」
利政の言は正しかった。
つまり、彼は「帯刀左衛門が謀反を企んでいる」とは言ってはいなかった。
決断を下すのは常に頼芸だった。それがいかに誘導されたものだとしても。
「いっそ兄君(土岐頼武)の死につきても、守護代殿に詫びてもらいましょう。」
また、しばしば利政はあたかも頼芸のために良いことを思いついたという風に提案をすることがあった。そして、頼芸が「それはよき案だ」と受け入れ、己が上手く機と力を使っているかのような錯覚を得ていた。
「兄君の室は朝倉の出。守護代殿が寝返らねば、御屋形様は兄君にも越前に移っていただくだけで済ます心算でござったものを、守護代殿が『返り忠』なぞ余計な欲をかくばかりに……。」
「それはそうだ。朝倉の姫もかようなことになったは、余としても無念。」
頼芸の兄・頼武は朝倉孝景の妹を娶っていた。しかし、守護代・帯刀左衛門が寝返って、落ち延びていた頼武の居場所を密告した際に、この朝倉の姫も2人の間の子も落命していた。
宿敵の頼武を排除したとはいえ、尾張に鈴木家・織田家という敵を抱えて背後の越前朝倉家と対立したままというのはよくない。
そこで利政は言う。
「であればこそにございまする。守護代殿の首を届けましょう。それを以て和議をなすのです。」
文武の才気ほとばしる利政の弁はたちまち人心をつかみ、他者を惹きつけた。
頼芸は彼の提案を最良と思ってただちに下知を発した。
かくして帯刀左衛門は利政によって即座に討たれた。
しかし、朝倉は和議を受け入れず、新九郎利政は左近大夫を名乗って守護代となった。
◇
天文4 (1535)年に大水があった。
その混乱を鎮めようと奔走する利政の姿は忠臣の極みであった。
その意味では、利政が守護権の行使に強く関与できるようになっていたのは、美濃国にとってはよいことであったのかもしれない。
洪水で館を流されて居所を移していた頼芸のもとに、あるとき、農民の年貢を減免するよう頼芸に命じられた国衆らが「これでは食っていけないから、命を撤回してくれ」と陳情に現れた。
これを聞き届けた利政は、頼芸の発言を待たずに、かつて見たことがないほど激しい怒りを見せて国衆の一団を恫喝した。
「何を申すかっ!そも御屋形様のご下命には素直に従うべきもの、そして、これだけの大水で住まいも親類も失い苦しむ民がおるというに、これを救わんがための御屋形様のお言葉を軽んじるとは!うぬら、今ここでそっ首を叩き落としてくれん!」
利政は、大水の被害を受けた農民の救済のために、諸役免除の命令を守護の支配地だけでなく、国衆の所領にも通達した。頼芸自身がそう望んで命じたかのような形で。
しかも、頼芸を介して大水の被害を受けなかった西美濃の土岐一門や有力国衆には普請や銭を出させ、さらには移動してくる米商人に対して一時的に関銭を課さないようにも命じた。
「まあ待て、左近大夫。この者らも我欲で申しておるのではない。とはいえ、おぬしらもわかるであろう?今は誰もが窮しておる。余もまた住まいを失っておる。皆で耐え忍ばねばならぬのだ。」
頼芸は盲目的に、利政が己の心の内を代弁してくれているとみなして、彼のこうした振る舞いをこの上なく頼もしく思い、彼を鷹揚に宥めるという自らの役回りに満足していた。
しかし、危難のときとはいえ、これが国人の在地支配権に対する過度な干渉であるのは明白であり、彼らは不満を募らせた。
一方で農民や半農の土豪らは守護の慈悲に感謝しており、国衆も強くは反抗できなかった。困窮から一揆に走られては困ると思ってのことだ。
その中で左近大夫は守護に対する己の献身を示すとともに、守護と国衆の分断をさらに深める手を打っていた。
「御屋形様、南の鈴木と織田はこの大水で当家が力を落としたと見れば、その心持ちの卑しきほどに、ただちに攻めかかってまいりましょう。これを押しとどむるには、御屋形様の勢威の健在なるを示さねばなりませぬ。」
「ほう、いかにせん。」
「まずは守護所を新たに建てましょう。どうぞ我が井之口をお役立てくだされ。」
我が井之口とは言いつつ、この地は元は長井氏、その前は斎藤氏の管理下にあったから、利政からすれば奪い取った地である。
「かの地は背後が稲葉山なれば、館を麓に造れば、いざというときただちに山の城に移ることができまする。」
「おお!その方の奉公はまことに尋常(=けなげ)にして殊勝!事の落ち着きたる後には、きっと相応の報いを与えねばならぬ!」
国衆に負担を強いる中で守護所を再建することは彼らの反抗心を刺激することになった。
そして、斎藤氏の名跡を奪った利政は、そのことに関する反発も燻る中、元は斎藤氏のものだった稲葉山に対する支配権を守護所再建の名目で行使することができた。
これまで利政は守護の傘の下で着実に己の権力を強めてきたが、しかしいよいよそれも露骨になってきた。そしてついに、彼は頼芸を自城に隠すように住まわせ、外とのつながりを断ってしまった。
◇
この頃になると、利政に対する反発も、これを重用する頼芸自身に対する不満も、国衆の間では相当なものとなっていた。
その隙に東では三河鈴木家が多治見に兵を入れ、西では大野郡に越前朝倉家の当主弟・景高が侵入した。国衆はすぐにも敵を叩き出すべきだと騒いだ。
しかし、利政は守護の命令に反した国人の討伐を優先した。まずは内にて権力基盤を固めねば、外敵と戦うことなどできない、という判断である。
彼の庶子の長井道利はその考え方に賛同していたし、利政の謀略で人質になっていた明智家の家督相続者・明智定明も、いつのまにか利政の暴力的な才気に中てられてその信奉者の一人となっていた。
利政は、困窮した土豪や国人を稲葉山の城下に造らせた町屋に住まわせて保護し、自前の戦力を増やしている。
利政の智謀の鋭さ、圧倒的な暴力、自信に満ち溢れた態度は、それらに心酔する者たちを次々と生み出していった。
利政の振る舞いは度を越えていく。
彼がここまで急激な権力掌握に走ったのは、今川家との対立に一定の決着をつけた三河鈴木家がこの大水の混乱を機に攻めてくるという確信があったからだ。
強権を発動して自身の手許に即応戦力を集めておき、これを以て鈴木家を奇襲して追い散らす。こうして自身の権力掌握を正当化し、彼の権力行使に反発した国衆を悪者に仕立てあげてさらなる地盤固めを進めようという算段だった。
そのために短期間ならば無理な振る舞いをしても問題ないはずだった。
しかし、事はそのようには進まなかった。
三河鈴木家で突然、当主交代がなされ、しばらくしても鈴木家と織田家は攻めてこなかったのである。
こうなると、彼の強引な権力行使は大水の混乱を乗り切るという免罪符だけでは覆い隠せないほど行き過ぎたものとして人々にみなされるようになった。
本来は今こそ内を固め、不和を忘れて外敵の脅威に備えねばならない。なにしろ、遠江を獲得して戦力が倍増した三河が尾張と同盟して力を蓄えているのだから、外敵の脅威はむしろ増しているのだ。
しかし、それは利政の都合である。
彼の振る舞いで身内が殺されたり土地や特権を削られる羽目になったりした者たちからすれば、利政の物言いは勝手であった。
説得はできない。
そうなれば、暴力である。
商人と太いつながりのある利政は、免税の命令を無視して商人から銭を取った者について告発を受けると、ただちにこれを追捕し、頼芸の許可を得て罰を与えた。
守護権の徹底を図るという点で、頼芸は当初こそ、困窮して反抗する力もない国衆に対して利政が厳しく接するのを黙認していた。
しかし、捕縛された者が稲葉山で日々鞭で打たれてあげる叫び声を聞いているうちに、だんだんと気が滅入ってきていた。
「……また棟別を渋る者がおったのか?」
「まったくけしからぬことにござりまする。とはいえこやつは、怪しき書状を持っておったために、隠したることを明らかにし、白状を作りて御屋形様にお裁きをお頼みせんと思うておりまする。」
「左様か……。」
書状を持っていたという男は水責めの拷問で発狂したのか、言葉にならない悲鳴を上げ続けている。
頼芸はそれを一瞥すると、すぐに奥の部屋に引っ込んだ。
平然としている利政の手前、なかなか顔には出せないが、捕らえられた者たちのあげる怨嗟の声が連日聞こえてくる中で、頼芸は精神的に塞ぎがちになっていた。
どうやら利政の手下にとってはこうした暴力行為はさほど珍しいものではないようであまり気にした風ではなかったが、利政の居城に移って初めて生活をともにするようになった頼芸には容易くは受け入れがたいものだった。
ただでさえ外の話があまり入ってこなくなって孤立している彼は、近頃は家業である鷹絵の研鑽に打ち込むふりをして人々の前に姿を現さなくなっていた。
「御屋形様にお目通り願いたい。」
「御屋形様は気鬱ゆえ会いたくないとのことだ。かように書いてお遣りになられておる。」
ある日、斎藤氏でわずかに残った有力者の1人である斎藤彦九郎入道が、利政の専横を頼芸に直訴しようとやってきた。それを利政はそっけなく追い返そうとする。
「その文を拝見しても?」
「疑うか?御屋形様の書き振りぞ。」
事実、その書き物は頼芸の自筆であり、彦九郎入道は唇をかんだ。
利政はそれを内心で冷笑しながら見ていたが、彦九郎入道はなおもあれやこれやと言い募ってなかなか引き下がろうとしない。
「気鬱というのであらば、それがしの方で医者の手配をいたしましょう。医者に伝えるためにも、ご様子をうかがいたくてござる。」
「医者ならばそれがしがすでに手配しておる。」
「では、鷹狩にお招きいたしましょう。無論、御屋形様にはご無理をおかけいたしますまい。鷹の飛び交う様をご覧いただき、さすればお心も晴れやかになろうというもの。」
「ならぬ。御屋形様は飛び交う鷹を描くにあらず、動かぬ鷹を描くのだ。鷹は何羽もこの城におるで、御屋形様はそれでご満足いただいておる。」
「では――」
こうした問答を幾度もするうちに、利政は彦九郎入道が何か時間稼ぎをしていると察知した。
そして、問答無用でこの男を拘束し、自身で手下を率いて城内を見回ると、頼芸の生まれたばかりの男児の姿がなくなっていることが判明した。
利政は反乱分子がこの赤子を担いで蜂起すると断じ、直ちに戦支度を始めた。
その間に、哀れ彦九郎入道は鋸引きの上で磔刑とされ、頼芸の弟の頼満は賊の侵入を手引きしたという名目で釜茹での刑で無残にも殺された。
頼満が殺されたのはもちろん彼が反乱の旗頭になりかねないからだが、守護権の集中を図りこれを代行するという形をとる利政にとって、頼芸からその子への家督相続を安定させようというのもまた同時に本心であった。
残酷な処刑を間近で見させられながら、利政から安定した家督相続への尽力を誓われ、「次のお子に恵まれますよう」などと言われた頼芸は、とうとう夢うつつの境目が曖昧となり、ぼうっとする時間が増えていった。
◇
「ふん、各務も稲葉も動かぬか。」
「守護権を臣下の身にて壟断するなぞ、利政の増長はとどまるところを知りませぬ。これを座視しておっては道理は失われ世はますます乱れましょう。それがわからぬでもあるまいに。」
「所詮は国侍ということか……。」
土岐頼芸の弟・揖斐五郎光親は、内心の焦りを隠し、しかし明らかに苛立った声で言った。
それに答えた弟の鷲巣六郎はひたすら嘆くばかり。
揖斐五郎は先の尾張侵攻の際にも一軍を率いた有力武将であり、その他の国衆と同じく利政の台頭をよく思っていなかった。
とはいえ、彼の居城の揖斐城は近江・越前方面から流れてくる揖斐川が山から平地に出るあたりにあり、利政が好き勝手している中濃とはやや離れていて利政の振る舞いを直に知っているわけではなく、三河・尾張と面する地域の住人に比べて外敵に対する危機感も乏しかった。
そうした温度感の違いのためか、同じく先の尾張侵入で一軍を率いた頼芸の妹婿・各務盛正は、所領のある各務原が尾張に接することから反乱に加担しなかった。
北方城の伊賀安藤氏はどっちつかずな回答しか寄こさず、利政の承認を得て牛屋城(大垣)のあたりに進出している氏家氏は返事をしなかった。
揖斐城に近い稲葉氏は、かつての土岐家の内紛で親族を多く失ったことから土岐氏に対して複雑な感情があり、当たり障りなく「土岐家が再び分裂することは望まない」という返事を返すのみで、姻族の国枝氏や牧村氏とともに不干渉の立場だった。
揖斐と鷲巣の兄弟の呼びかけに呼応したのは、近江に抜ける道のそばの垂井などを領する長屋氏と、侵入していた朝倉家当主弟・景高に対する対処で兄弟と協力していた鷹司氏くらいで、戦力はかなり心もとなかった。
結局、揖斐五郎は兵力不足の不安を抱いたまま守備を固め、長屋景興と鷹司冬明が早々に討たれると、包囲の軍勢をかいくぐって弟とともに近江国に落ち延びた。
土岐頼芸の幼い男児は混乱の中で行方不明となり、まだ他に男児が生まれていない頼芸はさらに気を落とすことになった。
とはいえ、美濃国としては、守護代・斎藤利政のもとに権力と戦力を集中することができるようになり、鈴木家・織田家の大侵攻に対する備えは間に合った。
しかし、問題は、そもそもその大侵攻が防ぎようのない規模だったことである。
天文7 (1538)年、若狭国と大和国、南北で騒乱を抱える上方の情勢に好機を見た三河鈴木家の若き当主・重時は、あたかもその上方まで一気に突き進むがごとき勢いで進軍を開始した。
【メモ】長井道利と斎藤利政(道三)の父子関係は本当は不明です。




